【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第4章 4.1-4.2

第4章 ヘーゲル倫理学、経済学

  • 残り2章。頑張ろう。
  • 実はこれが一番読みたかった章。院生時代からアマルティア・セン好きでやってきたけれど、世間的には「センの議論だと具体的にどんな制度設計すれば良いのかわからない」という批判がちらほらあるのも気になっていた。
  • また、ちかごろは左翼的な議論はぜんぜん流行らなくなっていて、むしろセンがしつこく批判してきた功利主義的な発想の方が影響力を持つようになってきている。「1本の笛を3人の子どものうち誰に与えるか?」みたいなセンの哲学的思考実験は、「人々の効用の総和が最大になるようにすればいい」と功利主義者たちによってシンプルに解決されてしまう。「いや、そんな簡単に答えを出さないで、もうちょっと悩んでみませんか?」と小声で訴えたりしたら、「そんなことでぐじぐじ悩んでないで、さっさと総効用を最大化しろ! お前がぐずぐずして躊躇しているうちにも総効用はガンガン減っていくんだぞ!!」と怒られてしまうだろう。今や悩むことはすっかり時代遅れであり、世間知らずの怠け者たちの暇つぶしでしか無いのかもしれない。悩むよりも実践せよ。それこそが、功利主義の親玉ピーター・シンガーが『実践の倫理』で主張したことではなかったか。
  • だけどこの章では、センをヘーゲル哲学で補完することで、センの「実現ベースの比較」という発想を実効的なものにしようとしているみたいだ。うん、自分で書いてても何のことやらわからない。4章は1回全部読んだのにもう何も覚えてないのだ。以下で、引用しながら復習していこう。

4.1 政治的・倫理的諸価値の遂行性

  • ここは次のセンの「実現ベースの比較」に関する議論につなげるための予備的考察みたいな節になってる。
  • まず、いきなり節の最後の方から引用しよう。

p185 センの考え:制度を評価するための外的ベンチマークは確定しがたい

制度を評価するための外的ベンチマークを確定することの難しさが、センの正義に関する議論の中心をなしている。

  • どういうことかというと、「この制度が良い」ということはその社会ごとで違ってくるのであって、制度を評価するための客観的視点は存在しない、ということ。これが、センが『正義のアイデア』という分厚い本の中で論じていた「実現ベースの比較」という概念の意味だ。
  • 実はこのセンの考えはヘーゲル哲学の「遂行性」概念とリンクしている。なぜなら、「良い」と評価するためには「価値(というか価値観)」が定まっていないとならないのだけど、「価値」は、個人が勝手に決めるものではなく、「諸制度の歴史的発展が価値の普及と手を携えて進む」(p180)からだ。つまり、制度があるから、価値が定まる。そしてその価値を求めて人々が行動するから、そうした制度がますます強化される。つまり人々の行為を通して制度が形成され、価値が定まるという意味で、価値は「遂行性」と密接に関わっている。
  • この考えを支持する証拠は公共財ゲームの実験からも得られている。公共財ゲームとはこういうもの。

p181 公共財ゲーム

公共財ゲームと呼ばれる種類の特定のゲーム実験では、参加者は公共基金に寄付するように要請され、自分自身の実際の寄付額から独立した収益を、投資から手に入れることになる。他人からは実際の寄付額が観察できないので、ただ乗りへの強いインセンティヴが存在している。

  • 説明が抽象的過ぎてわかりにくい。もうちょいかみ砕いて説明してみる。
  • たとえば、プレイヤーが3人いるとする。で、基金にお金を寄付すると、うまいことお金が運用された結果お金はなんと2倍になって、3人全員に均等に分配される。3人が、100円、100円、100円という風に100円ずつ寄付したら、合計金額は300円になる。これが2倍されて600円になって3人に均等にキャッシュバックされるので、それぞれ200円、200円、200円を獲得することになる。大もうけだ。
  • さて、この3人の中に1人だけクソ野郎がいるとしよう。そいつの名前を仮に「クソ野郎」としておく。クソ野郎は金を一切出さずにキャッシュバックだけ狙おうとするクソ野郎だ。そうすると3人の寄付金額は、0円、100円、100円となる。基金には合計200円集まった。これがうまいこと運用されて2倍になって、400円になる。これを3人で均等にわけるので、それぞれ400/3円、400/3円、400/3円を受け取ることになる。ひとりあたり133.33333…円だ。こんな割り切れない分配額になってしまったのも含めてクソ野郎は本当に空気読めないクソ野郎だ。
  • このときクソ野郎がしでかしたことが、さっきの引用文で述べられている「ただ乗り」ということだ。で、ただ乗りが周りからばれないのなら、クソ野郎はピクニック気分でただ乗りするだろう。
  • さて、ここでこの公共財ゲームを修正してみよう。修正パターンは2つある。
    • 修正パターンA:ただ乗りする奴に問答無用で処罰を与える。
    • 修正パターンB:ただ乗りする奴に処罰を与えるかどうかプレイヤーに投票で決めてもらう。
  • パターンBはAに比べて民主的だ。逆に、Aは権威主義的といえるかもしれない。こういう条件で実験をやり直してみるとどうなるだろう?
  • 民主的な条件であるパターンBで実験すると、被験者が西洋人の場合に限り、協力の程度がかなり増大する。つまり、みんな積極的に基金にお金を寄付するということだ。
  • 逆に、中国人相手にパターンBで実験しても、協力の程度はかえって下がってしまう。むしろ、中国人には権威主義的なパターンAで実験した方が協力の程度は上がる。
  • これらの結果は何を意味しているのだろう? 筆者はこんな風に解釈する。

