【読書ノート】千葉雅也『現代思想入門』

 

 

読む動機

  • 現代思想には前から興味があったけれど、そもそもこれを勉強して何がどうなるのか、というのがよくわからなかった。フロイトの議論が非科学的だというのはあちこちで言われてるし、フーコーの歴史解釈が結構いいかげんという話も読んだことがある。ピンカーの『21世紀の啓蒙』だとニーチェ厨二病ファシズムの元祖みたいな描かれ方をしている。そういうのもあって、現代思想に対してちょっと警戒心があった。
  • でも、自分の好きな作家や音楽家には現代思想に影響されてる人が多いし、無視するのもどうかなあ、とは思っていた。
  • また、最近ヘーゲルとか推論主義とか勉強していて、なんか息苦しいなあ、という気もしている。ヘーゲルの考えの立派さや、大人としての成熟を感じつつも、遊びのなさに物足りなさも感じていた。時代遅れかもしれないけれど、現代思想をまた見直してみてもいいかもしれない。そんなこともあって、この本を読むことにした。

 

抜き書きとコメント

コミュニケーションには必ず誤解がある

そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪いものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤配」の可能性をなしにすることはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えました。実際、目の前でしゃべっていたって、本当にひとつの真理を言っているとは限りません。しゃべっていることにだってエクリチュール性はあるのです。 p30

  • この本はデリダの「脱構築」という概念を軸にして、デリダドゥルーズフーコーの思想を整理している。それぞれ、「概念の脱構築」、「存在の脱構築」、「社会の脱構築」だ。で、ここはそのデリダのコミュニケーション観に関する記述。
  • エクリチュールは書き言葉ということ。書かれたものは、どうしても間違って解釈されてしまう。必ず誤配する。
  • でも、そもそも何をもって「間違っている」と考えるかと言うのも論点だと思うけど。言葉が、書き手の思想を詰め込むパッケージみたいなものだ、と考える場合、正解とはパッケージングされる前の思想のことだ。でも、そういう言語観は素朴すぎる。大体、その思想を言葉なしで示せない以上、言葉から独立した思想なんてものはない。
  • あと、わざわざ話し言葉と書き言葉を分ける意味があんまりわからない。著者自身、しゃべっていることにもエクリチュール性はあるって書いてるし。話し言葉だと話し手と聞き手が同じ場所にいるから誤解が生じにくいみたいなことを書いてるけれど、それはケースバイケースだと思う。例えば、たくさん話しても伝わらないことが、本を一冊読んでもらったら伝わった、ということは普通にあると思う。著者はTwitterを例に出して、書き言葉の方が誤解が生じやすいみたいなことを言ってる。だけど、そもそもTwitterは短文だし、文脈無視して次々言葉が流れてくるから、適切な推論がしにくい、というのがあるんじゃないかな。それは書き言葉というよりも、Twitterの問題だと思う。

脱構築の手続き

脱構築の手続きは次のように進みます。  ①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるわけではありません。  ②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。  ③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。デリダにおいて有名なのは、先に紹介した「プラトンパルマケイアー」に出てくる、「パルマコン」というものです。これは古代ギリシア語で、「薬」でもあり「毒」でもあるという両義性を持っています。実際、薬というのは使い方によっては毒にもなりますよね。ここから、二項対立を脱構築する第三項を「パルマコン的なもの」と呼ぶことができます。 p32

  • で、ここがデリダ脱構築に関する説明。ちょっと自分でもやってみよう。
  • 例えば「プーチンは民主主義を尊重するべきだ」という文を脱構築するなら、「民主主義は尊重されるべきだ」という価値観を疑う。で、そういう論理を作る。「民主主義だと人々は好き勝手に振る舞ってしまって国がまとまらなくなる」。
  • 次に、プラスとマイナスの相互依存関係を描き出す。「コロナ対策は民主主義だと難しいから、時には全体主義的なやり方も必要。だけど、全体主義ばっかりだと人々の自由が脅かされることがあるから、民主主義もちゃんと守んないと」。
  • で、二項対立の決定不能性を描き出すとか、そのための概念を作れとか、そういうことになる。
  • だけどこれって、「物事には何でも良い面と悪い面があるから、バランスが大事だよね」って言ってるのと何が違うんだろう。中庸が大事、というギリシア哲学的なことが言いたいのかな。
  • うーん。いまいち脱構築の意義がわからない。もちろん、負の側面もちゃんと見ましょう、というのは大事だ。だけど、その程度のこと、誰でも言えるんじゃないのという気もする。

