【アニメ感想】「輪るピングドラム」ラストまで

やっと見終わった。しんどかった。

この作品は、この作品世界の中でしか通用しないシステムで成り立っている。で、そのシステムを構築する要素として、運命とか、贈与とか、罪とかがある。で、そのシステムをちゃんと理解しないとこの作品を見たことにならない。『けいおん!』だったら、「あずにゃん今回もかわいかったよね!」という感想でも構わないけど、ピングドラムに関しては、誰でもいくらかは批評家っぽい姿勢になる必要がある。「なんかよくわかんないけど、電車ん中で苹果がマイケル・ジャクソンみたいなポーズとったのエモかったよねッ!!」みたいな感想を持つ人はたぶんいないと思う。

システムを理解しないと作品を見たことにならないわけだから、見る側もかなり頭を使うことになる。だからしんどい。で、見終わった今もちゃんとシステムを理解してる自信がないから、考えながらまとめていこうと思います。

何者にもなれない者たちの分類表

下表のような分類を考えてみた。見当違いかもしれないけれど、たいしてアニメを見慣れているわけでもない素人の戯言なので、気にしないでください。

未来志向 過去志向
運命否定派 冠葉、晶馬、(陽毬) 多蕗、ユリ
運命肯定派 苹果 真砂子

左上のセル:冠葉と晶馬は「運命という言葉が嫌い」とはっきり言ってるので、「運命否定派」になるだろう。陽毬は自分の過去を思い出してからはだんだんこの分類自体から脱却していくので、括弧に入れている。この三兄弟は、自分たちは血がつながっていないという過去を顧みずに家族を続けていこうとするので、「未来志向」となる。

左下のセル:苹果は「運命という言葉が好き」とはっきり言っているので「運命肯定派」。で、運命日記の内容を未来の予言の書と考えて、それを実現していこうとするので、「未来志向」。

右上のセル:多蕗とユリは運命に復讐したい人たちなので「運命否定派」。で、未来に向かって何かを実現しようという考えはさらさら無くて、ひたすら過去にとらわれ続けるので「過去志向」となる。

右下のセル:真砂子は微妙だけど、「運命肯定派」になると思う。つまり、この人は「本当はわたくしが冠葉の妹なのだ」ということを主張しているのだから。運命から目を背けて「家族ごっこ」をしようという試みをすり潰して、「本当の血のつながった家族という運命を直視せよ」というのが真砂子の言い分だと思う。とはいえ、それはやっぱり過去へのとらわれでもあって、「過去志向」ということになる。

で、こういう分類を作ってみて思ったのだけど、やっぱり苹果の位置づけがすごく面白い。「運命を肯定し、かつ、未来志向」というのは普通はあり得ないと思う。だって、運命を肯定するということは、「すべては運命によって決まってしまっていて、どうあがいたって未来は変えられない」という諦観に至るのが普通だから。つまり、運命を肯定する人は基本的に過去志向だ。だけど、桃果の運命日記というものが存在するために、苹果は「何としても運命を実現させるために死に物狂いであがく」という、諦観とは全く真逆の、極度にアグレッシブなキャラになっている。

この苹果の類型に比べると、他の3類型というのはたぶん現実世界にも普通にいる人々の類型になっていると思う。苹果の類型だけが、現実世界ではあり得ない類型になっている。

何者にもなれない者たちに対する桃果の贈与

実は、桃果はこの分類表のすべてのセルに関与している。

未来志向 過去志向
運命否定派 冠葉、晶馬、(陽毬)
→ ペンギン帽1
多蕗、ユリ
→ 桃果の思い出
運命肯定派 苹果
→ 運命日記
真砂子
→ ペンギン帽2

これが、何者にもなれない者たちに桃果が贈与したものの初期配置。

で、これによって、一応彼らは生きていくことができる。ペンギン帽のおかげで陽毬とマリオさんは命をつなげるし、苹果は運命日記の中身を成就させるという生きる目標を持つことができる。で、多蕗とユリは桃果の思い出を宝物みたいに抱えて生きている。

でも、桃果の能力というのは完璧じゃない。陽毬とマリオさんは完全に治ったわけではないし、苹果はひとりでは運命を成就できない。多蕗とユリは桃果の亡霊を追い続ける。それで、運命日記の奪い合いが起こり、配置が変わる。

未来志向 過去志向
運命否定派 冠葉、晶馬、(陽毬)
→ ペンギン帽1
多蕗、ユリ
→ 桃果の思い出+日記半分
運命肯定派 苹果
→ (なし)
真砂子
→ ペンギン帽2+日記半分

