ああ、並行的に読んでる本とか並行的に遊んでるゲームとか並行的に観てるアニメとか並行的に気に病んでる諸々のこととかがいろいろあるのでなかなか進まない。
今回もゲーム理論だと説明できないことがいろいろあるよーという話なのだけど、今回から、本書のキーワードである「規範」に焦点が当てられるようになる。つまり、自分にとって望ましい帰結をひたすら追い求める、という道具的合理性だけだと社会における人々の振る舞いがうまく説明できない。それで、帰結と関係ないところで人々の振る舞いに影響を与える「規範」が大事だよねーという話になる。
第2章 社会秩序
2.1 道具的アプローチ
どうして社会には秩序が成り立っているのだろう? 「それはルールがあるからだよ」という人もいる。でもこれは良い答えではない。だって、人はルールを破ることができるのだから。
「ルールを破る人にサンクションを与えるようにすればいいんじゃないの?」という反論もある。そうすれば、道具的合理性しか持たない人だってサンクションにビビってルールを守ってくれることだろう。でもこれもあんまり良い答えではない。なぜなら、それはサンクションを「与えられる」側の人のことはよく説明してくれるけれど、「与える」側の人のことはあまり説明してくれないから。サンクションを与えるというのはそれなりに負担なのだ。本当に道具的合理性しか持たない人なら「見て見ぬふり」をするのが利口というものだろう。口先だけで「ルールを破ったらサンクションを与えるぞ!」と脅しを与えることはできるけれど、もしあなたが道具的合理性しか持たないのだと相手にばれているのだとしたら、あなたの脅しはカラ脅しにしかならないだろう。
「いや、そんなめんどくさいサンクションじゃなくて、たとえば相手が困っていても助けてあげないで見捨てるみたいなのでいいじゃん。それなら負担にならないよ」という反論もありそうだ。つまり、協力するなら協力する、協力しないなら協力しない、ということだ。でも道具的合理性しか持たない人はそもそもそんな戦略取らないだろう。彼らは自分の利益を高められるかどうか、ということだけで協力するかしないかを決めるのだから。利益が得られるのなら協力する、得られないなら協力しない。それだけのことだ。
2.2 顕示選好理論
社会に秩序が成り立っているのは、人々がそもそもそういう選好を持っているからではないでしょうか? という考えがある。つまり、お年寄りの席を譲るのが好きとか、悪いことをした人にサンクションを与えるのが好きとかいうことだ。
経済学には顕示選好理論という奴がある。つまり、人がお年寄りに席を譲るのなら、その人はお年寄りに席を譲るのが好きなのだ、と考えるのだ。だから、顕示選好理論に従うなら、社会秩序が成り立っているのは、人々が社会秩序に合致するようなことが好きだからだということになる。
だけど、これではそもそもなんで人々がそういう選好を持つに至ったのかを全然説明できていない。
それに、顕示選好理論自体も本当かどうかよくわからん。お年寄りに席を譲る人は、別にお年寄りに席を譲るのが好きなのではなくて、お年寄りの席を譲る姿を誰かに見てもらうのが好きなのかもしれない。だから選択を通してその人の選好を明らかにできるとは限らないのだ。
2.3 ルール道具主義
人々は特定の「行為」を選択しているのではなく「計画」を選択しているのだという考えもある。いわゆる「計画理論」という奴だ。
計画理論によれば、人は裏切りのチャンスがあっても裏切るとは限らない。裏切らない方が結果的に利得を大きくできるのなら、そういう利得を狙えるような計画を立てて、その計画から決して外れないように自分をコミットさせればいい。ようするに、目の前においしい話がやってきてもそれに振り回されずに当初の計画を遂行する、という風に自分にルールを課すということだ。
だけどこういう風に社会秩序を説明するのも無理がある。たとえば、あなたが高速道路を走っているときに別の車が猛スピードで逆走してきているとしよう。そのとき、あなたは「決められた車線を走らなければならない」というルールを無視して反対車線に車線変更するだろう。つまり、ルールは土壇場でひっくり返されることがあるのだ。
2.4 黙約
さて、これまでは社会秩序を「協力」という側面から見てきたけれど、「コーディネーション」という側面から見ることもできる。
人々はとくに明示的に約束しなくてもお互いの行動をコーディネートすることができる。こういうのを「黙約」という。たとえば時間と場所を指定せずに、2人の人に「ニューヨークで会いなさい」と指示をする。そういう実験をしてみると、驚くほど多くの人が12時にグランド・セントラル・ステーションで会うことを選択したのだそうだ。これは、「12時」とか「グランド・セントラル・ステーション」というのが「目立つ」特徴を持っているからだ。
