【読書ノート】『モラル・エコノミー』第5章

第5章リベラルな市民文化(p107-)

イントロ(p107-)

資本主義は卑しいものだみたいに思う人が多いかもしれないけれど、そんなことない。

たとえば、ニューヨークで外交官による駐車違反の件数を調べると、資本主義国のしっかり根付いた国の外交官はほとんど駐車違反をしないことが明らかになっている。つまり、資本主義社会というのは、協力的で寛大な社会的選好をもつ市民文化を維持してきたのだ。そのことを本章では見ていこう。

で、そういう市民文化はリベラルな社会秩序に依存している。ここでいう「リベラルな社会」というのは、こういうことだ。まあようするに、資本主義が機能していて、人権が保障されていて、法律がちゃんと機能しているような社会ってことだね。

リベラルな社会:経済的な財やサービスの配分を広範囲に市場に任せること、政治的権利の形式的平等、法の支配、公共的な寛大さ、職業上の、そして地理的な移動性に関する人種、宗教、あるいは他の生来の偶然的なものに基づく障壁の低さによって性格付けられる社会。

リベラルな社会の例:スイス、デンマーク、オーストラリア、アメリカ、イギリス

リベラルでない社会の例サウジアラビア、ロシア、ウクライナオマーン、狩猟採集や低技術の農業を行っている小規模社会

経済は人々を生産する(p110-)

ここで、インセンティブと選好の関係を考え直してみよう。なぜそうするかというと、ある種の選好はリベラルな社会でこそよく育つものだからだ。そのことをこの先の章で明らかにしていくことで、リベラルな社会というのがなぜ大事なのかがわかっていくはずだ。

前章まで、私は、インセンティブは社会的選好を掘り崩すとしつこく指摘してきた。クラウディングアウトという奴だ。でも、これはちょっと不正確な言い方だ。というのは、インセンティブが選好に与える影響はもっと複雑だからだ。

選好を「状況依存的選好」と「内生的選好」の2つに分けて考えてみよう。

状況依存的選好インセンティブがあるかどうかという状況の違いで選好が変わる。クラウディングアウトが直接関わるのはこっちの選好。

内生的選好:人々が長期的に学習することで形成した選好。

内生的選好というのは学習されるものだ。たとえば、自立した仕事をしている人は、プライベートでも自立を重んじる。

インセンティブと選好の進化(p113-)

インセンティブは内生的選好にどんな影響を与えるんだろう?

インセンティブがあると、他人の行動をなんでもかんでも「利己的」と見なしてしまう偏見が生まれがちだ。たとえば、環境保護運動をしている人がいたら、「どうせどっかから金もらってるんだろ」とか卑しいことを考えてしまうのだ。

で、人々は他人に同調しやすい傾向を持っている。他の人が利己的に行動してるんだったら、俺だって利己的に行動して何が悪い、と考えてしまう。こんな風にして、インセンティブは人々の内生的選好を利己的なものにしてしまうのだ。

インセンティブの持続的効果(p116-)

内生的選好は、状況が変化しても長期的につづくものだ。だから、インセンティブが無くなってもクラウディングアウトによる影響は持続する。

たとえば、ハイファの託児所では、罰金を取りやめた後でも遅刻の頻度は元に戻らなかった。で、実験室実験でも、インセンティブを取り除いた後もクラウディングアウトによる影響が持続するのが確認されている。

市場と公正な心性(p125-)

市場にさらされている社会ほど、実は人々が市民として振る舞うようになる。市場の市民化効果って奴だ。

最後通牒ゲームというのを様々な社会の人々を対象にしてやってみた。すると、あまり市場にさらされていない社会の方が、人々が利己的に振る舞う傾向が観察されたのだ。

協力と懲罰における文化的差異(p128-)

懲罰を伴う公共財ゲーム実験というのをやってみた。これは、「懲罰オプション」という選択肢のついた公共財ゲームだ。つまり、プレイヤーは自分の利得をいくらか消費することで、拠出をしないずるいプレイヤーに対して懲罰を与えることができる(懲罰を与えられたプレイヤーの利得は減る)。

懲罰オプションを選択するかどうかは各プレイヤーの自由だ。むかついたら使ってもい。だけど、その分自分の利得も減るという諸刃の剣だ。本当に利己的な人ならそもそも使わないだろう。

このゲームをいろんな文化圏の人たちを対象にやってみた。どの国でやっても、懲罰オプションなしだと拠出額はだんだん減っていく。だけど、懲罰オプションがあると一定水準の拠出額がキープできる。

そして、その国で「法の支配」「民主主義」「個人主義」「社会的平等」のポイントが高いほど、懲罰オプションがあるときに拠出額が大きいことが明らかになった。つまり、リベラルな社会ほど、人々は利他的に振る舞っているわけだ。

懲罰オプションを使う人が利他的だ、というのはピンと来ないかもしれない。でも、そういうものじゃないかね? ずるい奴を叱るなんて、普通は嫌なものだ。怖い人だと思われたくないし、叱る時間があったらスマホで猫動画でも見てた方が楽しい。だけど叱らなきゃならないときは叱る。そういう人は、利他的に振る舞っているのだ。

リベラルな社会と他の社会における持続的な社会秩序(p131-)

