ヘーゲル経済学の使い道

はじめに

  • 理解があやしいところもかなりあるけど、ようやく『現代経済学のヘーゲル的展開』を読み終わり、最後の章まで読書ノートをまとめることができた。

  • 個人的にはここ数年のあいだ読んだ本のなかではベストだと思う。ヒースの『ルールを従う』を読んだときも世界観がひっくり返されるような衝撃を受けたけど、そこで展開されている議論を現実世界にどう応用すればいいのかよくわからなかった。それに対し本書は、ヒース並にラジカルな世界観を提示している一方、現実への応用可能性までちゃんと考えている。筆者自身は経営者の報酬システムと国際貿易についてしか扱っていないけれど、たぶん他にもいろいろあると思う。今回は、自分なりにヘーゲル経済学の使い道を考えてみたいと思う。

ヘーゲル経済学の使い道(思いつく限り)

社会関係資本の蓄積過程を「相互承認」として定式化する

  • 社会関係資本ヘーゲル経済学の関連性は本書中で何度か言及されている。わかりやすいところだと、第4章の注22)で、「社会関係資本に関する研究は、明らかに個人のケイパビリティのさらなる概念化に寄与するし、それは、こうした現象の文脈性と歴史性に対するヘーゲル的な特徴を指示している」(p326)とある。

  • 社会関係資本ヘーゲル経済学は相性が良い。人々が行為するなかで生み出されるものであるという点で「遂行性」の要件をみたしているし1、また、人々のネットワークにおいて成り立っているという点は「相互承認」の要件とも関連しそうだ。さらに、社会関係資本がたとえば「地域の祭り」や「方言」や「国旗」のような形でシンボルとして外在化されているなら連続性テーゼも満たしているといえる。そして、社会関係資本は人々の協調行動をコーディネートしているという意味でひとつの制度とみることもできる。

  • それでは、社会関係資本研究にヘーゲル経済学を導入するとどんな新しいことが言えるだろうか?

  • ひとつには、相互承認という視点から社会関係資本の蓄積過程をモデル化できる可能性が考えられる。社会関係資本は、「資本」と呼ばれる割にはその蓄積過程がよくわかっていない。人的資本なら「勉強」という形で投資をすれば「収入」という形で経済的見返りが生じる。しかし、社会関係資本の場合、どうすれば「投資」したことになるのか。「飲み会をすればいい」「あいさつをすればいい」みたいなことは誰でも思いつくけれど、それを実証的に扱うのはかなり難しい。因果関係を特定するのが難しいし、データの切り取り方次第でなんとでも言えてしまうからだ。

  • 本書では、相互承認と社会関係資本の関連について次のように述べている。

p90-91 相互承認と社会関係資本

協力的・向社会的行動に優越性を付与するアイディアの議論の多くに見られるのは、第1章で議論した真にヘーゲル的な洞察を繰り返しているように見える。すなわち、第一には、相互承認が個人性にとって構成的であるということであり、第二には、自由へといたる道が次のような事柄から成り立っているということである。すなわち、諸個人の制度的環境からの疎外を克服し、諸個人を「故郷へと帰還」させ、一見分離しているようだが包括的な精神の諸形態のなかで互いを承認させることから成り立つということである。この意味で、承認は集団的生活のすべての現象にとっての根底的パターンと見なせるかもしれない。「社会関係資本」から「社会的選好」に至るまで、これらの現象は現代社会の制度的構造を維持し発展させるために重要なものであることが示されている。

  • かみ砕けば、社会関係資本は相互承認のひとつのパターンだということではないだろうか。だとすれば、その社会において相互承認を促進することが社会関係資本への投資である、という風にも読み替えられると思う。

  • 相互承認とは何か? というのは勉強中なのでそこまで突っ込んで議論できない。ただ、推論主義を使うともっと具体的なものになるのではないかという気はしている。ブランダムの推論主義では、承認は次のようなものとして捉えられている。

誰かを「承認(recognize)」するとは、その相手をコミットメントや資格をもつ主体として、責任と権威の主体として、規範的地位を有する主体として認めるということである。
白川晋太郎『ブランダム 推論主義の哲学』第7章

  • たとえば、その人が新入社員であるとすると、その人は規範的地位が中途半端にしか認められていない。当然会社に出入りすることはできるし、自分の席だってある。でも、社長に直接意見を言うことはできない。また、他の部署に何かをお願いしても冷たく断られるかもしれない。つまり、相互承認はされているものの、その範囲がかなり限定されているのだ。

