【読書ノート】21世紀の道徳 第10章

はじめに

  • 本書の第4部は「幸福論」と題されていて、所収の第10章から第12章は幸福について考察されている。
  • 第10章を読み終わったところで、ちょっとつらくなってきたので、思っていることを整理してみたいと思う。
  • 「つらくなってきた」というのは、ここに書かれていることをまともに受け取ると、自分の人生はどう考えても不幸で、ストア哲学を駆使して不幸をごまかしていくしかないということになってしまいそうだから。残りの章で何かフォローがあるのかもしれないけれど、先にこのつらさを整理しないと読み進められない。

第10章 ストア哲学の幸福論は現代にも通じるのか?

p240 生物学的インセンティブ・システムにおいてわたしたちの幸福が考慮される必要性はない

つまり、生物学的インセンティブ・システムとは、あくまでわたしたちを一定の年齢まで生存させて子どもを残させることを目的にして設計されたシステムなのである。欲求に振りまわされて辛く惨めな人生を送ることになっても、子どもさえ残してしまえれば、生物学的インセンティブ・システムの目的は達成されてしまうのだ。そこでは、わたしたちの幸福が考慮される必要性はないのである。

  • われわれの欲求は生物学的インセンティブ・システムに規定されている。しかし、それはあくまで生存と繁殖を動機づけるシステムなので、欲求に従うことがその人の幸福につながるかどうかは定かでない。食欲のおもむくがままに食べ続ければ体を壊して不幸になるかもしれない。性欲はあっても相手がいなければやっぱり不幸だ。
  • ここらへんは科学的事実だし、そういうものだろうと納得いく。

p241 生物学的インセンティブ・システムを出し抜くことが人間には可能

生物学的インセンティブ・システムがどのような報酬や罰を設定しているかを経験や知識に基づいて理解しながら、「自分が幸福になること」や「自分がよい人生を生きること」を目標に据えたうえで、生き方や考え方の戦略を練ることで生物学的インセンティブ・システムを出し抜くことが、人間であるわたしたちには可能なのである。

  • ここらへんも納得できる。世の多くの幸福論や自己啓発本に書かれているのはこういうことだ。たとえば「やる気が出ないならまず5分だけやってみなさい」とか「自分を誘惑するものを遠ざけて集中できる環境をつくりなさい」とか。
  • で、そういう生物学的インセンティブ・システムを出し抜くものとして、筆者が依拠するアーヴァインはストア哲学の復活を提案する。

p243 「自分の力でなんとかなること」のみに力を尽くす

では、具体的には、ストア哲学では欲求はどのようにしてコントロールされるのか?
その主たる方針は、世の中には「自分の力でなんとかなること」と「自分の力ではどうにもできないこと」があることを認めたうえで、前者のみに力を尽くすことだ。

  • p244では「負ける可能性のあるゲームは避けて、勝てるゲームだけをする」という言い方もされている。どうしても勝てないのなら、「「試合に勝つ」ことから「試合にベストを尽くす」」へと目標をずらせば良い(p255)。
  • ただ、こういう考え方には筆者によれば「「老人のための考え方」という側面がどうしても存在する」(p249)。それは、ストア哲学に従うと、自分の欲求を諦めて、自分の心の平静を重視することになるからだ。
  • 確かにそういう印象はある。たとえば、ちょっと押せばつきあえるかもしれない相手がいるのに、フラれたときのダメージを回避するためにいつまでも「良い友だち」でいようとする人は、かなり情けないと思う。
  • その一方で、少し違和感があるのが、ここで「勝ち負け」が幸福と関連づけられているように見えるところ。そもそも「勝ち負け」と違う次元で幸福を感じることはあると思う。たとえば春になり町のあちこちに花々が見られるようになって幸福を感じるとか。逆にいうと、ストア哲学では、「勝ち負け」に関わる不幸の回避にばかり重点が当てられていて、そもそも何が幸福なのかということについて積極的に議論していないのではないだろうか。
  • 「勝ち負け」で幸・不幸が規定されてしまうと、いわゆる「負け組」の人たちはみな不幸だということになる。で、それではほとんどの人が不幸になる。たとえば甲子園では優勝できるのは一校だけで、他の学校はすべて敗者だ。恋愛だって、まったく妥協無しに成就させている人はほとんどいないと思う。だから、大多数の人々は「負け組」であり、彼らはストア哲学で「負け」の不幸を回避するしかないということになる。でもそれは、そもそもの「幸福」の定義があまりに狭すぎるのが問題なのではないだろうか。自称「勝ち組」の人たちは「お前らは負け組だ」と執拗にマウントを取りたがるけれど、そういうマウンティングに対する違和感として、「そもそも勝ち負けはそこまで重要なんですか?」というものがある。
  • 勝ち負けに対するこだわりが自分の中に全く無いと言ったら嘘になるけど、四六時中勝ち負けにこだわっているわけでもない。

p251-252 ケンリックのピラミッドの上部にある欲求は、他者がいないと充たされない

ケンリックは、マズローの描いたピラミッドを進化心理学の観点から補修した。補修されたピラミッドでも基底部にあるのは生理的欲求に変わりないが、ピラミッドの頂点にあるのは自己実現ではなく「子育て」となっており、その下には「配偶者の獲得」や「配偶者の維持」がある。(…)
(…)ケンリックのピラミッドの上部にある欲求は、他者がいないと充たされないものだ。ストア哲学の考え方に基づけば、充たされるかどうかが不安定であるから抑制されなければならない欲求である。しかし、ケンリックは、わたしたちが「人生の意味」や幸福を感じられるようになるためにはこれらの欲求を充たすことが欠かせない、と論じる。社会的な生物である人間にとっては、他者との結びつきや家族を築くことへの欲求は根深くて重要なものだ。それを充たすことができなければ、いくら心の平静を保てたり自己実現できたりしたとしても、人生は空虚なものでありつづけるかもしれない。

