【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第3章 3.1 現代脳科学に関するヘーゲル形而上学

前説

  • まとめるのがすごくおっくうで、ずいぶんサボっていた。うまくまとめられてる気がぜんぜんしないし、後から自分の記事を読み返すのもおっくうだし、書いても絶対アクセスゼロだし……。でもやっぱり良い本だからちゃんと最後までやろう。
  • 実はすでに第4章を半分くらいまで読み終わっている。第4章はアマルティア・センの議論の難点をヘーゲル哲学で補完するみたいな展開になっていて、すごく面白い。センが『正義のアイデア』で示した「実現ベースの比較」という発想がヘーゲル哲学の連続性概念で補われて、カント的義務論は感性とか情動とか欲望とかを無視してるから実行不可能なものになっていると指摘されている。これは、倫理的判断において理性の役割を過度に重視しようとする最近の論調(『21世紀の道徳』とか、同書で引用される哲学者たちの議論など)に対する強力な批判になると思う。倫理的判断において理性が大事だというのはその通りなのだけど、その行き過ぎで感情がほとんど有害なものとして扱われがちなのがずっと気になっていた。そのモヤモヤが本書で解消されるかもしれない。
  • 見返りはかなり大きいはずなので、しんどくても頑張って最後まで読もう。難しいから一節ずつ。

第3章 経済的行為の精度的本性

本章のポイント

  • 第3章は、第2章で出てきた連続性テーゼ・遂行性テーゼ・承認テーゼを応用して、選好と貨幣という経済学の基礎部分を位置づけ直していく。そうすることで、選好や貨幣が制度的なものだというのが明らかになってくる。
  • 貨幣が制度なのは当たり前だけど、選好が制度だというのは普通はなかなかピンとこないと思う。「リンゴが好きだ」「アニメが好きだ」というのはその人の個人の選好であって、社会制度とは何の関係も無いというのが一般的な経済学における理解だろう。だけど、実はそういう選好も制度として形成されたものだ。ここらへんは、ブルデュー文化資本論みたいな社会学の議論をかじった人には飲み込みやすいかもしれない。
  • ただ、その前に、脳科学の話から入っていくことになる。これは連続性テーゼを意識しているからだ。制度の話をするのなら、制度と連続したものである人間の脳の話もしなければならない。

3.1 現代脳科学に関するヘーゲル形而上学

p112 別に経済学を脳科学に還元したいわけではない むしろ逆

われわれは経済学を脳科学に還元することが不可能であることを示したい。なぜなら制度は外的事実であり、人間の行為に対して構成的であるだけでなく、人格としての人間的個人に対しても構成的だからである。

  • 3.1節で、は前章で出てきた連続性テーゼを脳科学的に裏づけるような内容になっている。で、そのために、脳と外的世界がどんな関係になっているのかを示していく。別にすべてを脳科学に還元しようということではなく、むしろ脳と外的世界のインタラクションが描かれていく。

p114 脳はオートポイエーシス的システム

脳は感覚インプットに基づく内的パターンを作り出すが、これらのパターンは、感覚インターフェイスにおける最初のパターンを超えると、外的世界から独立する。このことは脳が創造的存在物であることを意味している。(…)言い換えれば、脳はオートポイエーシス的システムなのである。

  • たとえば、人はアニメを見て、そこに人や動物や機械が動いているように感じる。だけど、外的世界では別に何かが動いているわけではない。セルアニメであればそこにはたくさんの静止画があるだけだし、3DCGアニメなら単に光のドットが明滅しているだけだ。したがって、脳は外的世界をそのまま反映しているのではなくて、脳の中で、外的世界から独立した内的パターンが創造されているのだといえる。
  • では、このように外的世界から内的パターンは独立しているのに、どうして人間は現実世界で活動することができるのだろう? 本人は普通に歩いているつもりでも、いつの間にかコケてた、なんてことになるのでは? そうはならない。なぜなら、感覚インプットと運動アウトプットとの間にフィードバック・ループが存在するからだ。

p114-115 感覚インプットと運動アウトプットとの間のフィードバック・ループによる地図の訂正

脳は、これらの諸カテゴリが正確に世界のパターンを反映するような仕方で、ニューロンのパターンをカテゴリ化する必要がある。(…)このことが可能となるのは、感覚インプットと運動アウトプットとの間にフィードバック・ループが存在するからである。運動プロセスの結果が脳にフィードバックし、世界の内的地図は不断に訂正され、適応させられるのである。(…)脳がフィードバックを処理する仕方には、つねに二つの異なる方法があることを意味している。一つは現存の地図を訂正することであり、もう一つは新たな感覚データのカテゴリを変化させることである。(…)
この見解は、現代脳科学によって証明されてきた。現代脳科学は、行為の予測と、行為の予測と結果の乖離を指示する異なる種類の内的地図に基づいて、統計的最適化に従事している「ベイジアン機械」として脳を特徴づけてきたのである。

