【アニメ感想】「輪るピングドラム」6話まで

  • いつの間にかAmazonプライムで見られるようになっていたので見ている。
  • この作品は、たしかリアルタイムで見てた。で、半年くらい前にまた見始めたのだけど、忙しくなって20話くらいまで見てやめた。つまり、見るのは今回で2回半目くらいになる。
  • 自分は記憶力が良くない。だからこういう複雑なつくりの作品を見ていると、だいたい10話を越えたあたりくらいからストーリーについて行けなくなる。メモのつもりで、気づいたことをここにあれこれ書いておこうと思う。

垂直落下と水平移動

  • 見るのが2回半目とはいえ、まじめに毎回オープニングを見ています。早送り勢とはわけがちがうのだよ。
  • オープニングで、ペンギン帽かぶった陽毬がモビルスーツみたいに水平飛行する場面がある。印象的な動きだけど、改めて考えるとへんだ。カタパルトもブースターも無いのに、なんで水平飛行? 見たことないけど、ストライクウィッチーズの女の子たちってあんな動き方をするんじゃないだろうか。プリンセスうんたらのコスプレ姿も相まって、すごくメカ少女っぽくみえる。
  • また、苹果も水平に走る。いや、走ったっていいんだけど、女の子キャラがふたりとも水平に移動していくので、なんだってみんな水平にこだわるんだい、そっちに何があるんだい、と気になったりする。あと、横方向じゃないけど、「すりつぶさなくちゃ」お姉さんのボールもやっぱり水平方向(画面手前に向かって)に移動する。
  • 一方で、冠葉と晶馬は垂直に落ちていく。で、陽毬も垂直に落ちるんだけど、ただ、陽毬だけくるくる回転してる。
  • という風に、「水平」「垂直」「回転」という風にキャラの動く方向が制約されている印象を受ける。
  • いや、移動するときは大体「水平」「垂直」「回転」じゃないですか? と言われそうだけど、いやいや、「斜め移動」というものもあるでしょう。たとえば『電脳コイル』のオープニングだと、主要キャラが階段でとってんとってん斜め移動している。そういう動きがピングドラムの場合見当たらない。あと、『映像研』みたいに、ひたすら同じ場所で阿波踊りみたいのを踊っているというのもある。『平家物語』でも回転はあるけど、あれはカメラ自体も一緒にぐるんぐるん回ってる。ピングドラムの場合、カメラは固定してキャラだけがくるくる回ってる。
  • このアニメにはいろいろ「象徴」が出てくる。たとえばリンゴは愛の象徴であったり、カレーは幸せの象徴であったりする。後半で「子どもブロイラー」というのが出てくるけど、これもほとんど具体的な説明はなくて、「子どもから愛を奪う何か」とか「人を何者でもない者にしてしまうもの」とかの象徴として表現されていると思う。1995年の事件も、サリン事件そのものではなくて、「人々の運命を狂わせた何か」の象徴だ(地下鉄駅や路線図は「運命」の象徴かもしれない)。だから、キャラの動きも何かの象徴なんだと思う。
  • 「垂直落下(というか重力)」が「運命」の象徴であるというのはわかりやすい。運命日記も垂直落下してるし。人は重力にあらがえない。あらがえないという点で、重力は運命の象徴になる(ジョジョでもそういう表現が結構出てくる)。運命に支配されている冠葉と晶馬は、重力に引かれて垂直落下するしかないわけだ。で、運命にあらがえないわけだから、彼らからしたら「運命という言葉が嫌いだ」ということになる。
  • 「水平移動」は、「運命の乗り換え」の象徴ではないだろうか。苹果は桃果に成り代わることで、運命の乗り換えを図る。陽毬もまた、プリンセスうんたらに変身することで、死という運命を回避する。「苹果 → 桃果」「陽毬 → プリンセスうんたら」という風に変身することを「水平移動」という風に捉えているのだと思う。苹果が「運命という言葉が好き」というのは、自分は運命を乗り換えられるとポジティブに捉えているからだ。
  • じゃあ「回転」は? なんだって陽毬は落下しながらくるくる回ってるの?

