【読書ノート】『ルールに従う』第8章

本書は再読なのだけど、前に読んだときに一番よくわからなかったのがこの第8章だったと記憶している。書かれてることはわかるのだけど、これまでの議論との関連がよくわからなかった。まあ今回はきちんとまとめながら読んでるから、ついていけるだろう…。たぶん。

第8章 意志の弱さ

イントロ

動機的懐疑主義の人たちは、道徳的判断と道徳的行為とのあいだにギャップがあると考える。ある人がある行為を「正しい」と道徳的判断したとしても、どうしてその人がそういう判断に基づいて道徳的行為をするのかはわからない、ということだ。

これに対して前章では、超越的論証によってそのギャップを埋めようとした。つまり、規範同調性は合理的主体にとって必要な条件なのだから、それを疑うことはそもそも認知的に不可能なのだ。

だけどこういう論証の仕方だと、「じゃあ、誘惑についてどう考えてるんですか?」と反論があるかもしれない。つまり、ある行為を「正しい」と道徳判断したとしても、「ついカッとなって」とか「ついムラムラして」とかの理由で、道徳的行為をしなくなってしまうこともあるじゃあないか、その場合、やっぱり判断と行為の間にギャップがあるということになるじゃあないか、というわけだ。

哲学者たちはこのことを、人が自分の選好に反して行為しているのだと解釈しがちだった。だけどそうだとすると、また例の「非認知主義」がぶり返すことになってしまう。そういうことじゃないんだよ、ということを本章では議論していきたい。

8.1 アクラシア

極端な懐疑論的立場の人は、欲求だけではわれわれが行為するよう動機づけすることはできないと主張する。

だけど、これはへんな話だ。「私はこうしたい」と言っている人がそういう風に行為しようという傾向にないのなら、「私はこうしたい」という発言の意味は誰にも理解できなくなってしまうだろう。

志向的計画システムにおいて「私はこうしたい」と言っている人は、本当にそういう行為をしようとしているということになる。たしかに、志向的計画システムの外側でなら、その人が自分の欲求に反する行為をすることはある。たとえば、集中力が落ちているとか、物事をきちんと考える時間がないときとかだ。でも、志向的計画システムの内部でなら、欲求と行為が乖離することはないのだ。

8.2 割引

欲求と行為の乖離についてもう少し考えるために、「割引」の問題を取り上げよう。

エインズリーによれば、人は双曲割引関数に従ってものごとを割り引いている。これはつまり、何かを手に入れるまでに我慢しなければならない時間が長いとき、人はその何かの価値を思いっきり割り引いてしまうということだ。逆にいうと、目先のものの価値を異様に過大評価してしまうということでもある。たとえばこんな感じに。

  • すぐに現金化可能な100ドルの小切手(A)と、3年後に現金化可能な200ドルの小切手(B)、どちらを選ぶ?
    • → 多くの人はAを選ぶ。なぜなら、Bの「3年」というのは我慢の時間として長すぎるので、200ドルの価値が思いっ切り割り引かれてしまうから。
  • それでは、6年後に現金化可能な100ドルの小切手(C)と、9年後に現金化可能な200ドルの小切手(D)、どちらを選ぶ?
    • → 多くの人はDを選ぶ。なぜなら、「6年」も「9年」も我慢の時間として長すぎるので、どちらも価値が思いっきり割り引かれてしまうから。かなりの価値が割り引かれる点ではCもDも同じなので、100ドルか200ドルかという金額の部分の方が重要になる。それで、Dが選ばれる。

100ドルの小切手を選ぶか、200ドルの小切手を選ぶか。双曲割引の考えによると、いつお金が手に入るかというタイミングの違いによって選択はひっくり返ってしまう。すると、人は合理的に選択していないということになるだろうか?

そうではない。むしろ、これは、意思決定の時点において、自分自身のすべてを考慮した上での判断と整合的に行為しているということなのだ。

この人は、不合理に選択しているのではなくて、自分の予測エラーを修正した上で合理的に選択しているのだといえる。「6年後に100ドル」か「9年後に200ドル」かという選択肢を与えられて「9年後に200ドル」を選んだ人は、もし6年後、選択を変えるチャンスを与えられたら、「100ドル」に選択を変えるだろう。それは、「6年後に自分がどんな選好を持っているか」という予測を間違ったということだ。そして、その予測エラーを修正することで、その人は「100ドル」という風に合理的に選択している。したがって、欲求と行為が乖離しているわけではないのだ。

8.3 応用

エインズリーの議論を道徳の問題に応用してみよう。

人は、あることが道徳的に悪いことだとわかっていながらも、ついついそうしてしまう、ということがある。懐疑論者だったら、これこそ判断と行為のギャップを示す証拠だと考えるだろう。

