【用語集】風土論

 風土論というのがあって、学生時代から勉強してきているのだけど、いまだにうまく理解できている感じがしない。数千字でまとめられるものではないけれど、なんとかエッセンスだけでもまとめてみよう。

 ザックリ言うと、風土論とは人間と環境の関係性を現象学的に捉えようとする学問だ。つまり、人間と環境とバラバラに切り離されたものとして捉えるのではなく、たがいに絡まり合って切り離せないようなものとして捉えようとする立場を取る。

 風土論は哲学者の和辻哲郎が最初に提唱して、それから半世紀ほどのちにフランスの地理学者のオギュスタン・ベルクが発展させた。人間と環境を一体的に捉える、ということのイメージがどういうことなのかについては、ベルクより和辻哲郎の方がわかりやすく説明してくれている。

 和辻は、人間が寒さを感じる、という状況を例として挙げている。たとえば、本州から北海道に飛行機で行って、空港の外に出たら「寒い!」と感じるような状況だ。こういうとき、人間と環境をバラバラに切り離して考える立場では、「人間」と「寒さ」というふたつがバラバラに存在していると考える。その上で、「人間」が「寒さ」という対象を知覚する、ということになる。でも、それはへんだと和辻は言う。なぜなら、人間が「寒さ」を感じる前に、「寒さ」というものが独立に存在しているわけではないからだ。そうではなく、人間は「寒さ」を直接感じているのだ。「寒い!」と空港の外で叫ぶ人は、「寒さ」を感じている自分を発見しているのだ。和辻の言い方を使うなら、「寒さの内に出ている己を見ている」のである。この場合、「人間」と「寒さ」はバラバラに存在しているのではない。両者はむしろ一体的なものであり、切り離して考えることはできないのだ。

 これは寒さに限った話ではない。たとえば風景を見るのだって、「人間」と別個に「風景」があるのではない。海水浴に来ている人は、遠くにある海を自分と別個の存在として眺めているのではなく、海の中に飛び込んで泳いだり、浜辺でひなたぼっこしたりして、自身がその風景の一部になってしまっているのだ。

 基本的に風土論とはこういうもので、人間と環境は切り離せないものだという基本原理を元にして、風景について論じたり、地域文化の変化を分析したり、あるいは環境倫理のあり方を提案したりする。たとえばオギュスタン・ベルクは西洋と東洋の風景画を比較して、西洋では遠近法により視点と対象とが分離されたような描き方をするのに対し、東洋の水墨画はそうではなく、見る者と対象とのあいだが分離されないように描かれているというようなことを述べている。あるいは環境倫理についても、西洋の環境倫理は人間の価値評価から独立した「内在的価値」なるものを環境に認めるけれど、人間と環境はそんな風にバラバラにできるものではないのだから、内在的価値などという概念はナンセンスだとも述べている。

   こんな風にして、風土論を手がかりにすることで、環境に対してこれまでとは異なる捉え方をすることが可能になる。前にブログで、環境心理学は環境を扱っていないという趣旨のイチャモンを書いた。つまり、対象が環境でなくても通じる議論を環境に適用しているだけであって、人間が環境と関わるということをきちんと捉えていないのではないかということだ。そのときの記事では「仏教的自然観」にもとづいて環境心理学を作れないかみたいなことを書いたけど、それは風土論にもとづいて環境心理学を作ると言い直してもだいたい趣旨は変わらない。

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 しかし、こうした路線の研究を進めていくのには問題があるように思う。というのは、人間と環境が一体的だということは、環境をコントロールするという発想が弱いということでもあるからだ。たとえば、環境経済学もたぶん人間と環境をバラバラに捉える前提に立った学問だと思うのだけれど、環境経済学は炭素税のような形で、人間が市場を通して環境をコントロールするための方法を提案することができる。環境心理学だって、人間が環境配慮行動を通して環境をうまくコントロールできるようにするためにどんな条件が必要かを探っている学問だ。つまり、人間と環境をいったんバラバラに捉えるからこそ、環境をコントロールするという発想が出てくるのだ。

 これに対して、人間と環境が一体的だと考えてしまうと、「あるがまま」の両者の関係性をただ肯定するだけになってしまうのではないだろうか。なぜなら、現状を客観的に評価するための座標軸を決められないからだ。いったん環境を人間から切り離して、「二酸化炭素濃度」とか「平均気温」といった要素に分解するからこそ、人間は環境が悪化していると評価することができるし、悪化を防ぐための方策を開発することもできる。一体的なままではそうした対応が困難になってしまう。