回転しながら落ちるのは

  • 生殖の象徴なのかな? DNAのらせん構造のCGがくるくる回ってるイメージ。
  • 運命の乗り越えというのは、生殖(つまり遺伝子の生存戦略)によってしか実現できないものだ。つまり、親がダメだったものは子が乗り越えないとならない。苹果は生殖を経由しないで直に桃果に成り代わることで運命を乗り越えようとするけれど、苹果は苹果、桃果は桃果だ。「わたしは桃果だ」と思い込むことはできるけれど、「君は苹果だ!」と人に言われたら否定できない。
  • 生存戦略のイリュージョン世界では、生殖のイメージがいろいろ出てくる。卵子みたいのも出てくるし、精子みたいなロケットが爆走したりもする。モロに挿入のイメージみたいのも出てくる。だから生存戦略というのは生殖のことだ。だけど、生殖そのものというよりも、生殖の象徴だと思う。
  • プリンセスうんたらはいわば「エロ」の世界の住人だ。だけど陽毬はエロから完全に切り離されて、幼児退行している。回転はしてるけど、目を閉じている。だから、陽毬が運命を乗り越えるには、陽毬がエロに目覚めないとダメなんだと思う。リンゴというのは知恵の実であって、アダムとイブはリンゴを食べることで、裸でいることに恥ずかしさを覚えた。つまりエロに目覚めたわけだ。今はまだ、陽毬はリンゴのことを忘れているので、エデンの園で幼児退行をつづけている。しかし、リンゴのことを思い出すと、あの幸せな3人家族は終わってしまう。トラウマのように過去に蓋をすることで陽毬は幸せを引き延ばそうとする。でも、目覚めない限り、くるくる回りながら落ちていくだけだ。

苹果の身体の生々しさ

  • この作品はキャラの身体にあまりリアリティがない。象徴を優先するつくりになっているから、意図的に身体性を弱めているのだと思う。
  • たとえばペンギン帽を取り戻すために冠葉はトラックにしがみつくけど、あんなに引きずられたら脚が血まみれになると思う。へたしたら肉がこそげ落ちて膝の骨まで見えるくらいのダメージを食らうはずだ。それなのに普通に歩いて帰ってきて、ズボンには穴一つ開いてない。くりかえすけど、「リアリティがないじゃないか!」と批判しているんじゃなくて、わざとそういう演出にしてるのだと思う。
  • あるいは陽毬の病気もけっきょく何なのかよくわからん。レントゲン写真をいっぱい貼った部屋で医者があれこれ言うけれど、「長くはもたない」とか「奇跡だ」とか抽象的なことを言うだけで、病名さえもわからない。
  • だけど、苹果の身体だけがやけに生々しい。いちばん生々しかったのが、プリンセスうんたらのイリュージョン空間で穴に落とされた後、自力で這い上ってく場面。両足を大きく開いて、太ももは汗だくになっていて、まるで出産シーンだ。また、カレーを頭からかぶったり、スカンクにガスをかけられたり、まだ先の回だけど、巨大ガエルを顔に貼り付けたりもする。つまり、身体性の欠如したこのアニメにおいて、苹果だけがこういう「汚さ」を一身に引き受けている。
  • たぶん、このアニメを見て、苹果に関しては好き嫌いがかなりわかれるんじゃないだろうか。クレイジーすぎて無理という人もいれば、なぜか好きという人もいると思う(自分の場合はかなり好き)。苹果の身体の生々しさは人に嫌悪感をもたらすものでもあるけれど、生々しいからこそ惹かれるというのもある。納豆は臭いけど、臭いからこそやみつきになる、みたいな感じだ。苹果がいなかったら、この作品はもっと地に足の着かないものになっていたと思う。
  • もう少し話が進むと苹果は普通の恋をする。このクレイジーな物語の中で、本当に普通すぎる恋だ。でもそういう苹果を、個人的にはすごくいとおしいと思った記憶がある。それが無かったら、この作品をこんなに繰り返し見てないと思う。