  • だから、その人がコケたのだとしたら内的地図が間違っていたということだから、フィードバック・ループによって地図が訂正されることになる。
  • このようなフィードバック・ループによって人間は外的世界を認知している。人間は単に感覚データを受動的にインプットしているのではなく、行為を通して、外的事実を構成している。

p116 外的事実は、それが行為を含む限りにおいてのみ事実なのである

人間の認知システムの根底的単位は、感覚運動的回路である。これらの回路は、外的事実を構成的な事実で含んでいる。外的事実は、単なる「データ」ではなく、それ自身が行為の結果、あるいはもっとラジカルな言い方をすれば、外的事実は、それが行為を含む限りにおいてのみ事実なのである(ここでの行為には、視覚のような知覚も含まれている)。

  • こう考えると、身体を持たないAIが人類を支配するみたいなありがちなSFはとても素朴な 世界観に基づいていることがわかってくる。身体が無く、それゆえ行為できない存在には、そもそも外的世界を認知することさえできない1
  • そして実は、身体が無いと心も無い、ということになる。

p118 脳は、行為として遂行されているときにのみ「心」になることができる

このように、人間の心は行為の存在論に基づいている。この存在論は遂行性と連続性という二つのヘーゲルの原理を反映するものである。人間の脳は、心的活動が外部世界に対する行為として遂行されているときにのみ「心」になることができるということ、そして、この事実によって、脳は内的な神経生理学的事実と外的出来事との間の連続性を現示するということである。

  • 学術書なんだけどこの一節はほとんど詩のようになっていると思う。脳は、行為として遂行されているときにのみ「心」になることができる。かっこいい。
  • で、ここでいう「心」というのは、ヘーゲルのいう「精神」のことだ。

p119 ヘーゲル哲学の脳科学的裏づけ

ハイエクがそうしているように、純粋にフォーマルな観点で脳を見るならば、同化が完全に支配するという意味で、世界が脳の自己言及的プロセスのなかで完全に「消滅する」概念的可能性が存在するという結論に到達する(…)。それは脳に関する根本的に「観念論的な」見解を意味することになるだろう。それは、「現実」としての「世界」は完全に脳に依存することになり、脳によって構築された世界を超えた、いかなる「物それ自体」も参照する理由がないことを意味しているからである。
(…)Stern(2008)は、観念論的立場を発展させるという点で、ヘーゲルがカントよりも一歩先を行っていたと論じている。カントはまだ外部世界(「物それ自体」)を措定しているのに対して、ヘーゲルはこれを疑問視し、心が心的事実のみを参照できること、すなわち、彼の言葉では、唯一の存在する事実の種類は心的ないし精神的であるということを主張しているからである。この観点は、現代脳科学に対するわれわれの解釈の中に、その直接的対応物をみいだすことができるものである。脳にとってはニューロン的事実以外の事実は存在しないということである。

  • このように、「唯一の存在する事実の種類は心的ないし精神的である」というヘーゲルの世界観には脳科学的裏付けがあるといえる。
  • 「観念論」というのは哲学嫌いの人が哲学者を馬鹿にするときの悪口として使われることもある。で、そういう人たちは「もっと現場に出て現実を見てこい」と説教するのがお決まりだ。しかしむしろ、観念論は現場重視の哲学だ。現場で行為するからこそ、脳は「心」になり、現実を構成することができるのだ2

