評価の道場

  • アマゾンレビューで高評価を得ているからといって良いものとは限らない。たとえば「癌になっても病院に行くな」みたいな本が狂ってるということは多くの人に理解できることだと思う。だけど、そういう本のレビューを覗くと、何十人もの人が5つ星をつけていたりする。

  • それはおそらく、そもそもそういう本を読みたがるのは、藁にもすがりたい状況の人たちだからだ。そういう状況の人が、「大丈夫ですよ!」と自信たっぷりに語ってくれる本を読んだら、その本の著者を神様みたいにあがめたくなるのもわからなくはない。一方、もうちょっと余裕があって冷静な人はもっと堅実な本を読もうとするから、そういうへんな本を手に取ろうとも思わない。つまり読者の棲み分けが成されているわけだ。すると、へんな本は冷静な人たちの目の届かないところで高評価をキープすることになる。そして、藁にもすがりたい人はその星の数にますます励まされて、ますますその本を高く評価するようになる。

  • ここでの問題は、「評価の評価」をするための基準が何も無いことだ。まともでない本を「すばらしい!」と褒め称えているのはどう考えてもおかしいので、そういうおかしい評価のウェイトを下げるような仕組みがあればいいのだけど、具体的に考えてみると結構難しそうだ。アマゾンレビューにはレビューに投票する仕組みがあるけれど、そういう投票をする人の評価もまた信頼性に欠ける。「評価の評価の評価の評価……」という風に無限後退してもしょうがない。けっきょくのところ、「藁にもすがりたい状況」の人たちだけで評価をしている限り、評価の信憑性は担保できないのだ。

  • ダメなものはダメと評価された方が良い。そうでないと、場合によっては社会に実害が及ぶこともある。で、こういう構造はアマゾンレビューだけに限らない。たとえば昔の学校では「喉が渇いても水を飲むな!」という指導がされていた。水を飲んだら疲れるというよくわかんない理屈だ。今から見たら「アホやん」としか思えないけど、「無知な教師」と「無知な生徒」で構成された閉ざされた共同体の中では、「アホやん」という視点はどうしても出てこない。なにしろ、スマホも無い時代なのだ。水を飲む奴が教師に罵られている姿を見れば、他の生徒たちも「水を飲むのは悪いことだ」という固定観念を植え付けられる。そして教師は教師で、「水飲むな!」と指導しても誰も反論しないものだから、「俺は正しいことを言っている」という狂った自己評価を身につけてしまう。こんな風にして、水を飲むことに対するおかしな評価が温存されることになってしまう。

  • こうした状況の打開策として、まず簡単に思いつくのは、いろんな人の意見が流通しやすくするということだ。たとえば、もし当時の学校で、多くの生徒たちがスマホを持っていたらどうだろう? 時代設定が完全におかしいけど、「仮に」ということで考えてみる。すると、生徒たちの一部は「水を飲まないという指導はクソ」みたいな記事を見つけてくるかもしれない。しかしその一方で、「水を飲まないという指導は理にかなっている」という記事を見つけてくる可能性もある。つまり、いろんな人の意見が流通しやすくなったとしても、そうした意見のうち、どれがまともなのかというのを評価する基準が生徒の中に無い。

  • 人の意見を評価できるように、科学教育をしっかりやるべきだ、という考えもあるだろう。でも、人間の時間は有限だ。なんでもかんでも勉強してるわけにはいかない。実際、わたしは「疲れたときに水を飲まないのはおかしい」と思ってるけど、それはネットかなんかで見た情報を鵜呑みにしてるだけだ。疲れたとき水を飲んでもいいというのがどういう理屈によって成り立っているのか、多くの人は説明できないはずだ。

