【読書ノート】『ゲド戦記1 影との戦い』3章まで

はじめに

わたしは小説を読んでも読書ノートを取ったりしない。理由は簡単で、記憶力がないので、読み終わるとすぐに内容を忘れてしまうから。というか、読みながらすでに序盤の方とかは忘れている。やけに主人公に親しげに話しかけてくる奴がいても、そいつが誰なのかわからないまま、(まあ、たぶん前に出てきた奴なんだろう)とむりやり納得して読み進めることがすごく多い。

でも、だんだんそういう雑な読み方で良いのかなあ、と思うようになってきた。4月にブログを始めてから、手慰みでアニメの感想をいくつか書いてきたのだけど、やっぱり、書くことで初めて気づくことって多い。ということは、逆に言えば、何も書かないで漫然と見ているだけでは、かなり多くのものを見落としてしまうということだ。

前に、「盆栽化する小説」という変なタイトルの記事を書いて、今の小説ってなんかおじいちゃんの盆栽みたいで読む気しないよ、みたいなことをたらたら述べていた。今読み返しても主旨はよくわからんのだけど、ようするに、小説にときめきを感じなくなってしまった、ということを言いたかったのかなあ、と思う。でも、ときめきを感じないのは、お前が鈍いだけだ、ということもありそうな気がする。「今の小説は盆栽だ!」なんて偉そうなこという前に、自分の読み方をもうちょいと洗練させてやろう。

で、小説読書ノートシリーズの第一弾は『ゲド戦記 影との戦い』。去年初めて読んで、すごく面白かったのだけど、例によって内容をほとんど何も覚えてない。

 主な登場人物

  • ハイタカ:本当の名前はゲド。ゴント島出身。山羊飼いの少年だったけど、なんやかんやあって天才魔法少年になる。でも若さ故の傲慢さからへまやらかして、影にとりつかれる。
  • オジオンハイタカの師匠。超無口だけど超やさしい。
  • ネマール:ロークの学院長。大賢人。ハイタカがやらかしたことの尻拭いをして大変なことになる。
  • カラスノエンドウハイタカが魔法学院で知り合った人。すぐに親友になる。いい奴。
  • ヒスイハイタカが魔法学院で知り合った人。やな奴。
  • ノコギリソウカラスノエンドウの妹。名前はアレだけどかわいい&やさしい。

 地理情報

  • アースシーゲド戦記各巻にはアースシーの地図が載っかってます。現実世界の世界地図とはぜんぜん違うので、たぶん地球とは違うどこか別世界のお話なのでしょう。原書だとアースシーはearthsea、つまり、「大地と海」ってこと。作中ではアースシーの地名がガンガン出てくるので、頻出の地名には蛍光ペンでも塗っておくとよいかもしれない。
  • アーキペラゴ多島海:この物語の主な舞台になる地域には大陸がない。インドネシアみたいにちっちゃい島々が点在してる。こういう諸島を「アーキペラゴ」と総称してるみたい。
  • ゴント島ハイタカの故郷。ド田舎だけど優秀な魔法使いがボコボコ生まれるチート地帯。
  • ローク:魔法学院のあるところ。
  • 人種:地球では白人がマジョリティで黒人がマイノリティだけど、アースシーではこれが逆転する。ハイタカも黒人だったはず(黒人っていうか、色黒っていう程度だけど)。

 魔法に関するシステム

  • 名前:魔法で大事なのは名前。相手が人だろうが動物だろうが草木だろうが、そのものの真の名前を言い当てると、そいつを支配することができる。だから、この世界で人々は真の名前をなるべく他人に教えずに、「ハイタカ」とか「カラスノエンドウ」みたいな、動植物から取った名前で生活している。
  • 均衡:でも、魔法をガンガン使ってると世界の均衡が崩れていく。均衡が崩れるとどうなるかというと、たいへんなことになる。だからゲドたちは普段あんまり魔法は使わない。なので、ハリー・ポッターみたいな派手な魔法アクションを期待してゲド戦記を読み始めると肩透かしをくらう。
  • 魔法学院:ロークという地域にある学院。最強の魔法使いたちが若者たちに魔法を仕込んでいる。どこかの国に所属しているわけじゃない。トップの魔法使いは王様と同じくらい偉い。

各章のあらすじとコメント

1 霧の中の戦士(p9-)

ゴント島にハイタカという山羊飼いの少年がいた。山羊飼いだけど、魔法の才能がみなぎっていた。よその国の軍隊に村が襲われたとき、ハイタカが魔法で霧を出した。敵の兵隊たちは霧に包まれてにっちもさっちもいかなくなり総崩れになった。ハイタカの才能を知ったゴント島の偉大な魔法使いオジオンは、ハイタカを引き取って魔法使いとして育てることにした。

【コメント】
魔法で敵をやっつけるというのはこの物語では珍しい場面だ。ただ、「霧を出す魔法」というのが適度にショボくて、やっぱりゲド戦記らしいとも言える。遊星爆弾を敵の頭上に降らせるみたいな派手な魔法は出てこないのだ。

ハイタカはこの物語において最強の魔法使いという設定なのだけど、これからも基本的に彼の活躍は地味だ。その地味さを予感させる、地味な晴れ舞台だと言える。

2 影(p32-)

