【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第5章 5.2(ラスト)

第5章 ヘーゲル経済学のプラグマテックな様相――経済を遂行する

ついに最終章の最終節。長かった。難しかった。つらかった。最後までがんばろうがんばる。

5.2 国際貿易政策の内生的規範性

  • さて、ヘーゲル経済学で現実の経済現象を分析してみようシリーズの第2弾にしてラスト。国際貿易だ。

  • 国際貿易というと、経済学の教科書では「比較優位に従うと自由貿易が一番効率的だよ」みたいなことが書かれている。つまり、関税とか輸入制限みたいな保護主義的なことやったら効率が下がるからさっさとやめろ的な話だ。

  • これは、「貿易に関しては制度はいらない」という主張とも解釈できるだろう。こういう、経済学の主流派の考えからしたら、制度というのは貿易に対する制約でしかない。しかし、ヘーゲル経済学においてはこれは間違いだ。むしろ「制度は貿易を可能にする(enabling)」(p251)のだ。

  • さて、ヘーゲル経済学の観点から国際貿易を考えるにあたり、まずは利益集団を取り上げてみよう。利益集団アソシエーションなのだ。

p252-253 アソシエーションとしての利益集団

利益集団は、制度に関する現代の貿易理論の見解において、決定的に重要な役割を演じている。利益集団は政府に対して影響力を行使し、その結果、政府は自由貿易という「合理的」政策から逸脱することを選択するというのである。
ここが、ヘーゲル的観点を導入するための最初の地点となる。利益集団と貿易政策とのインタラクションに対し、アソシエーションの概念を適用することで、代替的な見方を展開することはできないのだろうか。利益手段の役割を、内生的に貿易拡張的制度を創出することにとってその活動が必要となるようなヘーゲル的「アソシエーション」として捉え直すことができるとしたら、それはどのような意味においてであろうか。

  • ここでいう「利益集団」というのは、必ずしも自分たちの私利私欲を押しつけてくる厄介者というわけではない。たとえばp255で述べられているように、食品の安全やエコロジー的道徳性を気にする消費者も利益集団になり得る。つまり、ここでいう「利益」には、その利益集団にとっての利益を超えた、社会全体にとっての利益という意味も含まれている。こう考えると、利益集団はむしろ、国際貿易が社会全体にとって有益になるための重要な存在であるということになってくるだろう。

  • しかし既存の経済学では、こうした利益集団は邪魔者でしかない。そして、「自由貿易」の優位が説かれる。しかし、「自由貿易の一方的採用は存立可能な概念ではない」(p258)。なぜなら、それでは良い制度を評価する基準が決められなくなってしまうからだ。自由貿易の結果もたらされる均衡状態において、人々はそれが良い状態なのか悪い状態なのか評価できない。これは、パレート最適が資源分配の不平等を評価できない、というのと同じ問題だと思う。

  • また、ゲーム理論的に考えても一方的自由化は信憑性の無い政策だ(ここでいう「一方的」というのは、お互いに相談したりしないで「自由化」という戦略を選択することを意味する)。なぜなら、「比較優位に従ってバナナ生産に特化するよ」と宣言しておきながら、隠れてリンゴを生産することもできるからだ。そして、こっそり自由貿易から離脱しておけば、それを後で再交渉の材料に使うこともできる(「あんたもこっそりバナナ作ってるんでしょう? 俺らにリンゴ作るのやめろっていうんなら、あんたらもバナナ作るのやめろよ」とか)。つまり、一種の囚人のジレンマ状況だ。

p260-261 国際市場アクセスの「権利」の相互的交換による相互承認の確立

もっとも極端なシナリオでは、全員が自由貿易を採用するが、誰も最大限可能な程度には専門化しないことになる。誰も政策の維持可能性を信じないからである。一言で言えば、一方的自由化は、政策の信頼性のための十分条件を創出しないのだから、一方的自由化は「信頼性のない(no trust)」レジームである。
したがってわれわれは、相互承認こそが自由貿易を維持可能なレジームに転換する唯一の方法であると主張する。しかしながら、これには媒介物が必要とされる。そしてこの媒介物は国際市場アクセスを「権利」と見なすことによって得られるのである。相互承認を確立するのは、そのような権利の相互的交換である(…)。

  • それでこれ以降、相互承認を可能にする媒介物としての市場アクセス権(MARs)について議論が展開されていく。「MARsは貿易制限的であるから貿易拡張的なのである」(p261)。

  • 国内に目を向けると、自由化によって誰も彼もが利益を得られるわけではない。たとえば外国から安い農産物が入ってくると農家は困る。また、関税が撤廃されると為替レートも変わってくるので、国内のそれぞれの主体に何らかの影響が出る。つまり、一方的自由化には外部性があるということになる。これを内部化するのがMARsだ。

p262 国際的交渉を国内制度と調停を媒介するMARs

MARsの交換を確立することは、一方的自由化の外部性を内部化することを意味するのである。この結果、輸出業者は国内自由化のためにロビー活動する、より直接的なインセンティブを認識することになる。一方的自由化の政策は、輸入競合産業の国内ロビー活動によって覆される一方で、MARsの交換は、彼らの外国市場の開放と引き換えに国内の自由化を支持するインセンティブを生み出すことになる。(…)
(…)問題は、国際的交渉を国内制度と調停する必要があるということである。この結合がMARsによって媒介されるのである。