  • 自分が勉強しなくても専門家に教えてもらえばいい。だから、その分野で誰が専門家なのかを判断できれば良いのでは? 確かにそれも一理ある。しかし、専門家は専門家で一枚岩ではない。偏った意見を持った専門家もいる。どの専門家が頼りになるのかをTwitterのフォロワー数で判断したりすると、へんな人に引っかかってしまう危険性もある。査読論文の数で判断するというのもありだけど、それだけで常に客観的な評価ができるわけでもない。たとえば気候変動問題に経済学者がコメントしていたとしても、実はその人は環境経済学でもなんでもなくて、労働経済学者だったりマルクス経済学者だったりすることもありうる。つまり、ある程度その学問分野の見取り図がわかってないと、その問題に適しているのはどの専門家なのか、というのはなかなか評価できないのだ。

  • あるいは、評価をすべて政府に任せてしまうという手もあるかもしれない。様々な分野の専門家を招いて評価委員会みたいなものをつくる。でも、まあ無理だろう。評価すべきものは世のなかに数え切れないほどある。評価委員会のメンバーだけで何万人も必要になってくるだろう。じゃあ、いっそ「評価省」みたいなものをつくれば? 霞ヶ関のエリートたちが毎日徹夜で仕事すればまともな評価ができるでしょう。公共の福祉を守るために評価省を新たに立ち上げるのは国民の同意も得られるのではないでしょうか。良さそうな気もするけれど、たぶんいろいろ危ないと思う。つまり、評価というのは民主主義の重要な構成要素の一つなわけだ。選挙で政治家を選ぶのだって評価なのだ。評価を政府に委ねるということは、民主主義を放棄するということにつながりかねない。

  • いや、投票までは評価省まかせにしませんよ、そこは国民が自分で一票入れるべきです、と反論はできる。だけど、そんな風に都合良く使い分けられるものでもないだろう。普段は評価を評価省まかせにしている人が、政治家を選ぶときだけ自分で評価したとして、まともな評価ができるとは思えない。評価というのは一種のスキルだ。美味しいお米を評価するのだって、たくさん食べて評価した経験が無いとうまくいかない。不正確であっても、何度も何度も評価するからこそ、少しずつまともな評価ができるようになってくる。最初から評価を政府に任せてしまっては、まともな評価ができる「市民」が育たなくなる。

  • むしろ、評価の道場みたいなものが必要なんじゃないか。たとえば本を評価するのなら、その評価の妥当性について、他の人から質問やコメントが来る。最初は「この先生の本を読んで、わたしは救われました!」と叫ぶだけだった人も、他の人から「そもそもその治療法で良くなった人って何人いるんですか?」とか「わたしの知り合いで、その治療法を使ったけど亡くなった人がいる」とか突っ込みが入ると、だんだん勢いが無くなってくる。普通、評価をするときに人はその理由を明言しないものだ。とにかく「いい!」って言ってても誰にも文句言われない。だけど、こういう道場に通うと、「いい!」にも理由が必要なんだというのがだんだんわかってくる。やがて、道場に行かなくても、自分でそうした評価の理由を考えるようになるだろう。

  • 道場には次の2つの要件が必要になる。すなわち、「お互いに評価の理由を尋ね合うこと」と「なるべく多様な参加者がいること」だ。また、この道場は「正しい評価を決めること」を目的とはしていない。そうではなく、「正しい評価を目指す習慣をつくること」を目的としている。評価自体はひとりでやらないとならない。他の人と相談しながら投票するのでは民主主義にならないからだ。

  • そして、この道場に通ったところで、「正しい評価」にたどり着ける保証は無い。たぶん、それは死ぬまでたどり着けない境地だろう。たとえば、自分が配偶者の選択に成功したのか失敗したのかは、誰にもわからないことだ。それでも、目の前の現実を少しでも良いものにしたいのなら、誰だって正しい評価を目指すべきだ。評価がまともだからこそ、現実を「悪い」と判断することができるのだし、どうすれば「良い」ものになるのか考えることもできる。評価を他人任せにすることは、生きたまま死んでいるようなものだ。