ゲドはオジオンの元で暮らすのだけど、オジオンは魔法を教えてくれない。エボシグサを示して、お前はエボシグサのことをわかっとらん、そのまるごとの存在を知ることが大事なのだ、とか意味不明なことを言ってくる。

薬草を探しに野原に行ったら、白人の女の子がいた。やれやれ、醜い白人め。でも、話しているうちについつい気持ちがほぐれていって、魔法のことをいろいろしゃべってしまった。調子のいい女だ。あなた、魔法でハヤブサを呼び寄せられるのなら、死んだ人の魂を呼び寄せることもできるんでしょう? ねえねえねえねえ、やってみてよ、とヤバいことを言ってくる。で、ついつい乗せられて、オジオンの持ってる魔法の本をぱらぱらめくって死霊を呼ぶ魔法を唱えてみたら、なんだかヤバいものを呼び寄せてしまった。

危ないところをオジオンに助けられた。どうやら、あの女の子は魔女の娘だったみたいだ。オジオンに叱られたけど、ハイタカとしては、魔法を教えてくれない師匠にむかついてもいる。じゃあ、ここに残るか、ロークの魔法学院に行くか、どっちかにしなさい、と言われて、ロークに行きます、と答えた。

【コメント】
色恋の話がぜんぜん出てこないこの物語において、魔女の娘とたわむれているのは数少ないニヤニヤシーン。単に誘惑されて利用されてるだけなんだけど、もう、魔女でもなんでもいいからつきあっちゃえよ、だからお前は暗いんだよ、とか言いたくなる。

ところで、読み返してみると、オジオンはオジオンでダメだよなあ、と思った。言ってることは正論なのだけど、血気盛んな若者相手にエボシグサがどうこう言ったって「はあ?」となるに決まっている。もうちょいとハイタカの気持ちを汲んだ指導をしていれば、これからハイタカがダークサイドに落ちていくのを止められたのではないか。

序盤では、ハイタカは本当に普通の子どもとして描かれている。かわいい女の子に声をかけられたら見栄を張りたくなるし、物事が思い通りに行かないとむかっ腹を立てる。確かに才能はあるけれど、どこにでもいる調子に乗った子どもだ。で、調子に乗った子どもは調子に乗っているうちに、だんだん普通の人になっていくものだと思う。ハイタカにもそういう、普通の人になる道は開けていた。この段階なら、まだ引き返すことができたのだろう。

3 学院(p60-)

ロークの魔法学院でハイタカは魔法の力をぐんぐん伸ばしていった。人間関係は難がある。カラスノエンドウという親友はできたけれど、ヒスイという嫌みな奴とずっと仲違いしている。いつかヒスイを俺の魔法であっと言わせてやるぜ。

コメント この章は物語の世界観を説明するみたいな内容で、ちょっとかったるい。ハイタカが魔法の授業を受ける中で、魔法の言葉というのは実は太古の竜の言葉でね、みたいな設定が読者に明かされる。

この章から、ハイタカはオタクという小動物と一緒に行動するようになる。オタクといっても、オタクではない。前に読んだときはフクロウみたいな生きものなのかなあ、と思ってたけど、読み返してみるとフクロウだなんて書いてない。「からだが小さいわりには横に広い顔と鋭く光る大きな目を持ち、全身はこげ茶かぶちの光沢のある毛でおおわれている。鋭い牙があって、獰猛だから、人間のペットになることはめったにない。」(p87)とある。『グレムリン』に出てくるギズモみたいなのかなあ? 日本語で画像検索してもいいのが出てこないけれど、「earthsea otak」で画像検索するといろいろ出てくる。ナウシカの連れてるテトみたいのをイメージする人が多いみたい。ギズモじゃないのか。

3章までの感想

一言でいうと、かったるい。2章でオジオンが出てきて、3章でロークの先生方が出てきて、みんなハイタカにお説教してくる。このお説教が身にしみる人は読み続けるし、うぜえと思った人は投げ捨てるのだと思う。

で、お説教の内容というのは、要約すれば、人間はこざかしい知恵を働かせるのではなく、ちゃんと身の回りの自然の声に耳を傾けなさい、みたいなことなんじゃないかな。こういうお説教が身にしみるときは自分にもある。だけど、そんなお説教ばかりでもしょうがないよなあ、とも思う。実際、そのお説教はハイタカにはぜんぜん届いてない。また、今の時代の読者たちにもかなり届きにくいだろう。実際、『ゲド戦記』がジブリで映画化した後に原作小説がベストセラーになったみたいな話は聞かないし。映画の出来・不出来以前に、この物語の説教臭さが敬遠されているのだと思う。

ただ、そのことは作者もわかってるみたいで、だからこそオジオンたちのお説教はハイタカに届かない。また、この後の方の巻だと、ロークの賢人たちの世間に対する無関心ぶりが割と批判的に描かれるようになる。お説教はたぶん作者の本音でもあるのだけど、その一方で、お説教だけでもダメだというのを作者はきちんと自覚している。そこの二面性みたいなのをきちんと読み取ると、この小説をもっと面白く読めるかもしれない。