【アニメ感想】「輪るピングドラム」20話まで

いかん、感想書くのをサボってるうちに、もうついて行けなくなってる。もう手遅れかもしれないけれど、気づいたことをメモしておこう。

「こどもブロイラー」を出す意味ってなに?

「こどもブロイラー」というのがよくわかんない。よくわかんないってのは、物語としてこれを出すことの意味ってなんなのかがよくわからない、ということ。

前の感想でも書いたけれど、この物語はかなり現実を無視しまくっている。冠葉の身体的タフさはもう人間のレベルではないと思うし、サネトシ先生みたいな異様な人が医者として陽毬たちに受け止められているのもおかしい。「リアリティがないぞ!」と突っ込んでいったらきりが無い。

それでも、現実と非現実の境界はいちおうある。たとえば、死んだ陽毬が生き返れば周りの人たちはみんな驚くし、プリンセスなんとかのイリュージョン世界もやっぱり「あっちの世界」の話だという位置づけになっている。あと、病室でたこ焼きをつくるのが非常識だという共通了解もあるみたいだ。決して、「何でもあり」というわけではない。

その一方で、「こどもブロイラー」に関しては、現実と非現実、どっち側の話なのか位置が定めにくい。普通に考えればこれもただのイリュージョン世界だ。ペラペラのこどもたちがシュレッダーみたいなので砕かれて「透明な存在になる」なんてのは、この物語の世界でもあまりに現実離れしている。だけど、この「こどもブロイラー」に陽毬や多蕗は実際に連れて行かれるし、彼らを晶馬や桃果が実際に救い出している。この描写をただの比喩だと考えることもできる。つまり、親に見捨てられて行き場のない陽毬や多蕗に対して、晶馬と桃果が何か優しい言葉をかけてあげた、というくらいのことを比喩として表現しているだけなのだ、ということだ。でも、だとしたら比喩としてあまりに大げさすぎるし、適切でもない。たとえば、多蕗を救い出すときに桃果は身体にダメージを食らうけれど、それはいったい何の比喩なのか。そして、晶馬達の父親が「こどもブロイラー」の存在を問題視してテロ事件を起こしたというのも、これがただの比喩だとしたら全く理解できなくなってしまう。だから、「こどもブロイラー」は比喩ではなく、本当に「こどもブロイラー」というものが実在する、という風に物語中で位置づけられているのだと思う。

でも、ああいういかにもイリュージョンっぽいものが物語の中に実在するとしてしまうと、物語自体のリアリティがかなり損なわれてしまうと思う。

もしかしたら、この物語において、現実と非現実の境目がだんだん曖昧になってきているということなのかもしれない。

たとえば、ユリの父親のつくった巨大なダビデ像みたいなのが街にそびえているイメージはかなり異様だ。これもイリュージョン世界の話のように思える。しかし、実際にその風景は他の人たちにも見えている。像はユリを抑圧する父のイメージなのだけど、ユリの精神世界の中にだけあるのではなく、現実に存在するのだ(そして、桃果の力で現実にその像は無くなってしまった)。

あるいは、マサコが祖父のとりついたマリオを救うために、祖父の調理したフグの刺身を食べて倒れる、というのも、途中まではただの夢だと思って観ていた。でも、これは物語中では現実のできごとで、マサコは実際にフグの毒でしばらく意識が戻らなかったのだ。

物語の回を追うごとに、現実と非現実の境目が曖昧になってきている。だから、「こどもブロイラー」が実在しても驚くことはない、ということなのだろうか。でも、そうなってくると物語自体がカオスになっていくと思うのだけど。わたしがこのアニメを観るのはこれで2回半目だ。2回目は、この20話目まで観たあたりで、ついていけなくなったのと、仕事が忙しくなったのとで、観るのをやめてしまった。物語自体がカオスになって、ぐずぐずに崩れていっている。完全に崩壊する前になんとか逃げ切ろうってことなのかな? 陽毬が晶馬から運命の果実を受け取る場面を観て感動する一方で、(でも、なんかもうカオスだよなあ)と白けかけてる気持ちもあった。現実と非現実の境目を曖昧にするというのは、面白い面もあるのだけど、うまく着地させないとただの寝言になりかねない。今は、寝言すれすれで物語が展開していると思う。