  • さて、本章を読んでつらかったのはここの記述だ。
  • 詳細は書かないけど、ここでケンリックのいう「配偶者の獲得」や「配偶者の維持」や「子育て」というのは自分には達成がかなり困難だ。「それを充たすことができなければ、いくら心の平静を保てたり自己実現できたりしたとしても、人生は空虚なものでありつづけるかもしれない」というのは一面では真理だろう。さびしくないわけではないし、結婚できるのなら結婚したい。子どもを溺愛したい。しかしできない。
  • そういう不遇な人にはストア哲学がおすすめだと筆者は述べる。

p254-255 不遇な人にはストア哲学がおすすめ

ただし、不遇な生い立ちであることや、自身の能力や魅力が根本的に不足していたりするなどの理由で、どれだけ頑張っても「配偶者の獲得」といったピラミッドの中間段階にある欲求すら充たせられないという人だって、世の中には多く存在しているはずだ。
そういう人たちについては、不利な境遇のなかで欲求を充たそうと無理にがんばるよりも、早い段階からストア哲学を実践したほうが、有意義な人生を過ごしやすくなるかもしれない。「自分の力ではどうにもできないこと」への切望はさっさと捨ててしまって、自分にも達成できることに集中したり、あるいは自分の境遇について考える際のフレーミングを変えたりすることで、ふつうであれば他人よりも不幸になるはずの人生でも幸福に過ごせる可能性が出てくるかもしれないのだ。
ただし、このように考えるとストア哲学は対症療法的な幸福論ということになるし、「負け犬」のための幸福論ということになってしまいかねない。
(…)
しかし、だれであっても人生のどこかの段階からは「心の平静」を目指したくなるということだって、また確かなはずなのである。人それぞれの事情や特性に合わせながらほどほどに実践するぶんには、やはり、ストア哲学は現代にも通じる有益な幸福論であることは間違いないだろう。

  • 筆者は断言を避けているけれど、やっぱり本章の記述からは、ストア哲学は「負け犬」のための幸福論という風にしか解釈できないと思う。

感想:他人に自分の幸福を決められる筋合いは無い

  • 先に述べたように、「勝ち負け」でものごとを考えたら、ほとんどの人は「負け犬」になる。彼らは自分たちの欲望を満たすことができず悶々としている。ストア哲学を受け容れて、勝てない勝負を避けたり、勝てなくても「まあ、よくやったよね」と笑ってやり過ごせば心の平静は保てる。だけど、欲望を満たせていないのだから、彼らの人生は「空虚」だということになる。
  • そこでそういう人生が「空虚ではない」ということを示すのが、哲学や芸術の役目なのではないだろうか。宗教というのもあるけれど、「来世」や「生まれ変わり」を教義に据える多くの宗教は、科学全盛の現代社会において説得力を失っている(親鸞あたりはまだ使える気がするけれど)。
  • たとえば、文学作品に描かれる人々というのは、ほとんどの場合「負け組」だ。『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフなんか、冒頭で殺人事件を起こして、のっけから人生詰んでいる。でも、『罪と罰』はすでに人生詰んでる主人公の物語をその後1,000ページくらい延々とつづける。それは彼の人生が「空虚」ではない証拠だ。
  • ケンリックは、マズローの欲求段階ピラミッドの最上位に「配偶者の獲得」や「配偶者の維持」や「子育て」を置く。このように設定してしまうと、これらの欲求を満たせない人は負け組ということになり、「空虚な」人生を生きているということになる。しかし、「自己実現」が最上位に来るオリジナルのピラミッドなら、そうした負け組を作らなくて済む。なぜなら、「自己実現」の内容がどのようなものであるかは各人が自由に決められるからだ。
  • 最後にシベリア送りになるラスコーリニコフは、少なくとも刑期が終わるまでは「配偶者の獲得」も「配偶者の維持」も「子育て」も達成できないだろう。しかし、もし彼が何らかの意味で「自己実現」をしているのだとしたら、誰にもそれを「空虚」だと言われる筋合いは無い。ストア哲学に慰められることもなく、堂々と生きることができるのだ。そしてその姿に感動した読者は、各人が自分なりの「自己実現」のあり方を模索していくことだろう。
  • たしか保坂和志の『小説の自由』という本で、「幸福とか不幸とかの無い世の中をつくりましょう」と結婚式でスピーチする人のエピソードが紹介されていた。これは一見、幸福や不幸は人の心を乱すものだから無くしていこう、というストア哲学的なことを言っているようにも読める。しかしそういうことではないのではないか。「自分の幸福や不幸を他人に勝手に決められることのない世の中をつくりましょう」という風にも解釈できると思う。不幸をごまかそうとするストア哲学箴言よりも、ずっと人を前向きにさせてくれる言葉だと思う。

メモ

  • ただ、筆者としてはそういう「不幸だけど幸福」みたいな文学的なことよりも、まずは大多数の人にとってのスタンダードな「幸福」を提示したいというのがあるのかなあ、という気はする。今は、「弱者」や「マイノリティ」への(表面的な)配慮が行き過ぎていて、むしろ大多数の普通の人たちにとって息苦しい空気が醸成されてしまっている。まずは何がスタンダードなのかについて社会でちゃんと共通了解が無いと、まともな意見が何一つ通らないカオスになるだけだ。だから、議論のベースラインとして、こういう本があるのは良いことだと思う。