  • この人が自分の規範的地位を向上するにはどうすればいいだろう? 仕事を真面目にこなす、というのがオーソドックスなやり方だろう。「あいつは自分のコミットに対してきちんと責任を持てる奴だ」という風にだんだん周囲から認められるようになってくる。そうすると、今度は自分で新しいプロジェクトを立ち上げて、他の部署に声をかけたときに「いいよ」と受け容れてもらえるようになるかもしれない。また、そうやってその人の規範的地位が向上していくと、今度はこの人自身が他の人の規範的地位に影響を与えられるようになってくる。つまり、新人の仕事ぶりを見て、評価するのだ。そして、その新人の規範的地位が向上すると、その元新人に仕事を任せられるようになってくる。こういう風にして、相互承認の過程を通して社内での協力関係が生成されていく。

  • 推論主義の観点から相互承認の過程をとらえるとこういう感じになると思う(たぶん、理解が間違っているところはたくさんあると思うけど)。相互承認を進める上では、「コミットをきちんと果たすこと」が重要だ。単に飲み会に参加すれば良いというものではない。飲み会にいつも顔を出しているけれど面倒な仕事だといつも逃げてしまうような人は他の人から協力が得られない。責任ある主体として互いを認め合うことが社会関係資本の蓄積には欠かせない。

  • また、推論主義における重要なキーワードである「明示化」も社会関係資本の蓄積過程には欠かせない要件だと思う。自分が何にコミットしているのか、相手が何に対して資格があるのか、といったことは普段は暗黙知に留まっていることが多い。それを明示化することで、人々が何に対してどの程度責任を負っているのかということが共有されていく。そうすることで、「俺は飲み会に毎回参加してるのに、周りからは責任ある主体として認められてなかったのか…」と判明するかもしれない。そのように明示化すれば、その人はもっと仕事を頑張ってコミットを果たし、周りから信頼されるように努力する動機を得ることができる。なぜなら、人には「承認欲求」があるからだ。

  • このように、相互承認という視点を取り入れることで、社会関係資本の蓄積過程をこれまでとはちがった風に描くことができる。また、研究者はインタビューやフォーカスグループ等の手法を用いコミットと資格を「明示化」することで、そうして得られたテキストデータを「蓄積」の指標とすることができるかもしれない。コミットと資格の「理由」も明示化しておけば、どのような行動が「投資」に当たるのかも特定できる可能性がある。飲み会の数をカウントするよりはずっと科学的なアプローチだと思う2

単なるマーケティング調査ではない、制度論としてのエシカル消費研究にシフトする

  • 最近、エシカル消費関連の論文をいくつか読んでいるのだけど、「計画的行動理論を使って消費者の購買動機を明らかにする」みたいなのが多い気がする。そういうのが無意味とはいわないけど、正直退屈だ。だって、それは結局はただのマーケティング研究に過ぎないと思うから。「消費者はこういうパッケージを好む」「こういう商品の購買意欲は性別間で異なる」とかを明らかにしようとするのとあんまり変わらない。商品を売りたい企業の視点からしたらそういう研究の方がありがたいのだろうけれど、そういう売り手の側に偏ったアプーチだと、「エシカル消費」という概念自体が一種の流行として消費されてしまいかねない。

  • エシカル」というのを、パッケージみたいなただの商品特性のひとつではなく、相互承認を通して形成される新しい制度として捉えてみたらどうだろう? エシカル消費関連の調査研究の多くは、匿名アンケートで消費者の意向を調査している。つまり、消費者は誰とも相談せずにひとりでアンケートに回答しているわけだ。でも、もし回答前に他の人と議論して、自分たちの購買行動が環境や外国の労働者にどう影響しているかとか、それに対し自分たちはどの程度責任があるかとかを明示化していったら、回答傾向がかなり変わる可能性がある。つまり、それは単なる消費者としての選好表明ではなく、市民として「エシカルという制度を支持するかどうか」に意思表明していることになるからだ。