これで、苹果は完全に持たざる者になってしまったのだけど、それはむしろ、桃果から解放されたという見方もできる。運命日記を奪われた後、苹果はかなり普通の女の子になって、晶馬に恋したりする。苹果の場合、桃果からの贈与が、逆に呪いになっていたのかもしれない。

桃果の贈与がなんで不完全なのかというと、贈与が一回きりで終わってしまうからじゃないだろうか。贈与というのは連鎖しないとその効果を持続できない。一方、運命の果実は、冠葉→晶馬→陽毬→冠葉という順序で贈与の輪が閉じられる。桃果の場合、人々は桃果から贈与されたものにしがみつくので、贈与が連鎖していかない。じゃあ、なんでそうなるかというと、桃果が神様みたいな存在になっているからじゃないだろうか。キリストは人々に一方的に贈与するけど、人々がキリストに贈与することはない(ここらへんは、神学とかちゃんと勉強してないのでよくわからんけど)。

贈与から「分け合う」へ

ところで、冠葉→晶馬→陽毬→冠葉という順序で贈与されたものは、運命の果実だ。運命の果実を食べることは罪だ。神様は罪を犯さない。だから運命の果実の贈与は、神様(桃果)ではなく、人間(冠葉と晶馬と陽毬)の間で行われることになる。

で、これがただたんに順々に贈与されて冠葉の元に戻ってくる、というだけなら、罪を冠葉がひとりで引き受けるだけ、ということになる。ポイントは、贈与の過程で運命の果実を分け合っていること。冠葉は晶馬と、晶馬は陽毬と、陽毬は冠葉と、それぞれ運命の果実を半分ずつに分け合っている(確か)。だから、3人が3人、罪を引き受けることになる。たぶん、その状態が「ピングドラム」ということなんじゃないか。

運命の果実そのものはピングドラムではないと思う。プリンセスなんたらは「ピングドラムを探すのだ」と言っていた。運命の果実自体は3人とも、すでに過去に贈与されていた。3人がやっていなかったのは、それを「分け合う」というループを閉じることだ。陽毬が自分の罪を引き受けて、冠葉と運命の果実を分け合うこと。そうして、円環が閉じる。それが「輪るピングドラム」ということではないか。だから、「運命の果実を一緒に食べよう」が、ピングドラムの実現を妨げようとするサネトシを滅ぼす呪文となる。

輪る自己犠牲

運命日記が奪われてからの苹果はかなり普通の女の子になってしまうのだけど、物語から退場したりはしない。持たざる者になった苹果は、電車の中で「運命の果実を一緒に食べよう!」と叫び、炎に包まれる。桃果と同じように、苹果は自己犠牲という形でしか誰かに贈与することができない。

その炎を晶馬が引き受ける。桃果の場合、贈与の代償は桃果がひとりで引き受けなければならなかった。しかし、苹果には晶馬がいたので、炎は晶馬たちの「分け合う」ループの中に取り込まれることになる。

冠葉と晶馬も自己犠牲をすることで、陽毬と苹果を救う。しかしこの自己犠牲は、95の事件を止めようとした桃果による自己犠牲とは性質がちがう。桃果の自己犠牲はひとりで自己完結したものだったので、サネトシという亡霊を未来に残してしまう。

この作品には、孤独な自己犠牲によってでは問題を根本的に解決することはできないという前提があるように思う。冠葉も陽毬を救うために自己犠牲的にテロ活動にのめり込んでいくけれど、それは結局は陽毬を救うことにならない。自己犠牲さえも分け合うことで、本当に誰かを救うことができる。

罪には罰が伴うわけだから、進んで罪を引き受けることは、進んで自己犠牲という罰を引き受けることでもある。罪と罰を分け合うループを閉じることが、「輪るピングドラム」だという言い方もできるかもしれない。

何者でもないこと

運命乗り換え後の世界で、陽毬と苹果はテレビでダブルHの姿を見ている。こっちの世界では、陽毬とダブルHは何の関係もない赤の他人だ。陽毬はもう「もしかしたらアイドルになれたかもしれない女の子」ではない、本当に普通の女の子になっている。ある意味、「何者でもない」。でも、こちらの世界の陽毬は、「何者にもなれない」ことを少しも気にしていない。

「何者にもなれない」ことは、前の世界で陽毬が自分で選んだ罰でもある。ただし、ひとりで引き受けたのではなく、冠葉と晶馬と分かち合った罰だ。だから、ふたりの残したメモを見て、それが誰のメモなのかもわからないのに、陽毬は涙が止まらなくなる。忘れてしまっても、忘れられてしまっても、何者でもないことは孤独ではない。このシーンがあることで、この作品はフィクション世界から少しはみ出す。この作品を観ている人も、たぶん何者でもない人たちだ。何者でもない自分の罰は誰と分け合ったのか、思い出せないとしても、ありえないとは誰にもいえない。