【読書ノート】『地球と存在の哲学』第2章

第2章 母型の郷愁

1 近代性の拒否

 西洋にとっては、近代というのは時間的な現象だ。つまり、それまでは前近代だったけど、ある時点から近代に移行したのだ、ということだ。だけど非西洋社会にとっては、近代とは空間的なもの、つまり、西洋との対峙という問題になってくる。

 だから、非西洋社会では、近代は悪として捉えられることもある。なぜならそれは、自分たちのアイデンティティを侵害するものと見なせるからだ。

 それで、環境破壊の元凶は近代科学だ、なんてことを言い出す人も出てくる。梅原猛なんかは、西洋は怒りと力の文明であり、反対に東洋は慈悲の文明だ、なんてことを言っているくらいだ。

 だけどそれも結局は、自民族中心主義なのだ。日本人は、自分たちは自然についてよく理解しているから、自然の本質を庭園の形で表現できるのだ、と主張する。でも、そんな日本庭園だって、同じ東洋の中国人や韓国人から見たら随分不自然に見えるものなのだよ。

2 共生への郷愁

 昔を理想視するのは西洋人も東洋人も同じだ。たとえば聖書では「エデンの園」が理想だし、中国では遙か古代に「大同」という理想社会が存在していたという思想がある。そうした楽園では、人間と自然と神々は共生している。そのような「原初の母型」に対して人々は郷愁を抱くのだ。

 こうして自分の本当のアイデンティティを求める衝動は、「私たちの環境」が「他者の環境」よりも優れているという考えにつながる。本当は、単にお互いの文化的アイデンティティが異なるというだけの話なのに。

 この考え方はさらに、「良き野蛮人」という神話にもつながってくる。それは、「私たち」が失った本当のアイデンティティは、「良き野蛮人」の中に残っているというものだ。それで、現代のエコロジストはアメリカ・インディアンやアボリジニ生活様式を理想化しようとするのだ。もちろんそれは、そうした社会への粗雑な認識不足によるものだ。

 理性的な動物解放運動や、あるいは自然が「権利」を持つと主張する人々は、ようするに「大同」を求めているのだ。大同というユートピアでは、人間とそれ以外の生命のあいだには何の区別もなく、共存しているからだ。

3 全体論からファシズム

 日常生活の中で、動物に優しくしたり、害を与えないようにしたりするのは普通に見られる風俗習慣だ。だけど、それを「倫理」に格上げしようとするとやっかいなことになる。なぜならその場合、存在論的な問題が絡んでくるからだ。つまり、人間と非人間を存在論のレベルで同じように扱えるのか、という問題だ。

 人間に関しては「権利」と「義務」の関係が成り立つ。だけど、これを人間以外にまで広げることはできない。コブラには人間を噛まない「義務」があるだろうか? プレート・テクトニクスには地震を起こして都市を破壊しない「義務」があるだろうか。もちろん無い。だから、権利とか義務とかの概念を使って環境の倫理を築くことはできないのだ。

 それでもむりやり「自然の権利」について語ろうとすると、倒錯した結論が出てきてしまう。たとえば、地球の生態学的なバランスを保つには、人間の定員を減らす方が良いなんて言う人までいる。これはむしろ不道徳な主張だ。

 彼らは生態学全体論という特殊な存在論を前提としている。つまり、重要な地位を持つ存在とは「生命を持つ存在」なのであり、それが人間だろうが動物だろうが区別する必要はない、というタイプの存在論だ。まあ、それはそれで「なぜ生態系を尊重しなければならないか」という問いに対してはきちんと応えている。だけど、「その倫理を誰が守らなければならないのか?」という問いに対しては応えることができない。バッタに責任があるだろうか? ない? ないとしたら人間に責任があるというのだろうか。でも、生態学全体論では人間と動物を区別しないはずなので、それでは矛盾だ。だから、「誰が守るの?」という問いには沈黙するしかなくなってしまうのだ。

 結局、人間の主体性を捨象してしまうと、倫理は成り立たなくなってしまうのだ。そんなことしたら、結局はファシズムに行き着くだけだろう。

コメント

 整理してみると、1~2節の内容と3節の内容はあんまりつながってないように見えるな。1~2節は、自民族中心主義のために「わが国の自然はよそよりも優れている」とか「東洋は西洋とちがって環境に優しい文明なのだ」とかの変な主張が出てきてしまう、という話。3節は、人間と動物の存在論的なちがいをきちんと考えずに環境の倫理をつくろうとするとファシズムに行き着くよ、という話。いちおう、「大同」というキーワードでふたつの議論をつなげようとしているけれど、ちょっと無理があると思う。

 で、議論の中身自体はというと……普通かな。ただ、最後に「人間の主体性」という論点が出てきたところで、ベルク独自の環境倫理に関する議論につながっていくのだと思う。たしか。