規律訓練と生政治

世の中にはワクチン反対派もいて、それを批判する人もいますが、しかし反対派にも一理あるのです。どういうことか。ワクチン政策は生政治であって、人々が自分の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物としてだけ扱って、死なないようにするという権力行使です。ここで「死なないようにする」というのは、働いて税金を納めて国家という巨大なモンスターを生き延びさせていくための歯車にするという意味ですから、そういう統治に巻き込まれたくない =自由でいたいという抵抗の気持ちが──無意識的に──そこにはあるのです。他方、「自粛なんぞ知らん、飲みに行くぞ」というのは、規律訓練に対する抵抗ということになります。 ですから、近現代社会においては、規律訓練と生政治が両輪で動いていると捉えてください。 p79

  • ドゥルーズは飛ばしてフーコーについて。ここの理屈もちょっとわかりにくい。
  • 反ワクチンの人は、そもそもどうして反対するんだろう。人生の意味づけとかそういう大層なことではなくて、死ぬリスクを大幅に減らせてしかもそれほどコストのかからない手段があるのにそれを使わないのは非合理ではないだろうか。例えば、赤信号では止まるとか、社会保険料を納めるとかは、誰だってやってることだ。それらも生政治のはずなのだけど、多くの人は赤信号でちゃんと止まるし、社会保険料も納める。
  • ワクチン打ったら20%の人が死にます、でもこのままワクチンを使わずに放置したらコロナで50%の人が死にます。だからワクチン打ちましょう。という政策があったらどうだろう? それを強制されたら確かに反対する理由はあるかもしれない。いや、私はほとんど人と会わないし、ワクチンなしでも感染リスクはあんまりないですよ、と主張しても、「でもこの方が死者を減らせるから」という理由でワクチンを強制されたら、確かにそれは自由への侵害だと思う。でも、今のところワクチンで死んだ人なんてほとんどいない(ずっと前にニュースでやってた記憶はあるけど)。それに、ワクチンを打つか打たないかは個人の自由に任せられている。別に自由が侵害されているわけではない。
  • とにかく嫌だから嫌だ、ってことなのかな。うーん。まあ、僕自身も、内田百閒みたいな「嫌だから嫌だ」という考えは結構好きではある。つまり、必ず合理的でなければならない、というのはとても息苦しいものだ。内田百閒や山下澄人の文章を読んで、「ああ、こんなに非合理的でいいんだ」とホッとすることはある。非合理な変な人にも居場所があっていいじゃないか、というのが現代思想が言いたいことだとしたら、悪くない考え方だと思う(僕自身もへんな人だし)。

内面にあまりこだわるな

ある意味、古代における「自己への配慮」も、即物的とも言えるからです。しかし何が違うかといえば、まさに即物的に人々を群れとして支配するのが近代以後の生政治であるのに対して、フーコーがどうもポジティブに捉えているらしい古代の「自己への配慮」は、あくまでも自己本位で罪責性には至らないような自己管理をするということなのです。  ここからは千葉流のフーコー読解になりますが、現代社会において大規模な生政治と、依然として続く心理的規律訓練がどちらも働いているのだとすると、ある種の「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうるのだと思います。  それは新たに世俗的に生きることであり、日常生活のごく即物的な、しかし過剰ではないような個人的秩序づけを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにはみ出してしまっても、「それが自分の人生なのだから」と構わずにいるような、そういう世俗的自由だと思うのです。後期フーコーが見ていた独特の古代的あり方をそのようにポストモダン状況に対する逃走線として捉え直すこともできるのではないでしょうか。  というのは要するに、変に深く反省しすぎず、でも健康に気を遣うには遣って、その上で「別に飲みに行きたきゃ行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的なんだという話です。こういう世俗性こそがフーコーにおける「古代的」あり方なのです。 p85