実験では、「反社会的懲罰」というのも観察された。つまり、懲罰した奴に仕返して懲罰する、というものだ。個人的な恨みで懲罰を下すわけだから、それは利他的というよりも、「反社会的」だということになる。

で、実はさっき挙げた「法の支配」とか「民主主義」のポイントが低い国(つまりリベラルでない社会)ほど、こうした反社会的懲罰が観察されやすかった。

そういう国において、懲罰を受けた人は「恥」ではなく「怒り」を感じたのだろう。「俺がずるいことしたから懲罰を受けたんだなあ。ああ、恥ずかし」じゃなくて「懲罰受けてむかつく!」となったわけだ。だから反社会的懲罰という愚行に及んだのだ。そうした国では、懲罰というのは正当性のあるものとして受け止められていないのだろう。懲罰ではなく、ただの「攻撃」と見なされてしまったのだ。

でも、そういう社会において「懲罰」というものが存在しないというわけではない。ただ、そういう社会では懲罰というのは「血族集団の中」みたいな狭い範囲限定で行われるものなのだ。その範囲を超えて、血族でもないのに懲罰をしようとすると「攻撃」と見なされる。子どもがいたずらしたときに親が叱るのはOKだけど、先生が罰を与えたら親が怒鳴り込んでくる、みたいなのかな1

逆に、リベラルな社会だと、むしろ道徳規範というのはそういう縁故を持たない人たちによって維持されている。教師とか警察とか裁判官とかだ。だから、そういう社会において懲罰は正当なものであり、個人的な「攻撃」とは見なされない。だから反社会的懲罰が観察されにくいのだろう。

穏やかな商業とは?(p135-)

じゃあ、なんだって市場にさらされた社会だと人々は寛大に振る舞うようになるんだろう? 市場の市民化効果はなぜ起こるのか?

市場だと人々は評判を気にするから、というのがアダム・スミスの考えだ。市場で商人が好き勝手に振る舞ってると、「あいつはマジでクソ野郎だ」という評判が立ち、その商人はもう商品を買ってもらえなくなるだろう。

でも、その説明だとちょっと不十分だ。だって、市場だと知らない人同士で取引することも多い。評判を気にせずに大もうけすることもできるわけだ。

リベラルな市民文化(p138-)

リベラルな社会というのは、人々のリスクを低減するものだ。たとえば好き勝手に暴力を振るうような奴は警察に抑えられるし、ずるした奴は裁判官に裁かれる。

そうすると、血族による結びつきみたいな家族的・家父長的絆が無くても社会が機能するようになってくる。逆に、リベラルな制度の方が有利になってくる。で、そういうリベラルな制度がしっかりしていれば、社会的選好を持っていてもつけ込まれるリスクが減る。

法がしっかりしていれば、他人につけ込まれるリスクが減るので、人々は協力的に行動するようになる。で、そうなれば人々は安心して市場で取引することができる。で、市場で安心して取引できるわけだから、法を犯してまで利益を得ようとする人もあんまり出てこなくなる。こんな風にして、法と市場が相互に強化し合い、人々の市民としての社会的選好も強化される。これぞリベラルな市民文化だ。

となると、本来、市場がしっかりしているリベラルな社会であれば、インセンティブはクラウディングアウトではなく、クラウディングインを引き起こすはずだ。次章では、そういう風にインセンティブをうまいこと使いこなす立法者のあり方を考えていこう。

コメント

ああ、今回もわかりにくかった。話の脈絡がよくわかんないまんまに次のトピックに移ってしまうことが多い。本文にない例を入れたりして補足したけれど、適切な補足になってるかはよくわからん。

さて、ボウルズの今回の議論を踏まえると、ボウルズの考える市民というのは、単に社会的選好を持っている人というのではなくて、市場や法のしっかりした、リベラルな社会において社会的選好を持っている人ということになるみたいだ。

だけど、こういう「市民」の捉え方だと、リベラルな社会に住んでる人はみんな市民だということになってしまわないだろうか? 注でモンスターペアレントにちょっと触れたけれど、リベラルな社会にだってモンペみたいに「懲罰」というものの正当性が理解できない人はいる。つまり、リベラルな社会の中にも、市民と呼べる人と、市民とはとうてい呼べない人が入り交じっていると思う。

センやヘーゲルだと、公共的討議ができる理性的な人たちが市民として捉えられていると思う。つまり、個人ベースで市民を捉えている。だけどボウルズは社会ベースで市民を捉えている。つまり、リベラルな社会に住んでいる人はみんな市民だ、ということだ。だけどその捉え方はあまりに雑すぎるのではないだろうか?

「雑」というより見方が「マクロ」なのだ、という言い方もできるけどね。つまり、ボウルズのようにマクロな見方をするからこそ、市民としての社会的選好がどのようにして形成されてきたかを文化進化論的な枠組みで理解することができる。だけど、あまりにマクロすぎると役に立たないということも言えると思う。たとえば、むやみに市場を拡大していけば人々は市民になります、という単純な話ではないだろうし。進化論はあくまで後付けの説明であって、これからどうするべきかという指針にはなりにくいんじゃないか。


  1. これは、わかりにくいから勝手に入れた例だけど、今の日本でよく見られる現象でもあると思う。日本はリベラルな社会でないということなのかな。それとも、モンスターペアレントというのは欧米でも見られる現象なんだろうか。