【雑文】「いいことをしているときは、悪いことをしていると思うくらいでちょうどいい」と吉本隆明は言った。

効果的利他主義という考え方がある。これはようするに、世界をよくするために最も効果的な行動をしよう、というものだ。Wikipediaにも項目がまとめられている。説明するのが面倒なのでそのまま引っ張ってみよう。

効果的利他主義(こうかてきりたしゅぎ、英:effective altruism)とは、確かな証拠と論理に基づき世界の向上を目指す、という考え方かつ社会運動である。従来の慈善奉仕と異なり、広範囲において証拠・論理を用いる。このため、ときには人の直感・感情に逆らうような行動をとることもある。効果的利他主義は、哲学者ピーター・シンガーなどの支持を得ている。

同じ1万円を寄付するのでも、世界をよくする上で効果的な使い方をしてくれる団体もあれば、ぜんぜん見当違いなことにお金を無駄遣いしてしまう団体もある。また、稼いだお金を自分の遊びや贅沢に使っても自分ひとりが幸せになるだけだけど、そういう効果的な活動をしている団体に寄付すればもっと多くの人が幸せになれる。効果的利他主義を信奉する人は、なるべく稼げる仕事について、収入の多くをまとな団体に寄付して少しでも世界を良くすることを行動原理としているのだそうだ。

一見良い考えのようだけれど、功利主義に基づいている発想であることに危うさも感じる。倫理学の入門書によく出てくるトロッコ問題だと、功利主義に従うと「太った男を歩道橋から突き落としてトロッコにひかれそうな5人を救うべき」みたいな直観的に受け入れがたい結論が出てきてしまう。これはトロッコ問題みたいな思考実験に留まる問題ではなく、太平洋戦争での日本への原爆投下は功利主義で肯定できてしまうぞという意見もある。

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功利主義の入門書では、個々の行為レベルに功利主義を適用するのではなく、ルールレベルに適用すればこういうへんな結論は避けられるということが書いてある(ルール功利主義)。つまり、なるべく人々の幸福の総和が最大になる可能性の高いルールを作るべし、ということだ。たとえばさっきのトロッコ問題の話なら、「正当な手続き無しに勝手に人を殺しちゃダメ」みたいなルールを作っておけば太った男は助かるだろう。

効果的利他主義は寄付とかの「行為」を重視しているわけだから、どうも行為レベルに焦点を当てた功利主義(行為功利主義)のように思える。で、気になるのはその場合、へんな結論が出てきたときどうやって歯止めをかければいいんだろうか? ということだ。「太った男を突き落とすべし」みたいなへんな結論につながることもあるんじゃないだろうか?

今、仮想通貨取引所のFTXが破綻して大騒ぎになっているけれど、この会社の元CEOは効果的利他主義者だったという。仮想通貨に手を出したのも、できるだけ早くお金を儲けて効果的利他主義に貢献したかったからなのだそうだ。それで今は効果的利他主義に対する風当たりが強まっている。ただ今回の件と関係なく、以前からこの運動の内部で批判の声が高まっていたそうだ。

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上の長い記事によると、最近の効果的利他主義は「長期主義(Longtermism)」にシフトしていて、それで一部の効果的利他主義者のあいだに反発が生まれているのだそうだ。長期主義というのは、効果的利他主義を徹底したような考え方で、遠い未来を現在と同じくらい重視すべきだというもの。未読だけど、効果的利他主義の元締めみたいな存在であるマッカスキルが長期主義について最近本を出していてAmazonで5つ星がつきまくってる。

さっきのEconomistの記事によると、長期主義にしたがうとAIとか壊滅的生物的リスクとかが最重要課題になるのだそうだ。なぜかというと、長期的にはAIが暴走したりして人類の存続が危うくなるリスクがあるから。で、人類が絶滅してしまうとその後生まれるはずだった人々はそもそも存在できなくなるわけだから、その分世界の幸福の総量は減る。だから、長期の視点で人類の存続を危うくするような出来事を防止するための活動にコストをかけるべき、ということになる。

でもそうなってくると、小惑星衝突やら核戦争やらの派手なリスクばかりが取り上げられることになり、気候変動とか土壌侵食とか生物多様性の喪失とか失業とかの地味なリスクは軽視されがちになる。また、そもそもそうした長期のリスクを客観的に推定することは無理だ。となると推定は実質的に恣意的にならざるをえない。そういう恣意的に評価されたリスクに基づいてまだ生まれていない膨大な数の人々の幸福と現実に今生きている人々の幸福を比較考量するのはへんな話だ。

こういう風に効果的利他主義の内部からもいろいろ疑問が出されていて、それで効果的利他主義をやめた人もいる、というようなことが記事には書かれている。

もちろん、だから効果的利他主義は終わりだ、ということにはならないと思うけど、「目先の数十人の幸福よりもこれから生まれるかもしれない1000兆人の人々の幸福を!」みたいな極端な結論を回避するための論理が何も無いので危なっかしいなあとも思う。おまけにその「1000兆人」というのも、推定をやり直すたびに「500兆人」になったり「1500兆人」になったりするわけで、推定次第で数百兆人の人が現れたり消えたりする、とてもあやふやなものなのだ。そんなあやふやな数字と目の前で実際に生きている数十人の命を比較するような考え方はシュールすぎてちょっとついていけない。ほかにも、効果的利他主義者である哲学者のニック・ボストロムは世界を安定させるためには「ユビキタス監視(つまり、世界中の人々を常に監視状態に置くということ)」が必要だという発言をTEDでして司会の人に苦笑されたとかいうし、効果的利他主義のシュール化がどんどん進んでいるみたいだ。

行為功利主義が極端化するのを防ぐにはルール功利主義にすればいい。でも、効果的利他主義というのは立法組織でも何でもないので、そういう対応ができるかどうかよくわからん。結局、個々の効果的利他主義者が何か行為するたびに自分で判断する「行為功利主義」にならざるを得ないのではないだろうか。仮に何らかのルールを一種の行動指針として設定したとしても、「そのルールを破った方が幸福の総和が最大化できる」という主張がされたら、そのルールは実質的に破棄されてしまうんじゃないかな(ここらへんはルール功利主義を勉強し直さないとはっきり言えないけど)。

こういう思想があるというだけなら別にどうでもいいのだけど、現実社会に強い影響を及ぼしかねないのが怖い。効果的利他主義に賛同する人はエリートが多いらしい。たくさん稼いでたくさん寄付せよという思想なのだから、この思想に忠実に生きる人ほど稼げる仕事につくエリートになる。で、エリートなのだから当然社会への影響力も強くなる。それなのに、思想が極端化するのを抑える仕組みが何もないのだ。へたしたら、世界の様々なリスクを効果的に削減することを目的としていたこの思想自体が巨大なリスクになってしまいかねない。

吉本隆明がかつて「いいことをしているときは、悪いことをしていると思うくらいでちょうどいい」と言ってたけれど、そういうバランス感覚が無いと善意は簡単に悪に変わってしまうと思うよ。