  • もちろん、市民としてエシカル商品に好意的な回答をしたとしても、消費者としての普段の購買行動はあまり変わらないだろう。だけど、少なくとも、消費行動にかかわる外部性をエシカルという制度で内部化することに人々がどの程度積極的であるかはわかる。消費者としてエシカル商品をどう選好するかを問う調査は多いけれど、市民としてエシカルという制度をどれくらい支持するかを問う調査は見たことがない。そういう調査研究は必要だと思う。というのは、そういう風にエシカルを制度として着地させる視点がないと、エシカル消費が一部の意識の高い人たちの趣味で終わってしまいかねないからだ3。これもまた、「エシカル消費」という概念自体が消費されてしまうことにつながる。

  • ここで、「エシカルを制度と捉える」というのはかなり曖昧な言い方をしていて、具体的にどういうことかは述べていない。もしかしたらレジ袋みたいに何らかの金銭的負担を義務化するというやり方もありかもしれない。ともかく、そういう意味ある社会変革につなげていくには、今みたいなマーケティング調査的アプローチだとラチがあかないと思うのだ4

  • あと、ここでアソシエーションの役割が重要になってくる。なぜなら、ヘーゲル経済学ではアソシエーションが制度変革において直接的影響力のあるアクターと考えられているからだ。ランダムサンプリングで日本全国から回答者を選びました、というのじゃなくて、消費者団体とか農協とかのメンバーをターゲットに調査をするのだ。それによって、エシカルを制度化するにあたり、それぞれの組織でどの程度機運が高まっているかというのが見えてくるし、もし機運が高まってなかったら組織内で勉強会などをやるよう提案するなど、改善策もわかってくるだろう。

外部性を内部化する契機として人文学の社会的意義を根拠づける

  • 最近ちびちび読んでる『21世紀の道徳』で、人文学の意義は「民主主義を健全に機能させるための市民性の涵養」(p52)であると主張されている。これはヘーゲル経済学を使うともっと具体化できると思う。

  • ヘーゲル経済学では、ビジネススクールでの経済学教育によって「合理的経済主体」という経済学の教科書にしか存在しないはずの主体が現実化してしまうとされている。つまり、学生たちがやがて経営者になったときに、彼らは利益をねらって短期主義的な行動戦略をとるようになるのだ。なぜなら、そういう行動が経済学の教科書では正しいとされているし、他の経営者たちも同じように行動するはずだから自分もそうしなければ出し抜かれてしまうからだ。これにより、経営者は不正に手を染めるようになったり、リスクテイキングな行動によって会社を危機に陥れたりすることになる。つまり、ビジネススクールでの偏った教育が、社会に対して負の外部性をもたらしているわけだ。

  • ビジネススクールでの経済学教育だけでなく、倫理の重要性をきちんと教えない教育は一般的に負の外部性を生み出す可能性がある。たとえば理系教育において公正さの重要性を教えていなければ、研究不正という形で学術的発展を阻害するかもしれない。あるいはクローン人間のように倫理的にアウトな研究にこっそり手を染めてしまうかもしれない。しかし、「インパクトファクターの高い学術誌に掲載されるのが良い研究だ」と研究室で教員や先輩にたたき込まれてきた人は、そうした不正を悪いことだと思わないだろう。つまり、「研究者はインパクトファクター稼ぎを目指すべきだ」というゆがんだ制度が研究室内に形成されてしまっているのだ。

  • ヘーゲル経済学の概念を使うなら、こうしたゆがんだ制度は遂行性によりもたらされたものだ。つまり、その制度に従って人々が動き、それによってその制度の正当性がますます高まり、温存されてしまう。こうしたフィードバックループを断ち切るには、単に倫理教育をするだけでは足りないだろう。なぜなら、学生からすればそれは「黙って聞いて適当にレポート書けば単位がもらえるチョロい授業」でしかないからだ。彼らは授業時間に与えられた情報をすべて「ノイズ」として忘却するだろう。それはフィードバックループで処理されないただの外れ値なのだ。

  • たぶん、座学よりも対話形式の授業が有効だと思う。相互承認テーゼを活用して、「なぜ研究不正はいけないのか?」「なぜ経営者の給料が高すぎると問題なのか?」といったことを議論し、互いに理由を提示し合うのだ。

  • ここで、人文学が重要になってくる。なぜなら、人文学をうまく使えば、そうした「理由」をかなり深くまで掘り下げることができるからだ。このとき、学生自身が事前に倫理学の基礎知識を学ぶようにしても良いと思うし、教員が時々問いかけるとか、あるいは人文学の院生バイトに議論に参加させるとかでも良いと思う。ともかく、目の前にいる人から「なぜ?」と理由を問われているときに、それを「ノイズ」として無視することはできない。「なぜ?」に答えるなかで、学生たちは魔のフィードバックループから離脱することができるかもしれない。

おわりに:なぜわざわざヘーゲルを持ってくるのか?

