【小説感想】『ペンギンの憂鬱』

この小説の主人公は孤独な売れない小説家だ。いろいろ奇妙な事情があって、ペンギンや小さな女の子らと一緒に暮らしている。彼らに対して主人公はあまり愛情を感じていない。かといって、ほったらかしにするわけではなくて、かなり気を遣って世話はしている。傍目には仲の良い家族のように見える。ただ、そこには愛情がない。読み進めていっても彼らの間に絆が深まるということもない。そのことを主人公は多少気にしているけれど、かといって関係を深めようともしない。ひたすら愛情のないまま日々を過ごすだけだ。

こういうことを書けるのが小説の良いところだと思う。もしこういう物語を映画にしたら、「孤独な男と女の子、そして一羽のペンギンのあいだに生まれる不思議な絆」とか「ちょっとだけ優しい気持ちになれるヒューマンコメディ」とかのうざったいコピーがついた「いい話」になってしまうだろう。あるいはこれを漫画にしたら、男の孤独な性格を誰かがきつく非難して、目の覚めた男は「本当の幸せ」を探す旅に出るとかの「成長物語」になるかもしれない。つまり、映画や漫画の世界において「孤独」は病気であって、悪徳であって、癒やされたり非難されたりしなくてはならないものとして描かれがちなのだ。だから、「孤独」に対する解答は、「治療」か「成長」だということになる。

それに対し、小説における孤独は「治療」しなくていいし、「成長」して克服しなくてもいい。孤独は孤独のまま、肯定も否定もされずに描かれる。そこがとても開放的だと思う。小説は道徳の教科書ではないのだ。

わたしは日本の小説が苦手だ。具体的には、孤独を放っておかないで癒やそうとしてしまうところがうざったく感じる。たとえば『センセイの鞄』という小説でも「孤独な老人と中年女性のあいだの不思議な交流」を通して、その孤独が癒やされるプロセスが主題になっているみたいだ。あるいは村上春樹の小説も、妻や猫に逃げられて傷心の主人公が不思議な人たちと出会ったり壁抜けしたりする中で「失われたもの」を取り戻そうとするモチーフが繰り返されているという点で、癒やしを大きなテーマにしていると思う。日本人は、孤独をみると放っておけなくて、すぐに「不思議な人との出会い」によって癒やそうとしてしまう習性を持っているのかもしれない。日本人は優しいんだよ、という言い方もできるし、日本人はムラ社会で群れ合わないと生きていけないんだよ、という言い方もできると思う。訳者解説には「本書を訳している最中、どことなく村上春樹の雰囲気に似ているような気がしてならなかった」と書かれているけれど、村上春樹ってもっと情緒的で湿っぽいと思う。

最近小説を読んでなかったけれど、こういう作品はどんどん読みたい。「癒やし」なんて小説に求めてない。「癒やし」が欲しかったらきらら系のアニメでも見ていた方が何万倍も効率いいと思う(ごちうさとか癒やされすぎて脳が溶ける)。