【読書ノート】『グリーン経済学』22章~ラスト

22 グリーンプラネット

 気候変動みたいなグローバルな外部性の解決に取り組むには、主要国の協調行動が不可欠だ。だけど、現在の国際法ではそのための責任を共有するように各国に要求することができない。

 気候変動政策が実効性を伴うためには、温室効果ガス排出の市場価格を引き上げる必要がある。ようするに、排出に価格をつけよ、ということだ。具体的には、キャップ・アンド・トレードか炭素税を使えよ、ということだ。

 では、二酸化炭素排出の価格はいくらにするべきだろうか? それを求めるためには費用便益分析を使う。もちろん、気候変動の影響は複雑なので、そんなに簡単にはいかない。「統合評価モデル」というのを使う必要がある。統合評価モデルに基づいて費用便益分析をやってみると、二酸化炭素1トンあたりの価格は約40ドルとなる。そして、この分析を通して次のような結論が導き出される。

  1. 排出ペースを遅らせるための政策を、可能な限り早く導入すべきだ。
  2. 気候政策を調和させるべきだ。つまり、排出削減の限界費用をあらゆる分野で等しくしよう。
  3. 政策の実効性のためには、できる限り高い参加が必要だ。
  4. 実効性の高い政策とは、徐々に強化していく政策だ。つまり、高い炭素価格の世界に適用できるよう、人々に時間を与えよう。

 ところで、さっきの40ドルという炭素価格を設定すると、気温の上昇は(2100年までに)およそ3度上昇する。「え? パリ協定だと2度未満に抑えるんじゃなかったっけ?」うん、その通りだ。でも、その目標を達成するためには、40ドルではなく200ドルまで炭素価格を上げないといけない。

 それに、その40ドルでさえぜんぜん達成できてないのが現状なのだ。2020年時点で、炭素価格は約2ドルに過ぎないのだ。

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 この話題、すでにどっかで読んだ気がするんだけど、思い違いかな? 同著者の『気候カジノ』で読んだのかもしれない。個人的にはとくに新しい話題じゃなかった。

23 地球を守るための気候協約

 グローバルな気候変動政策を妨げるフリーライドは、つぎの2つの次元で生じる。

  1. 国家が他の国家の取り組みを当てにすること。
  2. 現在世代が行動を先送りして、将来性に費用を押しつけること。

 京都議定書は、各国の気候変動政策を効果的に強調させようという野心的な取り組みだった。ところが、どの国もその取り組みに経済的なメリットを見いだせなかった。アメリカはさっさと撤退してしまったし、中国のように排出義務を負わされてない(当時の)途上国の排出量は急増した。「京都議定書の排出規則は、そのあまりにお粗末な設計ゆえ、どこの国も積極的に参加しようとしないクラブで終わってしまったのだ。」(p334)

 京都議定書の次はパリ協定だけど、これもあんまり役に立たない代物だ。というのは、各国の政策は調整されておらず、自主的な目標だったからだ。つまり、「全部の国が目標を達成すれば気温上昇を2度未満に抑えられる」という風に割当量を配分してたわけではないし、そもそも目標を達成できなくても何の罰則もないのだ。

 今の気候変動政策がいかに不十分かを見るには、炭素強度の推移をみてやればいい。炭素強度とは、二酸化炭素排出量をGDPで割った値のことだ。つまり、経済生産の規模に対して二酸化炭素排出規模がどの程度かを示す指標だ。

 実は、炭素強度の減少ペースはぜんぜん加速していない。中国だけは年マイナス3.6%のハイペースだけど、中国を除く全世界でみると、マイナス2%弱くらいで横ばいになっている(1980年~2017年の傾向)。

 2度未満という目標を達成するためには、2050年までに炭素強度をゼロに抑えなければならない。でも、今のペースではそれはとても無理だ。

 私(ノードハウス)が提案したいのは、気候変動対策に関してクラブか協約のモデルを採用することだ。つまり、この気候協約では、参加国は調和された排出削減に取り組むが、義務を果たさない場合にはペナルティが科されるようにするのだ。

 ペナルティとは具体的にどのようなものか? それは、非参加国から参加国への輸入に関税をかけることだ。関税をかけること自体は参加国に費用がかかるものではないので、問題無く実施できるペナルティであるといえる。

 なお、この協定では、排出量ではなく炭素価格を目標とする。なぜかというと、排出量に焦点を当ててしまうと交渉の過程で歪みが生じやすいからだ。たとえば、どこの国もグローバルな総排出量については低い数値にすることに賛成する一方、自国の排出量については高い数値を求めるだろう。

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 最後の協約の話が面白いけど、これも『気候カジノ』で出てこなかったっけ…。あれも分厚い本だったので内容をよく覚えてない。

 このモデルが有効なのだとしたら、ピケティが言ってるみたいなグローバル累進課税も同じ方式で推進できると思う(あれもようするにグローバルな外部性をどうしようかという話だったと思う)。

 でも、実際のところどうなのかな。この手の話は疎いのでよくわからんのだけど。ペナルティの大きさ次第という気もする。二酸化炭素1トンあたり40ドルの負担よりもさらに大きな関税じゃないとペナルティとして意味ないだろう。ただ、そうした関税はそれこそ市場を歪めてしまうものなので、そのあたりでなんやかんや問題が発生しそうな気もする。第一、ノードハウス自身、環境税は歪みを生みにくい税金なのだというので環境税をプッシュしてたのに、一方でめちゃくちゃ大きな歪みを生み出しそうな関税をプッシュするというのは、なんか矛盾した姿勢のようにも思える。