  • ヘーゲル経済学の使い道として思いつくのはとりあえずこれくらい。でも、まだまだたくさんあると思う。

  • とても良い本なのでもっと売れて欲しいけれど、日本国内では全然売れてないみたいだし、アメリカのAmazonでもレビューがほとんどついてない。書き方が難しいというのもあるだろうけれど、書名も良くないんじゃないだろうか。「ヘーゲル」なんてついてたら誰も買わないと思う。経済学の人たちなら「あ、マルクスの焼き直しね」でスルーするだろうし、ヘーゲル好きの人たちもキワモノとして無視するんじゃないかな。「ヘーゲル的転回」なんて言われても、読む前の人からしたら「なんのことやら」って感じだし。カバーデザインも地味で内容とぜんぜん関係ないし、とにかく、売ろうという意思が全く感じられないつくりの本になっている。

  • ヘーゲル」をあまり前面に出さない方が良かったのでは? とも思うけど、他にやりようが無かったのかもしれない。「連続性」と「遂行性」については脳科学や心理学と対応づけができるから、必ずしもヘーゲルを持ってくる必要は無い。だけど「相互承認」はそういう風に科学で説明できるものじゃない。いちおうミラーニューロンの話とかも出てくるけど、そんなにきれいにつながってるとは思えないし。相互承認というのは科学で裏づけられるものではなく、ヘーゲルオリジナルの哲学的主張と考えた方がいいんじゃないだろうか。だとしたら、やっぱり「ヘーゲル」を前に出さないといけなくなってくるわけだ。それでもね…。もうちょっと売ることを考えた方が良かったのではないだろうか。じゃないと、この本の「遂行性」が成り立たなくなるよ。

この本を読んでみたいという奇特な人へ

  • たぶん、この本を予備知識無しで読んだら大半の人は撃沈すると思う。用いられている学問的知見の幅が広すぎるというのもあるけれど、筆者の説明がぶっきらぼう過ぎるというのもある。たとえば公共財ゲームの説明のところなんか抽象的過ぎて何がなんだかわからない。公共財ゲームって別にそんな難しい話じゃなくて、Googleで検索すればイラストや表を使ってわかりやすく説明しているサイトがいくつも見つかるのにね。単に著者の説明が下手くそなだけだと思う。

  • なので、この本を読む準備として他にどんな本を読んでおけば良いのかまとめてみました。基本的に、制度論とかゲーム理論に関する知識と、ヘーゲル経済学の3つのテーゼである「連続性」「遂行性」「承認」に関連する知識があればぎりぎり読み進められると思う。

  • 先に言っておくと、ヘーゲル関連の知識はまったく必要無いと思う。パラパラ流し読みした感じだとピピンの『ヘーゲルの実践哲学』を読んでおいたらよさそうだけど、これも必須ではない。また、ヘーゲル経済学はピピンたちアメリカのヘーゲル学者の成果をベースにしてるそうなので、一般的なヘーゲル入門書(長谷川宏『新しいヘーゲル』とか)を読んでもほとんど参考にならない。むしろ大時代的な議論展開にびびってモチベーションを無くしかねないので、ヘーゲル入門書は無視して良いと思う。

制度論・ゲーム理論関連の参考文献

下記の盛山本が良いと思います。人々がなぜ協力するかというのをゲーム理論を使って考察を深め、最後にはゲーム理論だけだと説明つかないからやっぱり制度が大事だよねという結論に至る、というのが大まかな流れ。説明がわかりやすいのにかなり高度なところまで教えてくれる。この本を読んでおくと、そもそも制度というのがどうして重要な問題なのか、ということが理解できるようになるので、ヘーゲル経済学を勉強するモチベーションづくりにもなる。

「連続性」関連の参考文献

連続性テーゼの科学的根拠として分散認知の話が出てくるけれど、これも筆者はちゃんと説明してくれない。長ったらしい注をたくさん書いてるくせに、こういう基本的なことを書いてくれない(ANTとかも「知ってて当然だよね!?」みたいなノリで出てくるし)。分散認知については、すみません、わたしもちゃんと勉強してません。アンディ・クラークの本が重要文献みたいだけど、どれもクソ高くて買う気がしない。