  • つまり、内面というのも権力によって規律訓練が行われているのだから、あんまり自分の内面にこだわりすぎるな、ということかな。例えば、「人と話すときは堂々と相手の目を見て話すものだ。卑屈になるな」みたいな考え方をする人は結構いる。僕は、相手がかわいい女の子なら目を合わせたいけれど、感じの悪いおっさんとかヘラヘラした兄ちゃんと目を合わせたりすると気分が悪くなるので目を背けたい。個人的に軽蔑してる人に関しては顔も見たくない。
  • 常識を疑え、とはよくいうけれど、規律訓練はその人の根深いところでおこなわれている。だから、変だなあ、と思っても、それが職場や業界の常識だったら、そこから外れるのは結構心理的にきつい。で、対決姿勢を強めていくと、だんだん自縄自縛になってくる。付き合ってる女性が目を見てくれない。「ねえ、何で俺の目見てくれないの?」「だって、いっつも言ってるじゃない。人の目を見て話すのは愚かだって」「いや、さびしいんだけど」「知らん」「俺たち付き合ってるんだよね?」「知らん」。
  • 二項対立の片方にコミットしすぎて「人と目を合わせて話すことがいかに愚かか」ということを周りに説明してもドン引きされるだけだし、だんだん自分の方が狂人のように思えてくる。そういうときは、真正面から対決しようとするな、ということを言っているのかな。
  • 「それが自分の人生なのだから」というのは、山下泰平氏が論じていた「簡易生活」にも近い発想かもしれない。ちょっと違う気もするけれど、内面にこだわらないで合理的に生活する、という姿勢は近い気もする。

ドグマとか去勢とか

これは、実は原理的な話です。たとえば Aという主張をするとして、それには理由 aがある、と言われる。それに対して批判が起こると、その理由 aをさらに根拠づける、より掘り下げた理由 bを言わざるをえなくなる。理由 bは「理由の理由」ですね。さて、さらに批判が続けば、理由の理由の理由……という掘り下げにはキリがありません。原理的には無限に続きます。このことを僕の『勉強の哲学』ではアイロニーと呼びました。  だけれど現実には、批判や反論はあるところで止めざるをえなくなります。時間に限りがあるからです。そうすると、ある段階で、事実上そこで行き止まりの「こうだからこうだ」としか言いようがない命題に突き当たることになる。原理的にはさらに遡れますが、そこで「手打ち」にするしかなくなる。その命題をドグマと呼ぶのです。  こうだからこうだ、というどうしようもなさは、すべての人が個人的に経験しています。それはすなわち、成長する過程での去勢です。 p132

  • ここはルジャンドルに関する説明。
  • これに関連する話題で、推論主義のブランダムだったら「デフォルトと挑戦の構造」とか持ち出してたなあ。つまり、理由の理由の理由という無限後退をいったんどこかで手打ちにするんだけど、それは必ずしもドグマではなくて、常に他者からの挑戦に開かれているという風に捉える。
  • ここの引用箇所は、求めても決して到達できないXについて説明しているところで出てきた話題だ。で、そういうXを追い求めてることは悲劇なのだそうだ。
  • よくわからん。確かに、カフカの『城』でKはいつまで経っても城に辿り着けないし、それは悲劇と言えば悲劇だ。でも逆に、たどり着いてしまったらそれはそれで悲劇じゃないだろうか。魔王を倒した後の勇者みたいに、もう何もすることがなくなってしまう。恋だって、成就するまでが楽しくて、結婚してしまったら後はひたすら退屈な日常が続くだけ、というのもあって、むしろそっちの方が悲劇かもしれない。野球選手は一本でも多くヒットが打ちたいし、芸術家はもっといい作品を作りたいし、科学者はもっと素晴らしい研究がしたい。そんな風にXを追い求めてる人はとても魅力的で、必ずしも悲劇的とは思わないけど。
  • それとも、夢を持たずに、日々の暮らしの中でささやかな楽しみを見つけ、それをその都度確実に味わうような生き方もあるんじゃないか? ということが言いたいのかな?