 「寒い!」と叫ぶとき、その人と環境とは一体的である。それはその通りだ。そして、それこそが寒さということの本当の意味なのだと言われれば、それもその通りだと思う。だけど、ただ寒がっているだけでは凍え死ぬだけだ。いったんその「寒い!」を「マイナス5度」のような指標に還元して、「人間」と「寒さ」を切り離して考えるからこそ、その「寒さ」を効率的に解消するための方法を考案することができる。たとえば、厚着をする、ストーブを使う、窓を二重にするなどだ。

 一元論が良いか、二元論が良いか、という単純な問題ではないように思う。むしろ、一元論と二元論のあいだを行ったり来たりするような発想が必要なのではないか。「寒い!」と一元論的に叫んでいるばかりではラチがあかない。寒さを防ぐためには二元論的発想で寒さ対策をするべきだろう。しかし、そうやって寒さを徹底的に締め出そうとすると、今度は「寒い!」という一元論的な体験を忘れてしまうかもしれない。ようするに「季節感がない」という奴だ。季節感がないということの何が問題なのか。それ自体はただの趣味の問題のようにも思える。しかし、実はもっと大きな問題なのではないだろうか。

 ベルクは「風物身体」という概念を提案している。普通、身体といったら手足や胴体などの生物的身体のことだ。だけど、人間と環境とを一体的に捉えるのなら、身体は生物的身体の外にも拡張される。たとえば夏に風鈴の音を聴いて涼しさを感じる人は、生物的身体で涼しさを感じているのではない。日本人が作り上げてきた「夏の過ごし方」という文化的フィルターを通して涼しさを感じているのだ。そうした、生物的身体を越えた、文化的なものも含めて身体として捉えたものを、ベルクは「風物身体」と呼んでいる。だとすれば、「季節感がない」ということは、風物身体を失うことだとも言えるだろう。手や足を失うのと同じ意味で、身体を失ってしまうことなのだ。

 人間は地球で生まれ育った生きものであり、多かれ少なかれ環境と何らかの関わり合いを持ち、したがって「風物身体」を持っている。だから、地球を出て宇宙で人間が生きていくことは、数年なら可能でも、長期的には不可能だろう。身体なしで人間は生きていけないからだ。ノードハウスの『グリーン経済学』という本の中では、人間が火星に移住するのは今のところ不可能だと書かれている。単純にコストがかかりすぎるというのもあるけれど、それだけでなく、「犬が住めないから」とも書いているのが面白い。もちろん、犬がいなくても人間の生物的身体には何の支障もない。しかし、犬のいない生活を耐えがたく感じる人もいるはずだ。その人にとって、犬は風物身体の一部なのであり、生きていくためになくてはならないものなのだ。

ペットという単純な問題を考えてみよう。アメリカ人は約1億匹の犬を飼っている。犬は心の触れ合いや愛情を与えてくれる。それだけではない。犬にはプロフェッショナルな価値があり、ガイドとして、牧羊犬として、軍用犬として、あるいは捜索や救助、セラピー、捜査の役に立つ。だが、人間と同じように犬もまた進化して、地球と人類という特殊な環境に適応してきた。火星の危険な大地に、犬が憩いを見つけ出すとは思えない。となると、火星は人間にとって犬のいない孤独な場所になってしまう。 ノードハウス p122

 風土論は、環境問題を抑止するための有用な解決策を生み出す上では、おそらく何の役にも立たない。二元論的でない以上、環境をコントロールするという発想がないからだ。しかし、人間の風物身体に気づかせてくれるという意味ではやはり重要だ。二元論的な発想は行きすぎると風物身体を破壊する方向に突っ走ってしまいがちだ。世界の大金持ちたちはたいていメタバースや宇宙開発を夢見ている。それらは二元論的立場から環境をコントロールしようという姿勢を極度に追求するものであり、人間と環境との関わりを断ち切ることで、風物身体を損なうことになるだろう。

 一元論には、二元論の行き過ぎをたしなめるという以上の役割はない。しかし、ブレーキのない車はあってはならないものだ。風土論の役割は一種のブレーキなのだと、今のところわたしは理解している。