  • つまり、MARsのような貿易政策手段は「諸国間で信頼性ある仕方で評価をコミュニケートするための道具」(p269)になっているのである。これによって、貿易に関わる外部性が内部化されることになる。そして、その交渉の過程において、「公正性と正義は、すべての観察者が「公平性(impartiality)」の立場の採用へと向かっている」(p269)のである。そして、その交渉の過程において、先ほど述べた「利益集団」が関与してくることになる。なぜなら、利益集団は社会的選好を明示したり、発見したりすることができるからだ(p270)。

  • そして、ここからは利益集団のひとつとして、消費者が取り上げられることになる。題材は遺伝子組み換え生物(GMO)だ。ここでは、アメリカとEUGMO対応が対比的に論じられている。アメリカはGMOに肯定的だが、EUGMOを積極的に規制している。それは、GMOを「自然」とみるか「人工」みるかという、両者のGMO観の違いに対応している。これは、「遂行性」に関わるものだ。

p275-276 GMOアメリカとEUでは異なる仕方で「遂行されている」

アメリカにおいては、大規模な工業化された農業の長い伝統を受けて、GMOは長い間、人間的介入の異なる手段によって形づくられた「自然」の一部と見られていた。この見解はヨーロッパのものとは異なっている。ヨーロッパでは、環境保護運動有機生産技術という背景のもとに、ますます農業を人間的介入から独立した「自然」の一部と認識するようになったのである。農業と「自然」との連合は、フランスとドイツにおける地域的アイデンティティの自己認識という文脈で、ヨーロッパの大衆文化においてますます大きな役割を果たすようになっている。(…)「自然」に対してとりわけ責任を持つ経済活動としての農業という広い文脈でGMOにアプローチする際には、一定の政策制度と世論の間に部分的収斂が存在しているわけである。(…)
したがって、生産者、消費者、規制当局を含んだ認識と活動のインタラクションによって、GMOアメリカとEUでは異なる仕方で「遂行されている」と言うことができよう。1

  • つまり、制度の違いの背景には、それぞれの文化における農業観や自然観の違いがあるということだ。それによって、アメリカではGMOは「自然」であるのに対し、EUではGMOは「人工」であるということになる。つまり、両者でGMOが異なる仕方で遂行されているということだ。

  • だから、EUの視点からすれば、EUGMOに対して保護主義的戦略を取っているということではないし、WTOによって調査されるべきことでもない。両者の規制のちがいは、両者の市民社会の異なる基本原則によって引き起こされている(p280)。問題は、規制の理由がどのようなものであるかということだ。だから、「グローバルな市民社会活動の内部で選好のより踏み込んだ国際的コーディネーションに対する必要性が存在している」(p280)のだといえる。そのためには、「政府アクターと国際NGOを巻き込んだ、政策コーディネーションの多次元的プロセスを立ち上げることになるだろう」(p280-281)。また、これは科学によって客観的に解決される問題でもない。むしろ、科学者だけでなく「科学者でない専門家たちも含めたアリーナを開催」(p284)することが必要になる。また、こうした倫理的紛争を媒介する主体として、グローバル・コーポレーションの役割も重要になってくる。

おわり

  • はい、おわりー。疲れたー。
  • 前回の、「経営者の高すぎる給料問題」 の解決策のときも思ったけど、あんまり鮮やかな解決策ではないなあと思う。結局言ってることは、「経済学の言ってることを鵜呑みにして制度をつくると色々問題が起こってくるので、もっとみんなでじっくり話し合ってボトムアップで制度をつくっていきましょう」ということだ。恐ろしく難解でアクロバティックな議論を積み重ねてきた割には拍子抜けするほどお行儀の良い解決策だと思う。
  • そして、こういう泥臭い政治的な解決策を経済学者たちは毛嫌いするんじゃないだろうか。自分がこれまでに会った経済学者を思い出しても、「倫理とかめんどくさいこと考えるの嫌だ」とか「数字できれいに答えが出た方が良い」という人が結構いるし…。経済学のパラダイムシフトはなかなか進みそうにないと思う。
  • ただ、個人的にはヘーゲル経済学の使い道はあると思ってる。その点については、また後日考えてみよう。
  • 今回に限らず、本書の読書ノートはあやふやな理解で書いてるところがたくさんあると思う。全体の理解度は、自己評価で65%ってところ。膨大なページ数の注もちゃんと読んでないし。いずれ再読が必要だけど、その前に本書の主要参考文献の青木昌彦とかアンディ・クラークとかピピンとかを勉強した方が良いと思う。

  1. 農水省は2050年までに全体の25%の農地を有機農業に転換しようとしているけれど、ここの遂行性に関する議論を踏まえると、おそらくうまくいかないと思う。というのは、EU有機農業が一般の大衆文化における「農業と「自然」との連合」という認識に基づいたものであるのに対して、日本の場合、そうした一般レベルの農業観や自然観を無視してトップダウン有機農業を推進しようとしているからだ。政策制度と世論の間に収斂が成り立っていないわけだから、政策が実効的なものにならないと思う。具体的には、有機農産物への需要が高まらないとか、農業への補助に国民が消極的になる可能性がある。EUのFarm to Fork戦略(2030年度までに有機面積25%を目指す)をパクってるということみたいだけど、ヘルマン=ピラート読んで出直してきた方が良いと思う。