第2章 ヘーゲルの経済学原理
- さて、第2章ではヘーゲル哲学のエッセンスとして「連続性」「遂行性」「承認」の3要素が取り出されて、それらが経済学といったいどんな関係にあるんだい、ということが示されていく。
- ただ、経済学への具体的な応用の仕方は第3章でやるみたいで、本章ではむしろヘーゲル哲学のエッセンスを取り出すことに力を入れているみたいだ。
- 序盤の議論を少し飛ばして、先にさっきの3要素についてまとめているところを引用しよう。
p65 連続性、遂行性、承認
連続性. 自然現象(たとえば、神経科学的事実の世界における諸物の一定の配置のような)とそれらの社会的客観化(たとえば制度のような)との間で、存在論的整合性を確立すべきである。その整合性はしかしながら、何ら還元主義的主張を含意するわけではない。……
遂行性(performativity). 人間の行為は、次のような意味で創造的である。すなわち、人間の心の外在化された表現が、自分自身の実在性を確立するのは、人間的自由の体系を明示している「客観的精神」の諸構造としてであるという意味である。この領域におけるどんな外在化過程も、その本質がこの過程それ自身であることが明らかとなる。したがって制度的現実における意味は本質的に遂行的である。社会は成立させられる(enacted)ものである。というのは、社会は単に存在するものではなく、生成するものだからである。
承認. インタラクトしあう人間の諸個人の集団のなかで意味と意図とをもつこととしての行為主体性を相互に承認しあうことなしには、人間の行為は不可能である。
- 言い方がうねうねしててよくわかんない感じではある。曖昧な理解なりに、自分の言葉で説明してみよう。
- ここで「連続性」と言っているのは、精神と自然とは独立してなくて一つの統一体を成している、という考え方。p69あたりで詳しく説明されてるからあとで見てみよう。
- 遂行性というのは、制度をプロセスで捉えてみよう的なことだと思う。たとえば、貨幣というのも一種の制度なんだけど、貨幣を理解するには、10円玉をじっと見ててもわかんなくて、その10円玉を使って取引するプロセスを見ないとならない。いわば、制度は「もの」ではなくて「こと」なのだ、ということなんじゃないか。
- 承認はわかりやすいんじゃないかな。今の10円玉の例でいえば、ある人がおへそをいじってたら大きなへそのごまが取れたので、「これ、すげえ、10円、これ、10円!」とかいって、へそのごまを10円玉としてコンビニで使おうとしても、「ファック」と突き返されるだけだ。つまり、それが10円玉なんだと相手に承認してもらわないと、「買う」という行為は不可能だということだ。
- うーん。今のところ、連続性テーゼがなんで必要なのかよくわからん。遂行性と承認だけあれば、少なくとも今の10円玉の例はうまく扱える気がする。
- もしかしたら、精神と自然の連続性というのは、制度と心の連続性というのも含意してるのかな? 心の基礎にある脳というのは自然界の存在なので。制度と心のあいだに連続性があるとすると、たとえばある社会制度の下である特有の選好が形成されるみたいなことにもなる。これまでの経済学だと心と制度を別々に考えるけれど、両者が実は相互にインタラクトするものだという風に捉え直すことができる。そういう意義があるから連続性を持ちだしてるのかな?