だけど、じゃあ彼らがなぜ「こういうのが目立つぞ!」という心理を持つに至ったのか、黙約に関する議論は何も説明してくれない。あと、黙約は「コーディネート」についての議論ではあるけれど、囚人のジレンマみたいな状況での「協力」についての議論ではない。というわけで、社会秩序を説明するにはあんまり役立たない議論になっている。
2.5 実験ゲーム理論
このように、社会秩序を道具的合理性だけで説明しようとしてもうまくいかないのだ。そしてそのことは実験ゲーム理論でいやというほど実証されてきた。
たとえば最後通牒ゲームという奴がある。こういう奴だ。
- Aさんにお金が一定額与えられる。たとえば1000円としよう。
- Aさんはこのお金をBさんにいくら分配するか決める。
- Bさんの選択肢は次の2つだ。
- Aさんが提示した金額をそのまま受け取る。
- Aさんが提示した金額に反対する。その際、Bさんは1円ももらえないし、Aさんもお金をぜんぶ没収される。
もしふたりとも道具的合理性しか持たないとしたら、こういう風になるだろう。
- AさんはBさんに1円だけ提示する。
- Bさんは文句を言わずに1円をそのまま受け取る。
ちなみに、もしAさんが0円を提示したら、Bさんは「どうせ1円ももらえないのならお前も道連れだ!」と言って0円を拒否するかもしれない。だからAさんは1円だけ提示する(「0円を拒否」ってへんな話だけど、形式的にはそういうこともできる)。
ところが、こういう実験を実際にやってみると、Aさんに当たる人はもっとたくさんの金額を提示し、Bさんに当たる人は提示金額が低いと拒否する傾向がみられる。
この傾向は文化によっても様々だ。たとえば西洋社会では公平な分配が好まれる。つまり「公平性の規範」に従っているわけだ。一方、ニューギニアでは贈与的な分配が好まれる。つまり、提示額は基本的に高額だ。しかし高額すぎると「そんなに贈与されてもお返しできないよう」というので拒否されることもある。つまり「贈与の規範」に従っているわけだ。
というわけで、やっぱり社会秩序には「規範」が重要な役割を持っているようだ。人々は、たとえ自分の利益に反するとしても、規範を守るのだ。
2.6 結論
さて、合理的選択理論はそもそも何をやりたかったのか、というのを考えてみよう。それは、人々が行為を説明するときにどんな「信念」と「欲求」を持つかを表出する、というものだ。
問題は、合理的選択理論がそうした「表出」をうまくやってのけることができるかどうかだ。今まで見てきたように、人々のあいだのインタラクションを扱うときは、あんまりうまくやれてるように思えない。
だから、社会的インタラクションを前提として合理性に関するモデルをつくるためには、主体たちの志向的状態をきちんと考えてならないと、うまいこと「表出」したことにならないだろう。
感想
最後の「志向的状態」とか「表出」とかのところはまだピンときてないけれど、そこ以外は今回も論旨が明確だと思う。
ただ、今のところ「規範」というのが何なのかきちんと議論されてない。だから今はまだ、人々の合理性について新しい理論を提案しているというよりも、既存の合理的選択理論のどこがダメなのかを丁寧に検討している、という段階だろう。
ぜんぜん話がずれるけれど、考えてみたら社会科学ってものすごく歴史が浅いわけだよね。ホッブズあたりから始まったと考えると、まだ400年くらいしか経ってない。で、しかもしばらくの間は西洋社会だけで発展してきた(たぶん)。
「合理性」っていう考え方自体、日本人にはあまりピンとこない概念なんじゃないかなあ、と思う。「信念」とか「欲求」で人の行動を説明するという図式自体が日本人にとってはなんかアレで、いや、私は信念とか欲求とかよくわからないけどなんとなく場の空気で? 昔からこう決まってるものですしね? という風に、あんまり行動の原因を個人の信念や欲求に還元しようとしない傾向があるんじゃないだろうか。
あるんじゃないだろうか、というか実際にそういう文化心理学の研究があった気がする。この本は持ってたけど無くした。たしか、人が何か悪いことをしたとき、西洋人はその原因を「その行為をした人」に求めるのに対して、東洋人は周囲の環境に原因があるんじゃないかと考える傾向があるとかなんとかそういう話だったと思う。
そもそも行為の原因を個人に求めない傾向があるから、日本を含めて東洋では「合理性」というのがイマイチピンとこない。それで、合理的選択理論とか、さらには社会科学というもの自体が生まれなかった、ということもありそうな…。いや、社会科学の歴史なんてほとんど何も知らないので、ただの与太話ですけど。ようするに、わたし自身がゲーム理論とか経済学とかの議論にピンと来ないのはなぜなのかなあ、というのを内省してみたかっただけ。