p121 オートポイエーシス的脳から脳のオートポイエーシス的共同体へ

言語の本質を考えるなかで、Wittgenstein(1953)は、意味には個体群レベルのルール(すなわち言語使用者の共同体)が必要とされると主張した。というのは、個人は純粋に個人的基礎に基づいては、ベンチマークを欠くことになるので、意味を確立するルールにしたがうことが不可能だからである。つまり、意味の適用の失敗は、内的にはチェックできないのである。(…)こうして、脳の内部のあらゆる種類の象徴システムは、脳同士のインタラクションのウェブに埋め込まれるときにのみ、維持可能な情報内容をもって進化するのだろうと論じることが可能である。(…)
このようにして脳は、知識の安定的構造を生成するために外的足場(external scaffolds)に頼る必要がある。これらの足場は、他の脳と共-構成(co-construct)される必要がある。なぜなら、そうすることだけが必要な安定性を足場に提供するからである(…)このようにして、われわれはオートポイエーシス的脳から脳のオートポイエーシス的共同体へと移行する。

  • 感覚と行為のフィードバック・ループによって構成される世界は、まだ個人にとっての世界にとどまっている。つまり、ひとつの脳のオートポイエーシスしか見ていない。複数の脳の間にも言語を通してオートポイエーシス的なインタラクションが発生し、それより「意味」が生まれる。

p127 精神科学の事実は神経科学的事実に還元できない

個人的自由という還元不可能な表現(内在主義)を可能にしているのは、創造性という外的足場(外在主義)なのである。このことは、精神科学の事実は神経科学的事実に還元できないことを含意している。(…)
(…)行動経済学に関していえば、合理性の仮定と観察された行動との間の矛盾を述べるだけでは十分ではない。その先にある問いは、その中で、経済理論が経済主体としての個人の行動にうまく適用可能であるような、制度や神経科学的事実の構成(configuration)が存在するか否かである。

  • 行動経済学を最後にちょっとディスってるのが面白い。
  • 経済学は一般的に内在主義だ。つまり、外的世界がどうであるかとは関係なく、個々の経済主体は効用関数を持っていて、効用最大化のための行動をとると考える。行動経済学は、個人が必ずしもそういう経済合理性に従って行動するとは限らない、ということを実験データを通して明らかにしてきた。でも、それは結局は「人の脳は経済合理的でない」と言っているだけであり、外的世界(制度)との関連を考察していない点で、行動経済学も内在主義のもうひとつのバリエーションでしかない。
  • 本節ではこのように、個人にとっての世界のあり方を脳科学に還元して説明しようとする内在主義をコテンパンにやっつけた。そしてその結果、行動経済学も含めた既存の経済学もコテンパンにやっつけられることになる。そしてつづくふたつの節では、ヘーゲル哲学を使って選好貨幣という経済学における重要概念を捉え直すことになる。

  1. まだ3章が始まって10ページも進んでないのにめちゃくちゃ面白い。最近はメタバースとか、セカンドライフの二番煎じみたいなのが今さら流行ってるけど、やっぱり古臭い発想なんだなあ、と改めて思った。自分の身体に恨みでもあるのか、身体を捨てて電脳世界に旅立とうという人たちは多い。でもそれは、アバターという空っぽの身体に乗り換えることで、外的世界そのものを貧しくすることにしかならないと思う。たとえばメタバース上では「痛み」は感じない。痛みが無いということは、転んで痛いとか、トゲに触って痛いとか、足の小指を角にぶつけて痛いとか、人に平手打ちされて痛いとか、そういう「痛い」にまつわる様々な体験を失うということだ。それは石畳やトゲや角や手の平の違いを区別できなくなるということであって、世界がのっぺりとしたとても貧しいものになってしまうということだ。

  2. 「構成」といっても、社会構成主義とは全然違う。社会構成主義では現実は言語的に構成されるものであって、身体も行為も考慮されていない。社会構成主義を額面通りに受け取れば、「高層ビルの最上階から飛び降りれば人は死ぬ」ということまで社会的に構成されているのだから、社会における言説のあり方が変われば飛び降りても人は死なないということになる。だけどそんなことは無くて、言説がどうであろうと、人は高層ビルの最上階から飛び降りれば死ぬ。それは、人の身体が衝撃に耐えられない、という物理的な理由による。現実は感覚と運動のフィードバック・ループにおいて構成されるのだから、身体や行為を無視して現実を構成することはできない。このように、ヘーゲル哲学を導入すると、社会構成主義も否定されることになると思う(あるいは、社会構成主義ヘーゲル哲学の遂行性テーゼと承認テーゼだけを受け容れていて、連続性テーゼを無視している、という言い方もできるかもしれない)。