- ちょっとまだよくわからんから、それぞれのテーゼに関する記述をもうちょい抜き出してみよう。
p69-70 連続性テーゼの具体例:車の運転
連続性の原理をもっと日常的な文脈で例証するために、車を運転するという簡単な状況を想定することにしよう。車を運転しているとき、私は自然な肉体的反応、脳、習慣からくるさまざまな身体的・情動的・知的資源を使用するが、それによって私はスムーズに運転でき、道路上の危険な状況を回避できる。……しかし、車を運転している間、私はまた他の人々の身体的・心的活動をも利用している。それはたとえば、私が運転している車をつくるのに役立つ物理学者や技術者たちのアイディアである。それはたとえば、エンジン、トランスミッション、エアコンシステムなどの具体的な形態で対象化されている。それゆえ私は、アイディア、概念、法、規則性などの様々な網の目のなかに埋め込まれているのである。そのうえ、車のドライバーにとって、当人の心的世界と他人たちの心的世界の間にいかなるギャップも存在しない。両者はテクノロジーによって媒介されており、もちろん社会的インタラクションそれ自体によっても媒介されている。というのも、私が運転するときに、私は同じルールに従っている他人たちと……たえずインタラクトしているからである。したがって、この分析は私の意図にまで延長されるが、その意図は実際には、たとえば私の旅行を安全に続けることを確実にするためのブレーキのように、これまで記述してきたような埋め込まれたシステムに由来するのである。さらに意図の範囲を広げると、旅の目的地までもそこに作用し始める。目的地は社会における私の役割によって規定されるかもしれないからである。このことがさらに私の意図を他人たちの多様な意図と結びつける、等々。
- ああ、連続性ってこういうイメージなんだ。
- ようするに、ものごとを個物としてではなく、関係性としてとらえる、ってことなのかな? 「車で走る」という一つの行為にも、物理的、心的、社会的といったさまざまなレベルの要素が関与している。普通の考え方だと、「私が車を運転すると意図して、私は車を運転する」ということになる。だけど、ここで言われているように、そういう意図さえも、実は私が勝手に選べるものではなく、社会的に規定されている側面がある。ここでは、自我と対象という二元論も成り立っていないように思う。
- 話がずれるかもしれないけれど、こういう世界観において、「責任」ってどういう風に捉えられるんだろう? AさんがBさんを殺しても、それはAさんだけの責任ではなく、Aさんを育てた親や教師、日本の教育制度や福祉制度、そうした制度をつくった政府を支持する日本人、そして「まぶしかった太陽」などにも責任があるということになる。『異邦人』の主人公のムルソーは「太陽がまぶしかったから」とかなめたこと言って人を殺したけど、連続性テーゼにおける世界観だとそういう主張にも正当性が認められてしまうんじゃないか。それとも、これはあくまで人の認知のあり方に関する議論であって、倫理について議論しているわけではない、ということなのかな(でも連続性テーゼだとそういう風に認知と倫理を分けることもできないと思うけど)。
- なるほどー、と思いつつも、本当にそれでいいの? とも思ってしまった。
p74-75 脳→人間行動という単純な因果関係ではない
ヘーゲルにとって、自由意志は内的状態ではなく、個人の自由を可能にする外的過程から生じるものである。これは、「意味」が社会性に関係するという事実にかかわっている。その結果、相互承認は、個人的行為と内的な物理的状態との間における複数の諸関係と両立可能である。たとえばわれわれは、生物的な性差が存在するという事実にもかかわらず、自分たちのジェンダーを自由に規定できる。ジェンダー・カテゴリーは、生物学的差異の上に写像された意味の外的構造である。……しかしこの自由は、われわれ個人の手の内にはなく、多くの個人の相互承認において集団的に創造されるものである。したがって、ヘーゲル的見解では、「自由意志」は個々人が持つ性質というよりも、そこにおいて意志の自由が可能となる集団の性質なのである。……脳の客観的性質と人間行動との因果的連関を確立することを目指す単純な神経生理学的説明……は、骨相学と同じ理由で失敗する。それは、その行動が置かれている社会的文脈を説明することができず、したがって行動の歴史的地位を見過ごすことになるのである……
- ここも連続性テーゼに関する記述。
- わたしは男性の脳を持っているからわたしは男性だ、という風にはならないわけだ。生物的に男性であっても、わたしはスカートをはきたい、とかもあるわけだ。連続性テーゼというのは、すべての事象を自然に還元して説明できる、ということではない。そうではなく、自然とか社会とか心とかがそれぞれ複雑に絡み合って相互に規定し合っているということだ。
- 脳によってすべてが決まるわけではない。だからといって、なんでもかんでも自由にやれるわけではない。だから、ある社会では、生物的に男性である人がスカートをはこうとしても周りから袋だたきに遭うなんてこともありうる。「へえ、スカートはいてみたの?」「うん、どうかな」「え、いいんじゃない?」「そう?」「うん。すごくいい」みたいな感じで相互承認が得られることで、初めて人はジェンダーを選択することができる。
- こういう風に、連続性テーゼは承認テーゼとも関わっている。両者は別々のテーゼではないのだ。
p78 遂行性:制度は歴史内在的であり、集団的に根拠づけられている
ヘーゲル的な精神概念について語るとき、遂行性テーゼは何を意味しているのか。もっとも一般的な考えは、精神それ自身が自分自身の展開のルール――精神は自分自身の現存の様態をその法則と調和させるのである――を決定していることである。ヘーゲルは外的規範としての制度というカント的説明を捨て、制度を歴史内在的なものとして、また精神が展開するなかで、精神の遂行ないし実現化に集団的に根拠づけられたものとして理解したのである。
- 遂行性の説明でわかりやすいところを探したけど、ぜんぜん見つからなかった。ようするに、制度は外から与えられるものではなく、人々が自分たちで決めるものだ、みたいなことなのかな?