ただ、基本的には、人と環境との身体的インタラクションを通して現実が認知される、みたいな話なので、必ずしも分散認知を勉強してなくてもなんとなく雰囲気はわかる。なので、以下の薄いアフォーダンス本なんかでも雰囲気をつかむには十分だと思います(ぜんぜんちがう! とか詳しい人に怒られそうだけど)。

「遂行性」関連の参考文献

3つのテーゼの中で一番わかりにくいのが遂行性テーゼだと思う。連続性は「心と制度が連続的だ」ということだし、承認は「みんなで承認しあうことで制度が確立する」という風にざっくり理解できる。だけど、遂行性はそういう風にざっくり表現するのが難しい。行為によって制度が実現するということを言おうとしているみたいだけど、それだと連続性テーゼとそんなに変わらないように思えてしまうし…。言語に注目しているところが遂行性の特徴みたいだけど、そこもピンとこない。

正直、自分自身理解し切れてないのでどういう知識があればいいのかよくわからない。ただ、野家啓一の物語り論をイメージすると、わかりやすくなる気はする。物語り論では人は「物語り」を通して現実を理解しているというようなことが論じられている。つまり、物語りが一種の制度として捉えられているわけだ。で、わざわざ「物語」と送り仮名をつけているのは、物語りが「物語る」という行為としても捉えられているから。「物語る」という行為を通して制度が形成されていくという物語り論の発想は、遂行性テーゼのひとつのイメージになると思う。

あと、遂行性に関する記述を読みながらオートポイエーシスのこともイメージしていた。遂行性の説明で「社会的領域の自律的因果性」(p96)という言い方がされているけど、オートポイエーシスはまさに「自律的因果性」を扱おうとする理論だ。本書中でもオートポイエーシスは何度か出てくるけれど、遂行性との関連性ははっきり述べられていない。でも、たぶん関係してるんじゃんないかなあ、と思う。

「承認」関連の参考文献

承認テーゼに関する記述ではあちこちで「理由」という表現が唐突に出てくる。でも、なんで「理由」が問題になるのかはほとんど説明されない。

おそらくこれは、推論主義を意識した記述だと思う(参考文献リストに推論主義の親玉のブランダムも入ってるし)。推論主義の最重要概念のひとつは「理由」で、人は理由を述べられるから合理的なのだという人間観が主張されている。推論主義はヘーゲル哲学ともつながりがあって、以下の本の第7章では推論主義を使って相互承認を説明する議論が展開されている。比較的読みやすい本なので、目を通しておくと「承認」というのがどういうことで、それが「理由」とどういう関係にあるのか、イメージがつきやすくなると思う。

その他

行動経済学とセンのケイパビリティ論も知っていると良いと思う(これらも本書中では説明不足だ。「ファーーッッック!!!!」と叫びたくなるもなるさ)。Wikipedia程度の説明でも十分だとは思うけれど、わかりやすいテキストとしては次のものが挙げられる。


  1. というか、資本はすべて遂行的なんじゃないだろうか? 

  2. 相互承認と社会関係資本の関係についてはいろんな切り口があると思う。たとえば社会関係資本の要素として「信頼」「互酬性の規範」「ネットワーク」が指摘されているけれど、「信頼」を推論主義における「コミット(というかコミットを果たす期待?)」に、「規範」を「規範的地位」と「資格」に対応づけることもできるだろう。ともかく、社会関係資本をこうした外在化された行為で理解するのは社会関係資本を科学的に扱う上で重要だと思う。稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル入門』だと、社会関係資本は人の心に関わるものだということが強調されているけれど、あんまり強調しすぎるとほっこりする道徳話になってしまいかねない。連続性テーゼでいえば心と制度が連続しているのは自明だし、むしろ両者の関連性をきちんと論じるべきだと思う。

  3. たしかヒースの『反逆の神話』の最後の方でフェアトレードについて、きちんと社会制度を作らないで善意だけで社会を変えようとしても何も変わらないよ的な批判が書いてあったと思う。引越しの時に捨てちゃったのだけど、文庫化したみたいだからまた買おうかなあ。

  4. 統計好きの研究者たちは有意判定がたくさん出て楽しいのかもしれないけれどね。計画的行動理論が研究者たち(とくに院生たち?)に人気なのはそういう事情もある気がする。