毎日練習するとたいがいのことはできるようになる、が…

たとえば、わたしはアクションゲームが得意ではない。ジャンプするタイミングがなかなかつかめなかったり、自分がしたい動作とキーの対応関係がときどきこんがらかったりする。それでも毎日やっているとそれなりにうまくなる。『フェノトピア』という鬼みたいな難易度のゲームを涙目になりながらクリアして、今は同じように難しいと評判の『ホロウナイト』をやっているのだけど、あんまり難しいと感じない。へたくそでも、『フェノトピア』を苦労してクリアしたおかげでそれなりにレベルアップしたのだと思う。

「いや、そうはいっても、わたしはもう10年以上英語の勉強をしているのに、ちっとも英語が話せるようにならないのです」という反論はあるだろう。でも、そういう人は、もしかしたら「英語を話す練習」をせずに、「英語を読む練習」とか「単語を覚える勉強」をしているのではないだろうか? 「英語の勉強」と一口に言っても、いろんな側面がある。「話す練習」を毎日続けたら、1ヶ月くらいでそれなりに効果が実感できると思う。同じようなことだけど、「TOEICで900点台とれるのに英語の雑誌が読めません!」という人は、「TOEICで良い点数をとるための勉強」をしているのだ。だから英語の雑誌を読みたいのなら、毎日1記事ずつ、たどたどしくても良いから、実際に英語の雑誌を読む習慣をつけるのが先だと思う。

となると問題は、自分は何の能力を不足と感じていて、その能力を伸ばすのにどんな勉強や練習が必要かを正確に見定めることだということになる。そこがずれていると、いつまで経っても能力と理想のギャップは埋まらない。

ところで、なぜ能力を高めたいかといえば、その能力で何かしたいことがあるからだ。「英語の雑誌を読みたい」とか「フェノトピアをクリアしたい」とか。だったら、そのしたいことをさっさと始めてしまうのが手っ取り早いということになるだろう。それなら、自分が求めている能力と、練習や勉強のあいだにずれは生じないはずだ。フェノトピアをクリアしたいのなら、実際にフェノトピアをプレイすれば良い、ということだ。

しかし必ずしもこういうOJT方式でうまくいくとは限らない。たとえば「原書でドストエフスキーを読みたい」という人が、ロシア語文法も知らずにいきなり挑戦しても手も足も出ないだろう。

挫折したその人は、ドストエフスキーをいったん放置して、もっと丁寧に階段をつくろうと試みる。つまり、文法を勉強し、単語を勉強し、さらにもっと簡単な童話みたいなものの多読を始め、少しずつロシア語読解力を向上させていくのだ。だけど、その過程で、階段がへんな風に曲がりくねることもある。ドストエフスキーを読むことがねらいだったのに、気がついたらYouTubeでロシアのアイドル動画ばかり見ていたりする。気がついたら、ブログで「フョードル・田中エフスキー」とか名乗ってロシア雑学をひたすら解説してたりする。そして、「ドストエフスキーは老後の楽しみにとっておくつもりです」といつのまにかドストエフスキーが老後プランに組み込まれてしまっていたりする。本当はドストエフスキーにたどり着くための階段をつくっていたのに、気がついたら階段づくりそのものが楽しくなっちゃってるのだ。

大事なのは、とりあえず登れる階段をつくることだ。いびつでもいい。一部、コンクリートじゃなくてコロコロコミックが重ねられているだけだったりしても、とりあえずよしとする。で、登ってみて、まだ段が足りない、と思ったらまた段を付け足せばいい。足りないかどうかを判断するにはときどきOJTをやってみるといいだろう。つまり、ときどきドストエフスキーを実際に読んでみるのだ。で、つっかえながらでも読めそうだったら、階段づくりはそこで終了する。あとはひたすら、毎日ドストエフスキーを読めば良いだけだ。毎日勉強してるのに効果無いなあ、と思うのなら、まずはその階段でどこに行きたいのかと、階段が行きたい方向にちゃんと伸びているのかを点検するべきだ。で、あとはオンボロ階段を登ってテーブルマウンテンを踏破し、山頂の黄金郷でひたすら毎日OJT暮らしをするだけ。