p82 君主の例における遂行性:外的源泉の不在
最高主権を取り扱う際には、ヘーゲルは、君主の「単一な自己」を強調するが、それは国家を一人の人格のうちに具体化し、「理由と反対理由との間をつねに右顧左眄して動揺する熟慮を破って、『われ意志す』によってそれらを決定し、一切の行為と現実性とを開始する」ものである。……合理的であることは、相互主観的に分節化される……ことである。これが、意志の自己規定というヘーゲルの概念の背後にあるアイディアである。「われ意志す」という最高主権の場合、遂行的行為の構造をそのようなものとして特徴づけているのはあらゆる外的原因の不在である。
- つまり、国民が納得した上で君主に政治を任せているような状態だと、その君主の権威を支える何らかの「外的原因」は不在だ。国民が自分たちの意志で君主を権威づけ、そして君主は国民たちに支持されながら政治に関わる意志決定を行う。こういう「意志の自己規定」状態を扱うのが遂行性テーゼということなのかな?
- 今のウクライナのゼレンスキー大統領みたいな感じかな。大統領に強制されたわけでもないのに国民はロシアと必死に戦い、そしてそうした国民に対して大統領は日々メッセージを流し、自分たちウクライナ人の意志を再確認していく。そういう、人々と国や制度との幸せな調和関係を遂行性という概念で表現しているのかなあ、と思った。
- ただ、逆にそういう調和関係が成立しない場合もあるわけだよね。たとえば大統領がフェイクのメッセージを流し続けて自分の考える正義を国民に洗脳し続けるとか。支持率はめちゃくちゃ高いけれど、フェイクがばれたらあっという間に瓦解してしまうという点で頑健性はぜんぜん無い。
- こう考えると、遂行性テーゼが言っていることは、遂行性は常に成り立つということではなくて、遂行性が成り立たないと安定した制度は成り立たないということなのかな? 制度成立の必要条件としての遂行性テーゼということ?
p86 承認テーゼの例:契約
契約は、意志のこの新たな関係の具体化である。契約においては、「契約を締結した者たちが、相互に人格として承認し合い、所有者として承認し合う。(…)契約は客観的精神の関係であるから、承認の契機はすでに契約のうちに含まれ、そして前提されているのである」。外在化された意志のこの相互承認において、連続性と遂行性のアイディアは共に登場しているが、承認の原理によって補完されている。
- 相互承認を通して契約が成されるというのはわかりやすい。というかそのまんまか。
- で、「連続性と遂行性のアイディアは共に登場している」というのが具体的にどこを指しているのかわからんけど、なんとなく分かる気がする。まず、契約というのは双方の意志を具現化したものであり、自分たちで自分たちを律するものだから、遂行性テーゼが適用できる。また、契約というのは単に契約文書を取り交わすというだけのことではなく、その背後には「契約して金儲けしたい」とか「この契約は法律に違反していない」とかいろんな要素が絡んでくるわけだから、連続性テーゼも適用できる。
- 承認は割と分かりやすい話かなあ。次のページに、言語というのは承認が中心的役割を演じる領域のひとつだ、ということが書かれているけど、これもわかる。「昨日まで“タマネギ”とみんなが呼んでいたものを、今日から“ミミズ”と呼ぶことにします」って誰かが勝手に言ったって、そんなの他の人も承認してくれないと無効だ。
- で、こんな風にして「承認ベースの相互主観性だけが制度の真の基礎づけたりうる」(p89)ことになる。
p96 3つのテーゼの位置づけ
・連続性テーゼは、人間の行為主体性をその認知的基礎づけと関連づけ、制度を人間の心の外在化/具体化として取り扱うことを要請する。ここで、制度は人間の心と共進化しインタラクトするのである。
・遂行性テーゼは、人間の心と制度的現実との間の媒介的存在者としての言語の重要性を強調し、社会制度の創発と進化に対する観念の役割を強調する。また、自身に対して自身の法を与える規範的空間としての、社会的領域の自律的因果性へと目を開いてくれる。