複数的な超越論性へ(ひとつのことにこだわるな)

ひとつの Xをめぐる人生というのは、いわば単数的な悲劇ですが、そうではなく、人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようということです。後に説明しますが、東は、単数の Xから「複数的な超越論性へ」という転換をデリダにおいて強調しました。  このように、無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性は、ある意味、近代以前に新たな価値を与えることだとも言えます。フーコーが晩年、古代に発見したような自己との関わり方がここにつながってくる。 p138

  • 叶えられない夢を追いかけるよりも、このささやかな日常を楽しもう、ということかな。日本一の漫画家になることを目指すよりも、コミケで薄い本が100冊くらい売れればいいやとか。大学で厳しい競争の中で身を削りながら研究するよりも、最近読んだ本のことをブログに書いて、少人数の仲間とあーだこーだ議論する方が楽しいとか。
  • そういえば、僕もそういうタイプだな。Xをとことん追い詰めていくような人というのは苦手だ。自分はどんどん変わっていくのに、「私は〇〇の専門家です」みたいに自己規定するのが昔から嫌だった。何だかよくわからない人に惹かれるし、僕自身もそういう何だかよくわからない人でありたい。
  • ただ、単数のXを追い求める人と、複数の有限な行為を一つ一つこなしていく人と、どちらが上等か、みたいなことは言えない気がする。やっぱり、単数のXを追い求める人がいないと世の中進歩しないと思うし。進歩するのがいいかどうか、という問題はあるけど、僕みたいな人だって世の中を進歩させてくれる人たちの恩恵を受けているわけだし、否定はできない。
  • で、どっちの生き方を選ぶのも自由なんだけど、そういう自由さを確保してくれてるのが近代社会なのだ、という考え方もある。大体、自己への配慮をしていたのは古代ギリシアなんでしょう? それは奴隷によって支えられた貴族たちの社会だ。自由だから、自己への配慮という生き方が選べたともいえる。フーコーは前近代というので古代ギリシアとか古代ローマをイメージしてるみたいだけど、僕みたいに農業経済学の世界の端っこで生きてきた人間からすると、前近代というのはやっぱり農村社会だ。自己への配慮もクソもなくて、そもそも自己なんてものはない、人々と共同体が一体化しているような社会だ。自由も何にもなかった農村的な前近代社会が近代化していく過程で個人が生まれ、だんだん自由を獲得していった、というのが常識的な見方ではないだろうか。
  • せっかく農村的な前近代社会を脱したのに、近代社会もまた自由を奪うから、自己への配慮ができる古代ギリシアへ、ということか。でも、近代社会は確かに不自由でもあるけれど、程々の自由もあると思う。だから、会社にいるときは死んだ魚の目をしてるけど、土日になるとイキイキとオタク活動に精を出すような人もいる。つまり、Xに駆り立てられる近代人としての顔と、程々に自分の欲望を満たしていく古代ギリシア人としての顔を使い分けるような生き方だ。それで十分じゃない? とも思う。
  • ただ、「Xを追い求めない自由」というのを提示してくれたのは良かったと思う。アマルティア・センはエージェンシーとしての自由みたいなことを言っていて、つまり、主体性を持って自ら目的を設定して動けるような自由が大事だという考え方だ。僕はセンは好きだけど、こういう主体的な市民的自由みたいな話になってくると、ちょっと引いてしまう。僕自身も自分の研究で主体性とか市民とかの概念を使うけれど、でも、使いながら、なんか違うな、と思うのも事実だ。
  • 市民として何かを達成しようとする人たちは、一面では自由だけど、Xに駆り立てられているという不自由さがあるともいえる。で、そのXは「地球環境保全」であったり「子供たちの幸福」であったり「貧困の撲滅」であったりする。でも、僕はそういう風にXを掲げることに気恥ずかしさを感じるし、不自由さも感じる。僕は一応環境倫理学をやっていることになっているんだけど、論文を書くと、どうしてもスローライフみたいなふわふわした話になりがちだ。それは、スローライフっていうのがXを立てない、自己への配慮だからだ。