24 グリーン懐疑派

 グリーンに対する態度はいろいろタイプ分けできる。次のは、上から順に、グリーン重視が弱まるように並べている。

  • ディープグリーン
    • 生物中心、環境価値重視。人間の選好はあまり重視しない。
  • グリーン精神
    • われわれの立場。人間のニーズや欲求を中心に置きながらも、それ以外の価値も含めるべきと考える。
  • 自由市場環境主義
    • 公共財の価値に対する懐疑。政府には経済を効率的に規制する力がある。フリードマンが代表的。
  • マック・ブラウン
    • グリーン思考は間違ってるとか喧伝して、自分の利益を優先する人たち。

 自由市場環境主義についてもう少し説明しておこう。フリードマンのような自由市場環境主義の立場だと、国立公園の存在は正当化されない。というのは、政府が介入しなくても、民間企業が運営することもできるからだ。

 だけど、フリードマンの考えは狭い。彼の考えだと、国立公園は、訪問者がそこを訪れて楽しめるアミューズメントパークとしての価値しかないことになるからだ。もし、そんな風にするよりも鉱山採掘した方が利益が上がるとなれば、それも正当化されることになってしまう。

 それに、国立公園の豊かな生態系の恩恵は広く世界に、そして将来にまで及ぶ。ところがそうした価値を訪問者たちが支払う入場料に反映させるのは難しいだろう。

 だけどその一方で、自由市場環境主義者たちはいいことも言っている。それは、市場の力は生活水準を向上させる、というものだ。たとえば、19世紀後半、ニューヨークでは輸送に馬が使われていて、街は馬糞まみれだった。ところが技術革新により自動車が発明されると馬が使われなくなった。つまり、環境効率が上昇したということだ。

 とはいえ、市場に何もかも任せていてはいけない。やっぱり規制は必要だ。たとえば、GDP当たりの二酸化硫黄排出量は、規制が導入される1970年までは年マイナス1.9%で減っていたが、規制が導入されてからは年マイナス7.4%で減少している。

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 市場の力を使いつつ、規制のこともちゃんと考えるのがわれわれグリーン精神の立場だ、ってことかな。

 フリードマンの国立公園に関する議論は前に記事で触れたことがあった。そのときはなるほどねと感心したけど、確かに言われてみればいろいろ問題はあるか。

odmy.hatenablog.com

 ただ、じゃあ国立公園に関しては市場原理を適用してはダメってことなのかな? CVMとか使って生態系の価値を貨幣評価するというやり方はあると思うけど、確か『気候カジノ』では、ノードハウスは生態系に対する貨幣評価は不確実過ぎて当てにならないみたいなことを言ってたと思う。トラベルコスト法だと生態系の価値は評価できないし(それだと訪問者に料金を払わせるのと実質的に同じことになる)。そう考えると、国立公園は政府による直接規制をするのがベストということになるかな。

25 グリーン精神をめぐる旅

(本書全体のまとめ。略)

全体感想

 基本的には環境経済学の本なのだと思うけど、そこに「持続可能性」という視点を入れているのがグリーン経済学の特徴なのかなあと思う。ただ、その割には持続可能性に関する議論はそこまで多くなかった気もする。直接該当するのは、グリーンNNPという指標を元に「エクソ文明は持続可能ではない」と言ってるあたりくらいかな。で、基本はとにかくグリーン税。個人倫理にはあまり期待してなくて、グローバルなグリーン税の枠組みをいかにつくるか、というのが一番重視されているみたいだ。で、そういう枠組みで規制しきれない部分に関しては各企業のESGに期待する(ここらへんはヒースの市場の失敗アプローチに似てる)。

 極めて常識的な本だと思う(その分、面白みがないとも言えるけど)。いきなり環境経済学の教科書を勉強したりすると、倫理とか政治とかの話が省かれがちなので、どうして環境問題を経済学で考えないとならないのか、飲み込みにくいことがある。また、環境経済学の枠組みを使ったら本当に温暖化は抑えられるのかとかも、教科書ではあまり論じられない。この本はそういう、環境経済学の物足りない部分を補ってくれているのがありがたい。面白みのない結論であっても、こうした面白みのない結論以外にとくに名案はないのだよ、ということを納得させてくれるという点では価値がある。

 あと、やっぱり環境倫理学は無力なのだなあ、といつもながら思う。関連する議論は2章でミューアの話が出てきたところと、あとは、24章の「ディープ・グリーン」に関するところかな。ここにはディープ・エコロジーとかのいわゆる人間非中心主義系の考え方が入ってくる。これらの考えは多くの人々の支持を得られないので、現実の環境政策に影響を与えることはできないだろうとされている。

 グリーン経済学における倫理の役割は、だいたい次のような感じになるかな。

  • (一般市民は)外部性を規制する法の成立を促すこと。
  • 無後悔対策の原則に従って、環境配慮に伴う少々の損失は受け入れること。
  • 企業は外部性の軽減に努めること(ただし、得意分野に資源を集中し、さらに、自社の利害関係者に便益をもたらすESGに焦点を当てること)。

 改めて見てみても、やっぱりヒースの市場の失敗アプローチとかなり似てる(無後悔対策の原則のところはノードハウスのオリジナル)。経済学の視点から現実に影響を与えうる倫理を構築しようとしたら、こういう形になるものなのだろう。ただその一方で、環境倫理学の分野ではこうした議論はほとんどされてないと思う(ヒースの気候変動の本も訳されてないし)。本当は、環境倫理学の分野から本書に対する書評が出るべきなのだけど、少なくとも日本語のものは見つからない。経済学の人たちは倫理学を勉強するけど、倫理学の人たちは経済学を勉強しない傾向があるみたいだ。