【読書ノート】『集合的選択と社会的厚生』2章

第2章 集合的選択ルールとパレート比較

この章から、個人の選好からどういう風に社会的決定を導き出すか、という話に入る。いつものことだけど、以下はあくまで自分の理解でのまとめ方。本文にはない独自の解釈や例をふんだんに入れているので注意。

前章では個人の選好の合理性とはどういうものかという話があれこれあって、性質αとか性質βとかのめんどくさい話がでてきた。で、この章では、性質βを満たすような個人が前提として議論が進められている。つまり、「反射性と推移性と完備性を満たすような選択をする人」ということだ。

いやあ、そういう条件を満たす人ばかりではないよ、というツッコミはあるかもしれないけれど、そこにこだわってたらラチがあかないので、ツッコミには目をつぶって議論は進む。

集合的選択ルール

さて、個人の選好順序から社会として何を決めるか、というルールがほしい。そんなルールいらないよ、という人もいるかもしれないけれど、それだと独裁者を認めることになってしまう。政治とか民主主義とかめんどくさいからそれでいいです、という人も多そうだけど、「それでいいです」という意見自体、独裁者の牛耳る社会では何の意味も持たないだろう。

そういうルールを「集合的選択ルール」という。で、集合的選択ルールの一種に、「パレート関係」に基づくものがある。

パレート関係ではうまくいかない

パレート関係とは、「その社会のすべての人がyよりxの方がマシだと考えているのなら、社会としてもyよりxがマシだという判断を下す」というものだ。

これは当たり前のことを言っているように思える。国民が全員「消費税10%より8%の方がマシだ」と考えているのに国が消費税を12%に引き上げたりしたら狂ってる1

パレート関係にもとづく集合的選択ルールは、反射性と推移性は満たすことが証明されている。しかし、完備性を満たすとは限らない。つまり、人々の選好順序のパターン次第では、xが良いのかyが良いのか社会として決められない状況が生じうる。逆に、xが良いのかyが良いのかを社会として決められるためには、人々の選好順序がある程度そろっていないとならない。

具体的には、「ある人がyよりxの方を好む場合、他の人たち全員がyよりxの方をマシだと考える」というかなり非現実的な条件が満たされてないとならない。もちろん現実にはこんなことはレアケースだろう。ある人が憲法維持より憲法改正を好んでいても、他の人たちは逆に憲法維持を好んでいる、みたいなケースはいくらでもありうる。

というわけで、パレート関係という考え方自体は極めて穏当なものなのだけど、そういう集合的選択ルールで社会のいろんなものごとを決めていこうとしてもうまくいかないことが結構あるということになる。

パレート関係を拡張してみよう→でもやっぱりうまくいかない

どうもパレート関係だとまずいところがあるのだけど、もうちょいと緩い基準にしてみたらどうだろうか? そこで、カルドア基準というのが導入される。

カルドア基準というのは、ざっくりいえば、xとyを直接比較するのではなくて、xのポテンシャルとyを比較する考え方。「こいつは今はぱっとしないけどポテンシャルはあるんだぜ……まあ、かわいがってくれよ」みたいなこと2。xのポテンシャルとyを比較して、xのポテンシャルの方が人々にマシだと思われてるなら、xの方を社会として選ぶことになる。

たとえば、「経済成長社会」と「定常型社会」のどっちを目指すかを社会で決める、という状況を考える。経済成長社会は人々の格差が激しくなるので、人々は経済成長社会よりも定常型社会を好むとする。単純なパレート関係だと、この社会は定常型社会を目指すべきだということになる。しかし、経済成長をきちんとやった上で社会保障制度をうまいこと運営して所得を再分配すれば格差がかなり縮められる、ということがわかったら、人々は定常型社会よりも経済成長社会の方がマシだと考えるかもしれない。こういうとき、定常型社会より経済成長社会を厳密に好む人(つまり、単に「マシ」というのではなく、経済成長社会を好むという明確な選好を持っている人)がひとりでもいるとしたら、この社会は経済成長社会を目指すべきだ。カルドア基準だとそういうことになる。つまり、「所得を再分配してみたらどうだろう?」みたいに、経済成長社会のポテンシャルも含めて評価しているわけだ。

ただ、カルドア基準を持ってきても、人々の選好のパターン次第では矛盾する結果を出してしまうことがある(たとえば「定常型社会よりも経済成長社会の方がよい」という結果と「経済成長社会よりも定常型社会の方がよい」という結果を同時に出してしまうとか)。

じゃあ、そういう矛盾が生じないケースに限ってカルドア原理を適用するようにしたら? それがシトフスキー原理という考え方。でもそれでもやっぱり矛盾する結果が出ることがある……。人々の選好パターンがある条件を満たせば、とりあえず推移性くらいはシトフスキー原理に持たせることができる。でも完備性までは無理みたいだ。

感想

集合的選択ルールをあれこれ考えてみても、個人の選好をうまく社会的決定に導いてくれるようなルールはなかなか見つからないなあ、というのを示すための章なのかな? とくに楽しくはない。パレート関係だとうまくいかないケースが多いだろうなあ、というのは別に補題の証明を真面目に追いかけなくても誰にでも想像がつく。

パレート基準にしても、カルドア基準にしても、へんな価値判断が入ってないという点では受け入れやすいものだ。つまり、どんな価値観の人だって、みんながyよりxがマシだと思ってるのなら(あるいはyよりxのポテンシャルがマシだと思ってるのなら)、社会としてもyよりxを優先すべきだというのは納得いくことだと思う。だけど、誰もが納得いく基準であるだけに、かえって使い道がないという言い方もできそうだ。そもそもみんながそろいもそろってyよりxがマシだと思ってるような状況なんてほとんどあり得ない。


  1. と書いてみて、本当にそうかな? とちょっと思った。たとえば、国民全員が核戦争を望んでないとしても、外国から先制攻撃されたときに核ミサイルが自動的に発射されて核戦争が引き起こされるというケースはどうだろう。この場合、そういう自動反撃システムを考案した人自身も核戦争は選好していないかもしれない(あくまで自動反撃システムは抑止力として考えていて、実際に発動されることは望んでいない)。ただ、このケースではそもそも核戦争をするかしないかということについて社会的決定をしているわけではないので、今の議論とは無関係な話題なのかもしれない(「核戦争をするかしないか」ではなく「抑止力としての自動反撃システムを設置するかどうか」が社会的決定の対象と考えればいいのかもしれない)。

  2. 本書中では「ポテンシャル」なんて表現は使われてません。ただ、自分としてはこういう言い方の方がしっくりくるので使ってみた。もうちょっと理解が進んだら赤面して削除するかもしれないけど。