p183 異なる社会の文脈においては、二つの制度を評価するための外的ベンチマークが存在しない

実験が示しているのは、異なる社会の文脈においては、二つの制度(民主主義的な処罰のルールと権威主義的な処罰のルール)を評価するための外的ベンチマークが存在しないということである。(…)これが示唆しているのは、中国人の参加者たちが権威主義的な国で生活しているので、権威主義的価値がこうした制度レジーム内部における彼らの社会化の一部となっているということである。

  • この解釈は、さっき引用した「諸制度の歴史的発展が価値の普及と手を携えて進む」ということと対応している。つまり、中国では権威主義的な制度が成り立っている。だから人々はそれに対応して権威主義的な価値観を持ち行動するので、権威主義的な制度はますます強化される。こういう、制度と価値と行動のフィードバックループが筆者のいう遂行性ということだ。修正版公共財ゲームの結果はこのフィードバックループの存在を示唆しているといえる1
  • で、このフィードバックループの外部から制度の善し悪しを判定することはできない。中国人にとっては権威主義的な制度の方が自分たちの価値に合致していて望ましいかもしれない。しかしそれは、そうしたフィードバックループの外部にいる西洋人にとっては理解しがたいことだろう。これが、「制度を評価するための外的ベンチマークが存在しない」ということだ。
  • さて、以上の議論を踏まえて、「制度を評価するための外的ベンチマークを確定することの難しさ」を論じるセンの「実現ベースの比較」という概念をみていこう。

4.2 センの「実現ベースの比較」という概念

  • センがいう「実現ベースの比較」というのは、「超越論的制度主義」に対比されるアプローチだ。
  • 超越論的制度主義というのは、ホッブズとかロールズみたいな社会契約論的発想で制度を構想するアプローチだ。たとえば、ロールズは無知のヴェールのもとで利己的な人々が正義とは何かを考えていったら、権利の平等と格差原理という正義の二原理が導き出されると主張する。つまり、現実を無視して、「無知のヴェール」みたいな仮想状況からいきなり天下りで「正しい制度」を導き出すようなやり方だ。
  • これに対し、センのいう実現ベースの比較というのは、現実の制度をベースとして、それをどう修正していったらもっと正義にかなった制度になるかをあれこれ試行錯誤して考えていくアプローチだ。超越論的制度主義が空中から突然ボコッと「完璧な正義」を取り出してくるのに対して、実現ベースの比較はもっと泥臭い試行錯誤の中で「ましな正義」を編み出していく。
  • 普通に考えると、センの言っていることの方がまとものように思える。ホッブスリヴァイアサンとか、ロールズの無知のヴェールとか、お話としては楽しいけれど、現実の制度とはあんまり関係ないように思われる。「超越論的制度主義は、現実世界では個人の選好序列が決して完全ではなく、異なる個人の価値判断が異なる原理に基づいているという事実を無視するものである」(p186)。つまり、ロールズみたいな正義の二原理の世界に住みたい人もいれば、そんなの絶対嫌だって人もいる。ロールズなら「いや、無知のヴェールがあるから嫌がる人なんていませんよ」って言い訳するだろうけれど、そもそも現実世界には無知のヴェールなんてなくて、誰もがそれぞれのアイデンティティと選好序列を持っているのだから、現実世界において無知のヴェール論法は無効だ。
  • だけど、じゃあセンのアプローチが良いのかというと、実はこれにもちょっと欠点がある。

p186-187 実現ベースの比較の欠点

最も有害な欠陥の一つは、このアプローチが現実世界の制度の場合にどう作用するのかに関して、飢餓といった明白な場合以外には、センが詳細で説得的な事例を提示していないことである(…)。センは、フルートをもらいたがっているが主張が異なる三人の子どもというお気に入りの例に対して、解決策を提示することさえしない。
もう一つの問題は、センが、アダム・スミスによって展開され、「開かれた公平性(impartiality)」として再定式化された「公平性」の観念にもとづいていることである。しかし、民主的手続きの結果と、正義に対する公平な観点から最適と見られるものとの間には、必然的な関係が存在しない(…)。後に見るように、こここそがまさにヘーゲル的転回の可能性が作用し始める点である。