・承認テーゼは、方法論的トリアーデの不可欠な要素として、制度的安定性と相互主観性の条件を把握するものである。前の二つと同じように、心の存在論と認知科学における最近の発展の両方に基礎づけられている。
- 大雑把に整理すると、連続性テーゼは個人レベルの認知と社会制度というミクロ・マクロの関係を扱うテーゼ。遂行性テーゼは制度を歴史上の均衡状態として扱うテーゼ。そして承認テーゼはそうした均衡状態を生み出す個々のプレイヤーの戦略(承認する/しない)を扱うテーゼ、ということになるかなあ。ちょっとゲーム理論を意識してまとめてみたけど。
p100-102 青木昌彦をヘーゲルで解釈する
青木は彼の理論を二つの考えに基礎づける。一つは、すべての制度は社会的インタラクションにおける均衡であり、それは、戦略的なバージョンであれ、進化的なバージョンであれ、ゲーム理論によってモデル化可能であるというものである。もう一つは、これらのインタラクションがコーディネーションの外的媒体を生み出すということであるが、青木はそれを公的表現(public representation)と呼んでいる。……
したがって青木の主張は、ゲームのある種類の結果が公的表現の産物であり、またその表現が今度は認知構造を形づくっているかぎりにおいて、一定の認知構造は現実世界のゲームに対して内生的であるということである。……われわれが受け容れる必要があることはただ、第一に文化的進化が公的表現の進化であるということ、第二に、選好の異なる集合が、個人的な行為の異なる性向を定義しており、その性向は人工物によって引き金を引かれるものであること、また第三に、人工物の進化としての文化的進化が個体群レベルの現象であるということだけである。
さて、今やわれわれは、これらの三点が今まで議論してきたヘーゲル的原理の発展として理解できるということを主張したい。……社会的インタラクションのなかでは、一方における、生後に個々の生命体を際立たせる特異な特徴ならびに人間諸個人の一般的な生物学的特徴と、他方における、社会的インタラクションの一定のパターンを支える選好の進化の過程で諸個人が持つようになった特徴の間に、根本的な連続性が存在している。しかしながら、こうした選好は生物学的レベルに還元できないのである。というのは、選好の形成は文化的進化、すなわち公的表現の創発によって媒介されているからである。……
同時に、表現の「公共的」本性は、表現をサールの意味で観察者相関的事実として確立する。存在論的には、表現は集団のなかの諸個人による承認に依存するのである。以前に述べたように、この承認は集団的志向性――すなわち人工物の使用を支配するルールについての共有された見方(そして意図された意味ではない)――にのみ基づくことができる。結果として、諸個人の行為パターンは、それらが特定の均衡を成立させるという意味で、遂行的であるが、彼らの選好は均衡において、この均衡の結果である公的表現によって媒介されたものとして内生的である。これが含意しているのは、人間的個人としての彼らのアイデンティティもまた遂行的だということである。
- ああ、打ち込みしんどかった。
- 青木昌彦のあの分厚い本は途中までしか読んでなかったので、「公的表現」なんて記号論とか言語哲学っぽい考え方が入ってるなんて知らなかった。ギンタスとかボウルズっぽいことをやってるのかなあ、くらいにしか認識してなかったよ
- でも、ここでヘーゲルを青木昌彦につなげることの意義ってなんだろう? ヘーゲル持ってこなくても青木昌彦をそのまま使えばいいのでは。
- でも、「承認」という考え方はもしかしたら青木昌彦には無いのかも。
p103 反省は社会的なものによって媒介されている
