環境倫理は遊びを目指すべき

 社会に遊びが残っていてほしいと思う。経済的に価値がないものでも、非効率なものであっても、なぜか淘汰されずに残っているものがなるべくたくさんあるといい。私にとっての環境倫理とはそのようなものだ。

 一般論としていえば、その人にとってかけがえのない環境であるほど、他人から見ればどうでもいいものであることが多い。たとえば、小さいころに遊んでいた原っぱや森は、その人にとっては懐かしく大切なものかもしれないが、他人からみれば、それはどこにでもある原っぱや森でしかない。白神山地や知床や屋久島とは全然ちがう。

 環境経済学という学問では、環境の価値を貨幣評価する手法が開発され、どんどん洗練されていっている。たとえばこの森の生態系の価値は3億円だ、という風に値段をつけていくのだ。そうすることで、市場経済において環境の価値が適切に配慮されるようになり、結果的に環境保全が効率的に行われるようになる、というのが環境経済学者たちの主張だ。

 それはそうかもしれない。しかしそれでは、逆に多くの環境は無価値なものとして切り捨てられることになってしまうだろう。その人にとってかけがえのない環境であっても、他人にとってはどうでもいい環境だからだ。白神山地や知床や屋久島のような派手で人目を引く環境ばかりがもてはやされる一方で、その人にとって本当に身近な環境はほとんど誰にも顧みられない。

 少し話をずらしてみよう。

 今、日本中の多くの商店街はつぶれかけている。私の家の近所にも商店街があるが、半分くらいの店が閉店している。日曜に行ってみても人出はだいぶ少ない。散歩道としては快適だが、それはあくまで商店街なのだから、賑わいは必要だ。私が入りたいと思う店もない。中高年向けのブティックや、薬局、品揃えの悪い本屋、あとは印象に残らない飲食店がぽつぽつとあるくらいだ。しかそれでも、私はこういう場所が残っていた方がいいと思う。

 経済学的に考えれば明らかに非効率だ。店主たちに補償金を払って立ち退いてもらって、跡地を再開発すれば、誰もが利得を増やせる「Win-Win」な帰結を達成できるかもしれない。しかし、私はいつもこの「Win-Win」という言葉をうさんくさく思っている。だいたい、補償金を支払うことが本当に補償になるものなのかどうか、疑わしい前提だ。また、店主たちがそれで納得したとしても、付近の住民はどう思うのか。もちろん彼らは、そこに新しくショッピングセンターでもできれば喜んで買い物に行くだろう。しかしそうしながらも、どこかに物足りなさを感じる人もいるのではないだろうか。

 この令和の時代に古びた商店街に行くと、昭和か平成初期くらいの時代にまでタイムスリップしてしまったような気持ちになる。そんなものがいまだに残っているのは明らかに時代錯誤だ。それでも、そういう時代錯誤がつづいていることに、少しほっとする気持ちもある。

 時間の流れは均質ではなく、その地域ごとに固有の流れ方をしているのだと思う。時代の最先端を突き進む地域もあれば、いまだに昭和をつづけている地域もある。「だから日本経済は停滞しているんだ」とか「だからイノベーションが抑制されてしまうんだ」と苛立つ人もいるだろう。でも私は、そうした遊びがあった方がいいと思う。経済はもちろん大事だ。イノベーションがなければ才能のある人たちほど社会に幻滅するだろう。だけど、そうやって効率化の方へ駆り立てられて突っ走っていても、いつかは疲れてしまう。疲れ切って走れなくなったとき、社会に遊びがないと、その人はもう壊れるしかないのではないか。

 スローライフをすればいい、というのとも少し違う。多くの場合、スローライフは演出されたものであって、既にひとつのビジネスになっている。私が言っている遊びというのは、ビジネスとしてほとんど成り立っていないような、本当の意味での「遅さ」のことだ。愚鈍さ、といっても良いかもしれない。

 ここで話を戻すと、その人にとって本当にかけがえのない環境には、そうした「遅さ」という意味での遊びが含まれていると思う。他人から見ればどうってことのない環境であっても、時代の変化から置いてけぼりにされたように、昔と同じ姿をしてくれていたら、人はそこに深い安らぎを感じるだろう。

 前に『江戸前エルフ』という漫画を読んだ。全般的にどうってことない漫画なのだけど(そのどうってことなさが好きだ)、その中で、「やっぱし 変わらないものがあるってのは 安心するよ」という台詞がある。この漫画の主人公のエルダは異世界から召喚されたエルフで、なぜか地元の小さな神社に祀られている。エルフだから年を取らない。そのことについて、地元の商店街の老人はこう言う。「あたしくらいの歳んなると 家族もツレも どんどんいなくなっちまうってのに エルダは あたしがガキの頃から 変わらず高耳神社に居てくれる」そして、変わらないものがあるのは安心する、と言うのだ。

 もちろん、本当に変わらないものなんてない。すべては変わりゆく。それでも、時間の流れを少しでも緩やかなものにするような、遊びとしての場が社会には必要なのではないか。そうしないと、人はいつまでも安らぐことができない。そうした場を守ることこそが、環境倫理の目指すべきものだと私は思う。

コメント

 もちろん、環境倫理学の本を読んでもこんなことは絶対に出てこない。あくまで、個人の意見です。

 「風土」とは何かをざっくりした言葉で表現すれば、「その人が本当に安らげる場」という風にも言えると思う。時間に追い立てられるような場に安らぎはない。遊びが必要だ。

 遊びは資本主義社会では無視されがちなものだ。市場で評価されるのは「遊び」というよりもむしろ「娯楽」なのだ。だからといって、風土にもとづく環境倫理が反資本主義になるべきだということではない。遊びとは、社会システムの網の目からはずれた部分のことだ。

 環境倫理にできるのは、せいぜい、そうした遊びに気づかせることくらいだろう。遊びを強要することはできない。だから環境倫理は非力なものなのだ。それでも、環境倫理について考えることには意義がある。遊びのない社会は多くの人が想像している以上にきついものだと思う。