決して何者にもなれない

別の論点もメモっておこう。

この物語に出てくる大人はどいつもこいつもクズばかりだ。そして、こどもたちはそのクズな大人たちによって大きなトラウマを植え付けられている。冠葉と晶馬の親はテロ事件の犯人だし、ユリの父親は娘を虐待してたし、多蕗の母親も似たようなものだ。苹果の父親はダンディで性欲旺盛な浮気野郎で、マサコの祖父は強引な帝王教育によってマサコとマリオに強烈な精神的ダメージを与える。陽毬の母親は幼い陽毬を置き去りにして、姿さえも見せやしない。「どいつもこいつも…」って、『その男、凶暴につき』のラストの台詞を真似したくなるくらい「どいつもこいつも…」って思う。

で、そんなクズである大人たちに見切りをつけて、晶馬は陽毬に運命の果実を与え、自分たちで家族を始めることにする。それはもちろん嘘の家族だ。大人たちにトラウマを受け付けられた子どもたちは「決して何者にもなることができない」。そういう運命だ。だけど、嘘の家族をつくることで、運命から懸命に目をそらそうとする。だから晶馬は「運命」という言葉が嫌いだ。

晶馬に運命の果実を与えられた過去を思い出すまで、陽毬は完全に幼児退行している。それは、思い出したらもう家族ではいられなくなるからだ。だから幼児退行することで、トラウマを封印し、家族ごっこをつづけているのだといえる。幼児退行するのは無責任なのではなく、陽毬は陽毬なりに運命から懸命に逃げていたのだ、という見方もできる。

「決して何者にもなることができない」者たちの運命に対する対処の仕方はだいたい出そろってきたみたいだ。

対処法1:運命から目をそらして家族ごっこをつづける(陽毬、冠葉、晶馬)
対処法2:何者かに成り代わり何者かの運命を成就させようとする(苹果)
対処法3:自分だけ運命から逃れようとする卑怯者たちをすりつぶす(マサコ)
対処法4:運命に復讐する(多蕗、ユリ)

で、どれも失敗してしまう。だから、ピングドラムを探すのだ、ということになるのだけど…。

でも、物語からいったん離れて、現実問題として考えてみると、運命を変えるというのはとても難しいことだ。周りに良い大人がいなかったら、そもそも運命を変えようという発想自体持ちにくいだろうし。そういう人たちにも届く作品をつくる、というのはほとんど不可能かもしれない。サリン事件を題材に取るということもかなりリスキーだけれど、運命というものをテーマにすることも同じくらいリスキーだ。この試みが成功するのか、失敗するのか、まだよくわからないけれど、凡人なら絶対にこんな危険な橋は渡らない。この試みをしたというだけでも、やっぱり偉大な作品なんじゃないかなあ、と思う。

謎解きばっかりやってるのもダルいけど

いろいろ書いてきたのだけど、謎解きみたいのをするのは正直ダルい。「○○は××の象徴で~」とか、この物語を解釈しようとすると必然的にいろんな象徴や比喩を読み解くことになってくる。だから真面目に謎解きをやってるのだけど、ダルい。

で、このダルさは何なのかというと、「言いたいことあるならはっきり言えばいいじゃん」という不満があるから。ダリとかのシュールな絵を見るときも同じようなことを感じるんだけど、「○○は××の象徴で~」って解釈が可能なくらい作者の中で言語化できてるのだったら、わざわざ象徴なんて迂回しないで、口で説明すればいいと思う。

デヴィッド・リンチの映画なんかだと、どんな風に解釈してもぜったいにつじつまが合わないところが出てくるから、口で説明することはできない。本人も、ボクの映画は解釈とかしないで、そのままただ観てくれればいいよ、HAHAHA、みたいなことをどっかで言ってたし。

でも、この作品はある程度つじつまの合う解釈ができるようにできていると思う。たぶん、真面目な人はもうちょっときちんとした「ピングドラム論」を書いてると思うし。だったら、最初からそのきちんとしたピングドラム論とセットで視聴者に届ければいい。

残りあと4話しかないけれど、どんどんつじつまが合わなくなってくれたら良いのになあ。つじつまなんてかったるい。いやだわ、早くすりつぶさなくちゃ。