でも、これはそういうことではない。むしろ、双曲割引によって目先のものごとに対する欲求が過大な影響力を持つ結果、欲求が原理を圧倒してしまうということなのだ。

双曲割引のせいで、欲求は時間的に大きく変動する。それに対し、原理(社会規範を尊重する性向)は比較的平坦で、時間的にあまり変化しない。だから、時間変化によって、両者のバランスが大きく変化してしまうのだ。

8.4 自己コントロール

双曲割引というのは一種のメタ選好だ。つまり、AやBという対象そのものに対する選好ではなく、そうした対象に対する選好のあり方に対する選好なのだ。その点では、危険回避や規範同調性に似ている。

人はこうしたメタ選好に盲目的に従うわけではなく、自分の選好を反省したり、変更したりすることもできる。

双曲割引により選好がひっくり返ってしまうのなら、事前にコミットメントしておけばいい。つまり「私は何があってもAを選択する」という風に自分を縛り付けてしまえばいいのだ。そういう自己コントロール戦略にはいろんなやり方がある。

  • 意志力
    • e.g. 報告書を今日中に完成させたいので、自分の志向的計画の中で、「空腹」という身体刺激に対して低い優先順位を割り当てる。
  • 自己管理
    • e.g. 自分の支出習慣のコントロールを、具体的に何を買うかということではなく、純粋に貨幣額だけで考える。
      • 具体的に買いたいもの(お菓子、タバコ、ティッシュ、鉛筆等々)は、すぐに欲求を満たすのに使うもの(一刻も早くお菓子を食べたい)もあれば、そうでもないもの(鉛筆が切れてたから一応買っとこう)もある。貨幣額で考えることで、そうした選好を「束ねる」ことができるので、欲求の時間的起伏を平坦化できる。
  • 環境管理
    • e.g. 禁煙したいならタバコを捨ててしまえ。
      • 選好逆転に苦しむ状況に身を置かなければよいのだ。
  • 協力
    • e.g. 夫婦が互いに口うるさく小言を言い合うことで、無駄遣いしないようにお互いをコントロールする。
  • ルール作り
    • e.g. 毎日筋トレするという自己ルールをつくった人は、筋トレしないと不快になるので筋トレする。

8.5 意思の補綴学

さっき挙げた自己コントロールの、「自己管理」「環境管理」「協力」「ルール作り」といったものは、いわば「外的足掛かり」を利用しているのだといえる。つまり、人間が自分個人の力だけで自己コントロールをしているのではなく、外部にある環境や他人を利用しているということだ。

こういう外的足掛かりとしてもっとも重要なのは言語だ。そもそも志向的計画に従事したり,われわれの行動性向に一貫した合理的秩序を与えてくれるのも言語なのだ。

哲学者たちの多くは、過度に厳密な自律性の定義を採用してきた。ある人がちょっとでも欲求の影響を受けているなら、「はい、あなたは自律性がありませんね」と考えてしまいがちなのだ。だけど、そういう欲求による影響も計算に入れた上で、自分の行為が義務と一致するようにうまく外的足掛かりを配置することだってできる。それはもまた立派な自律性なのだ。

われわれは紙とペンがないと3桁のかけ算もできないくらい低性能な生き物だ。だけど、紙とペン、あるいは計算機という外的足掛かりを使うことでかなりの桁数のかけ算をすることができる。道徳も同じだ。われわれは個人としてはたいして道徳心を持ってないかもしれない。でも、外的足掛かりを使うことでうまいこと道徳的に振る舞うことができるのだ。そして、認知の場合の「紙やペン」に当たるものが、道徳の場合の「社会的制度」なのだ。つまり、人々は社会規範に同調することで、認知的負担や動機的負担を軽減しているのだ。

感想

本書の一貫した敵はヒュームなんだろうな。ヒュームの動機的懐疑主義は、ザックリ言うと「人はなんだかわからないけど道徳的に行為している。それは慣習的なものであって、たまたまそうなっているだけのことなのだ」というものだ(と思う)。これを認めてしまうと、ヒースがずっと批判し続けている「非認知主義」を認めることになってしまう。そして、そうすると「合理性」も成立しなくなってしまう。合理性を救出したいヒースとしては、ヒュームをボコボコにやっつけなくてはならないわけだ。そこのところの背景を忘れてると、なんでヒースが懐疑主義にこんなに粘着してるのか見えなくなる。私も数年前に読んでいたときは見えてなかった気がする。

本章では意志の弱さを補う「外的足掛かり」という、アンディ・クラークのアイデアが援用されている。たぶん、このへんから『啓蒙思想2.0』の話になってくるんだと思う。『啓蒙思想2.0』も、たしか人間個人の合理性に頼りすぎた啓蒙思想1.0は失敗したから、外的足掛かりをうまく使って人間の合理性を補ってやる啓蒙思想2.0にアップデートすべきだ、みたいなことが主張されていたと思う。『ルールに従う』を一般向けに書き直したのが『啓蒙思想2.0』だ、みたいな位置づけもできるかもしれない(原書の出版年を調べると、『ルールに従う』が2008年で、『啓蒙思想2.0』が2014年)。