選好は、その選好について私が知っているという事実を含み、私がその選好に従うか否かを私が選択できるという事実を含んでいる。人間は、「合理的な愚か者」ではない。人間の理性は反省できるという根本的能力に基づいているが、これまで見てきたように、これは本質的に社会的なものによって媒介されている。というのは、反省は概念、すなわち集団レベルの現象である表現に基礎づけられているからである。たとえば、言語とか、その他の芸術的表現のような象徴的システムのようなものである。
- ここは、青木の議論を踏まえて、「選好の内生性」について論じているところ。選好は外生的に与えられたものではなく、行為と認知構造が共進化することによって形成されるものだ。
- だから、反省という行為を通して認知構造が変化して、選好が変わるということもありうる。そういうわけで、われわれは自身の選好に盲目的に従い社会的に望ましくない状況をもたらしてしまう「合理的な愚か者」ではない。だけど、反省は言語や芸術的表現といった集団レベルでの現象である「表現」に基礎づけられている。だから自分ひとりで好き勝手に選好を選択できるわけでもない。こういうのを、p105あたりでは「記号システムの外部性」と呼んでいる。
- たとえば、昭和の日本で男がスカートを履くのはかなりハードルが高かっただろう。「履きたい」って内心思っていても、周りの目があるので、本当に履くのは躊躇してしまう。で、躊躇するということは、その人はスカートを履くことを選好していないということだ。だけど、「異性装」という言葉が生まれたり、男でもスカートを履く人が出てくるドラマや漫画が世の中に流通することで、だんだん男がスカートを履くことのハードルは下がっていく。それは、その人が個人で反省したわけではなく、いわば社会全体が反省することで、男がスカートを履くことに対する選好を変えていったということだろう。
- センは「アイデンティティに先行する理性」ということを主張している。昔この考えを知ったときは、そんなの無理だろうと思っていた。理性を使ったって、自分のアイデンティティを選択することはできない。たとえば国籍をもとに馬鹿にされている人が「俺は○○人である前に、まず人間だ!」と言ったところで、周りが相手にしてくれないだろうし、そして周りが相手にしなければ自分でもだんだん自信が無くなっていくものだ。だけど、こういうアイデンティティの選択を個人ではなく集団レベルで考えるのなら、「アイデンティティに先行する理性」というのは十分成り立つ考え方になると思う。
p107 分散認知
記号と性向を結びつける因果メカニズムは分散認知の具体化であり……この考えは経済学においても次第に認められつつある。とりわけ、「ナッジ(nudging)」の規範理論がそれに当たるが、これは、人間の選択が、熟慮した合理的選択決定からは独立に、環境的手がかりに依存して深く文脈化されているという観察にもとづいている。
……遂行性は、プレーの状態が時間を通して再生産されるようになる仕方で、分散認知の構造がプレーの状態とともに内生的に進化することを意味している。
- 分散認知というのはちょっとネットで調べてみたけど、一人の個人だけで認知をするというのではなく、他の人とかモノとか記号と相互作用しながら認知をする、というようなことみたい。アフォーダンスとかだと、「椅子は座ることをアフォードするのだ」みたいな言い方をするけれど、そういうのも分散認知の一種なのかな。
- となると、ナッジも分散認知の一種だということになる。小便器にハエみたいなモノをくっつけておくことで、人は小便器からこぼさずにおしっこすることができるようになる。目とハエとおちんちんが共同して認知しておしっこを成功させているわけだ。
- で、こういう分散認知の構造はプレーの状態と共に進化しうる。あえてちょっとだけこぼした方が粋なんだ、みたいな文化が生まれてくると、ハエの位置をちょっと便器のフチよりに移動させるようになるとか(不適切すぎるたとえだった)。
- という風に、青木モデルを介することによって、ヘーゲルの議論がだんだん現代科学の領域に接続されていくわけだ。