  • 一つ目の問題点は、具体的にどうやって制度を比較すればいいのか、という問題だ。センの本を読むとわかるけれど、センはたいていの問題に解決策を出さない。「あれもあるしこれもあるし、そうそうこういう問題もあるよねえ」と問題を色々な視点から検討するだけだ。引用にあるように、フルートを誰にあげるか、というおなじみの問題でさえそんな調子なのだ。
  • その禅問答的なところがセンの魅力だと思う。センに言わせれば、ものごとに簡単に解答を出そうとするからこそ、人々はこの世界に様々な形で存在する不正に対して盲目になってしまいがちなのだ。ケイパビリティとかも、ヌスバウムなんかは安易に「あたしが考えるこれらが重要なケイパビリティなのよ!」とリスト化してしまうけれど、センはそういう風にケイパビリティをリスト化するのにも躊躇する。よく、センは人間開発指数をつくった人だ、みたいに紹介されることがあるけれど、セン自身はそういう風にケイパビリティを指数化することにも抵抗していた。そんな人だから、「こういう制度の方が良い!」なんて安易な答えを出すわけが無い。そんな風に安易に答えを出してしまう姿勢こそが民主主義に対する敵なのだ。でも、それゆえに、じゃあセンの構想を現実にどう生かせばいいのさ、という文句を言われてしまうというのは否めない。
  • 二つ目の問題点は、ここで言う「開かれた公平性」というのが何なのかを説明しないと理解できない。
  • まず、「開かれた公平性」と対比される「閉じた公平性」から考えよう。「閉じた公平性」はロールズが考えるような公平性だ。ロールズのいう公平性はあくまでその共同体で無知のヴェールをかぶった特定のメンバーたちにとっての公平性であって、その共同体の外の人たちは考慮に入っていない。なぜなら、彼らは社会契約に参加していないからだ。ロールズのモデルだと、ある共同体の人々が、別の共同体の人々の正義のあり方にどう影響するかという問題はうまく扱えないのだ。
  • これはただのモデル上の問題だけじゃなくて、実際の制度変化の評価を考えるときに問題になってくる。たとえば、少なくとも日本では女性は顔を人前に出してOKだ。だから日本で、「顔を隠しなさい!」と女性に迫る人がいたら、その人は不正行為をしているということになる。一方で、ある国では女性が人前で顔を隠さないのは禁止されている。契約論的に考えれば、その国ではそのように社会契約したのだから、外国人からとやかく言われる筋合いは無い。だけど、日本人からすると、そうやって女性差別をしているのは良くないことなのではないかとも思える。こういうとき、その国での女性の扱いをどのようにしたら良い制度だといえるのか。自分たちで決めたのだからそれは良い制度なのだ、と考えるのが「閉じられた公平性」の立場だ。だけど、それは直感的にはどこかおかしい。
  • このように、ロールズ的な閉じられた公平性で現実の制度を考えていくと、「自分たちで決めた制度は良い制度だ」という発想のために、制度はとても偏狭なものになってしまいかねない。そして、そうした偏狭さを批判する視点は共同体の中では確保できない。なぜなら、それは「自分たちで決めた制度」だからだ。そのため、閉じられた公平性だとダメな制度が批判されないまま温存されてしまうのだ。
  • センの言う「開かれた公平性」は、そうした特定の共同体に縛られることなく、グローバルに公平性を捉えて行こうとする発想だ。つまり、制度変化の評価をするときに、その共同体のメンバーだけでなく、非メンバーの見解も考慮しようということだ。これは別に他国に内政干渉しようという話ではない。そうではなく、グローバルな視点から制度を評価しようということだ。その上で、「実現ベースの比較」により少しずつましな正義をつくっていこう、というのがセンの提案だ。
  • ただ、先の引用にあるように、このセンのアイデアには問題がある。ひとつは、具体的にどうやって制度を比較すればいいのかが明らかでないこと。そしてもうひとつは、開かれた公平性を実現するにしてもどんな手続きで実現すればいいのかがわからないことだ。つまり、民主的な手続きとは普通は国内での普通選挙なのであって、グローバルな視点からましな正義をつくる手続きは提案されていない。たとえば、多くの日本人が「北朝鮮って不正義だよなあ」と思っていたって、そういう日本人の考えを北朝鮮の制度に反映させる仕組みは何も提案されていないのだ。

  1. もっとも、このフィードバックループは「歴史的」なものなので、実験だけで確かめることはできないだろう。ここでは、あくまで証拠のひとつを挙げたというのに留まると思う。