ゲド戦記の名前の悩ましさ

ゲド戦記に出てくる登場人物は、みんな動物や植物や鉱物の名前を通り名としている。たとえば主人公はハイタカで、親友はカラスノエンドウ。魔法学校で会った憎いあんちくしょうはヒスイだ。彼らはみんなそれぞれ真の名前を別に持っている。たとえば主人公の通り名はハイタカだけど、真の名前はゲドだ。で、この真の名前を知られてしまうといろいろやっかいなことになる。つまり、敵に魔法でコテンパンにやっつけられてしまうのだ。

最近、英語の勉強で、ゲド戦記を原書でつっかえながら読んでる。風景描写のところはきついけど、会話のところとかは割とすらすら読める程度。で、原書で読んでて気づくのは、これ翻訳するの、かなり苦労したんだろうなあということ。とくに名前のところ。原書だとハイタカはSparrowhawkで、カラスノエンドウはVetch、ヒスイはJasperだ。「ハイタカ」や「ヒスイ」はまだ人名として通用しそうな気がするけれど、「カラスノエンドウ」は結構無理がある。友だち同士ならだんだんめんどくさくなって「カラやん」とか呼ぶようになりそう。かといって、これを「ベッチ(Vetch)」ってやっちゃうと世界観が伝わらなくなっちゃうし…。悩ましすぎる。ちなみに言うと、翻訳自体は本当に素晴らしいです。でも、名前のところはやっぱり最後まで気になる。

で、じゃあその世界観とやらはいったい何なのだい、ってことが問題になってくる。たぶん、その程度のことは文学研究者の人たちがとっくの昔に整理してくれてると思うのだけど、そんなの読んでも「ああああ、そうだったのか!! こんなことに気づかないなんて俺はなんて愚かなんだ!!!」と地団駄踏んだり歯がみしたりしてストレスがたまっちゃいそうなので、自分なりに考えてみよう。「自分にやさしく」だ。

ゲド戦記シリーズの最後の方、とくにテルーが出てくるあたりになってくると、「隠されている真の姿」とか「忘れていた真の世界」みたいな話が主題になってくる。それこそ、映画版のキャッチコピーになっていた「見えぬものこそ。」って奴だ。といっても、陰謀論みたいな話ではなくて、そういう見えないものたち、非合理な存在を肯定することこそがファンタジーの本質だと、たぶん作者は考えている。たとえば、作者はファンタジー論のなかでこんなことを書いている。

ファンタジーと未熟さをごっちゃにするのは、かなり大きな間違いだ。合理的だが、頭でっかちではなく、倫理的だが、あからさまではなく、寓意的というよりは象徴的――ファンタジーは原始的なのではなく、根源的なのだ。
『いまファンタジーにできること』p35

陰謀論は幼稚で未熟な思考の産物だけれど、ファンタジーはむしろ「根源的」なものだ。ゲド戦記の世界観にはこうした作者のファンタジー観が直接的に反映されている。登場人物たちが真の名前を明かさないのは、それが自分たちの「根源」だからだろう。根源が明るみに引き出されてしまったら、「見えぬもの」との通路が立たれてしまう。それは、ファンタジーを失うということであり、魔法を失うということであり、竜と話せなくなるということだ。

ゲド戦記はファンタジーだけど、動物も植物もしゃべったりしない。しゃべるのは、人間と竜だけだ。だから、「ハイタカ」や「カラスノエンドウ」といった通り名は、言葉を持たない者たちから取られたものだということになる。ということは、人々は表面的には言葉を失った存在のように振る舞う、ということでもあるだろう。つまり、「根源」なんてめんどくさいもののことは考えずに、食べたり飲んだり働いたり寝たりで生きているということだ。

だけど、真の名前がある以上、根源への通路はいつでも開かれている。ゲド戦記は、こうした「通路」が実は誰にでもあることを教えてくれるファンタジーだ。この作品ではハリー・ポッターとちがい、あまり魔法が使われない。それは、魔法を使いすぎると、フィクションが単なるフィクションとして閉じられてしまうからだろう。

「通り名と真の名前」という対比があるからこそ、「表面的な世界と根源的な世界」という対比が可能になる。そして、「真の名前」は少数の人にしか教えないわけだから、人々はどうしても寡黙になるし、内面的になる。ゲド戦記はどの巻を見ても、派手なアクションよりも、薄暗い内省が延々と繰り返される。そしてそのように内省すること自体が、この世界における冒険になっている。内省的冒険こそがこの物語の駆動力であって、それを保証するのが名前なのだ。というわけで、やっぱり「ベッチ」じゃなくて「カラスノエンドウ」じゃないとダメなんですよ1


  1. カラスノエンドウにはかわいい妹がいて、ゲドとちょっといい感じになりかけるのだけど、彼女の名前はなんと「ノコギリソウ」だ。原書だとYarrowで、発音すると「ヤロウ」となる。「野郎」っぽくも聞こえるけれど、「ノコギリソウ」よりはまだ女の子っぽい響きだと思う。ここは、世界観を優先するか、「女の子にノコギリソウはありえねえだろう…」という美意識に従うか、かなり悩ましいところだ。ちなみに、ノコギリソウはこの薄暗いゲド戦記シリーズにおいて、数少ない明るい癒やしキャラだ。登場シーンの描写はこんな感じ。《「これは、魔法使いさま。」少女は言って、つつましやかに頭を下げ、東海域の女たちの作法に従って、両手でその目を隠して敬意を表した。やがて、あらわれた目は美しく澄み、はにかみながらも、好奇心にきらきらと輝いていた。歳は十四歳くらいかと見え、その肌は兄に似て黒く、やせて、ほっそりとしていた。腕には片手におさまりそうな小さな、それでいながら翼も爪も持った竜がちょこんと乗っていた。」》腕に小さな竜をちょこんと載せているというところが、かわいいもの好きとしてはテンション上がりまくる。しかし、そんなあの子は「ノコギリソウ」なのだ。