感想

  • 近代的な自由とは違う新しい自由を提案しました、ということなら、現代思想の提案にはそれなりに意味はあると思う。ヘーゲル哲学みたいな、人々が相互承認しながら自分達を律する規範を作り、社会を主体的に作り上げていくことこそが自由だ、という近代的な自由観がある。これは、今の時代でも重要な発想だ。というのも、それはあくまで理想であって、実際には今でもそういう自由は必ずしも達成できていないからだ。ロシアや中国みたいに一方的な正義を国民や他国に押し付けてくるやり方に対して、ヘーゲル的な自由の意義を西側ももっと見直すべきだ、というのはあると思う。一方で、そういうヘーゲル的自由に窮屈さを覚えるというのもある。ヘーゲルだと多分Xというのは共同体における相互承認に解消されて、人々を脅迫的に追い詰める、ということにはならない。Xとはなにか。それは俺たちが決めたものだ。でも、実際にはそういう風にいつも相互承認がうまくいくとは限らない。というか、たいていうまくいかない。それで、相互承認はもっと精神が発展していったら達成できるものだ、という風に未来に持ち越される。すると、相互承認自体がX化してしまうんじゃないか。で、「対話を重ねていけば分かり合える」というふうな強迫観念になっていく。そこに窮屈さがあるんじゃないか。
  • Xを設定すると、それが強迫観念化していって、とても息苦しくなる。人々はXを実現しようとして、共産主義国を作ったり、ヒッピー村を作ったりして、それぞれにそれぞれの悲劇を生んだ。あるいは、科学主義を推し進めていって、人々が幸せになるかと思ったら核兵器やらAIやらに自分達の生存や職を脅かされるという阿呆なことにもなっている。Xを実現しようとすると大体ロクなことにならないのは経験的に人類もわかっているはずなのに、Xは強迫観念だからなかなかやめられない。
  • で、その息苦しさに気づいている人は当然たくさんいて、そういう人たちはキャンプをしたりオタク活動に精を出したり同人小説を書いたりしてXから時々距離を置いてみる。それを「いや、そうやってあなたたちが趣味で自分達を誤魔化してるからいけないのです。土日はスローライフを満喫してるかもしれないけれど、結局平日は、あなたたちは社畜でしょう? スローライフで蓄えたエネルギーを、Xの実現のために使うよう奉仕させられているのです。疎外された愚かな人びとよ。目覚めよ!」と止めさせようとする人もいるだろう。で、その人の言うことは確かに正論なんだけど、その正論自体がXでもあり、強迫観念を生み出すものだ。だから、「正論を言わないで趣味に生きる」というのがこの息苦しさを回避するための最適戦略だということになるのかもしれない。「最適」って言い方もちょっとXっぽいけどね。「正論を言わない自由」「Xを求めない自由」。そういう自由もありじゃないか、というのが現代思想の一つの提案だと思う。それは政治的には、Xを無理に実現しようとすることによる悲劇を回避できるという効用があるかもしれない。そして個々人の生活レベルでは、Xに駆り立てられる窮屈さから逃れてリラックスできるという効用があるだろう。どっちも消極的なんだけど、近代以降の人類ってマッチョすぎて付き合ってらんないよ、という批判的意義があるのかもしれない。
  • ただ、やっぱり気になるのは、みんながXを追いかけるのをやめて自己への配慮的なライフハックに精を出すようになると、社会が相当停滞することになるんじゃないかな、というところだ。千葉さんの提案する人間像はとても軽やかで明るいけれど、でもそれは、どこかでXについて延々と悩んでいる人が作り出した理論や技術によってイノベーションが生まれ、社会が経済発展しているから可能になることだ。ライフハックは楽しいけれど、Xを猛烈に追い詰める人たちの成果にフリーライドしているという面はあると思う。

 

追記(2022/05/02)

  • 初めてのブログ記事で、書き方がよくわからず思いついたことをダラダラ羅列した感じになってる。要約すると、現代思想を勉強する意義がよくわからなかった、ということを言いたかったんじゃないかな。ライフハックしたい人はすればいいし、Xを追い求めたい人は追い求めればいい。それは個人の価値観とか人生観の問題であって、わざわざ難しい理屈をこねなくてもいいのでは、というのが今の所の感想。で、逆にそれは個人の自由ではなく全ての人々がライフハックするべきなんだという主張なのだとしたら、それでは社会が回らなくなるのでやめた方がいいと思う。

 

引用した本

ピンカー本。下巻でニーチェをボコってる。

推論主義本。これも書評したいけど説明がしんどそう。

現代思想が言ってる「自由」って、「~からの自由」という消極的自由に近いと思うのだけど、センからしたら、いや、自分にとっての目的や価値を達成する積極的自由も大事だ、という不満があるかもしれない(センが著作の中で現代思想系の文献を引用してるの見たことないし)。

簡易生活。山下さんは明治時代のへんな文章をたくさん読んでる人。当時の娯楽小説を紹介した本も出していて(通称『舞ボコ』)、内面の葛藤に苦しむ舞姫の主人公を内面ゼロのマッチョ男がボコる小説などが紹介されている。ここらへんもある意味現代思想的なのかもしれない。