【雑文】大学を自由にするには大学の外に出ないとダメそう

ヘーゲルは、自由というのは束縛からの自由ということではなくて、自分たちで自分たちのあり方を決められることだという風に考えているらしい。どういうことかというと、たとえばクソみたいな会社をやめて俺は今日から霞を食って生きてやるぜ! みたいなのは自由ではない。そうではなく、仲間たちと力を合わせてパワハラ上司を失職させ、労働規則を変え、自分たちが働きやすい環境をつくることが自由だ、ということだろう。

これは、しんどい考えだけれど、説得力はある。だいたい、霞を食っては生きていけない。うまいこと宝くじが当たって一生働かないで生きていける身分になればいいのだけど、そもそも宝くじが当たるかどうかは運任せで、自分の自由にはできない。運に縛られているという意味で、むしろ不自由だといえる。めちゃくちゃに運が良ければ自由になれるという自由よりも、地道に人々と協力して現状を少しでも良くしようと努力する方が確実だし、責任ある大人の自由という感じはする。

ただ問題は、そうやってがんばろうとしても、周りも動いてくれないと現状は変わらないということだ。ひとりだけ動いて、周りがみんな動かなかったら、パワハラ上司ににらまれるかもしれない。それが怖いから、誰も動こうとしない。いわゆる社会的ジレンマという奴だ。で、それでも頑張れば多少状況は改善するかもしれないけれど、あくまで「多少」だ。環境改善の仕事ばかりしているわけにはいかないし、へたに手を出しすぎると自分のプライベートの時間まで削ることになりかねない。そう考えると、がんばって状況をよくするよりも、さっさとホワイト企業に転職した方が良いということになる。

でも、業界全体がブラック化してしまっていて、転職しても無意味だったら? たぶんそれが、今の大学なんだと思う。研究者自身もストイックでくそ真面目な性格の人が多いから、なかには自ら仕事をかき集めてひとりブラック企業をやっている人もいる。そして、基本的に研究者は個人主義者が多い。研究分野が近ければ協力できても、遠かったら基本無視だろう。だから、大学においてヘーゲル的な自由は実現しようがない。社会的ジレンマが業界全体に蔓延してしまった状況だといえると思う。

じゃあ、どうすればいいんだい? と言われると、どうしようもないなあ、という気しかしない。予算が減らされつづけているというのが諸悪の根源なのだろうけれど、その政策が今後変わるとは思えない。

たぶん、大学という枠を越えて、社会全体で変えていかないとならないんじゃないだろうか。

たとえば学校教育でマクロ経済学を必修科目にして、政治家たちの示す経済政策の良し悪しを評価する力を国民に身につけさせる。そうして、経済政策が変わることで経済が上向きになればリソースが増えるので、大学に回せる金が増える可能性はある。

また、民間企業で博士取得者の使い道をあれこれ模索して、うまくイノベーションにつなげていく。これにより、大学の学問がただのお勉強ではなく、利益につながるものなのだという証拠を社会に示していく。

あるいは学者たちがアウトリーチにもっと精を出して、大学の学問に価値を認めるような有権者を増やしていくのも有効だろう。若い人たちが本を読まないのならユーチューバーたちと手を組んでもいい。学問を一種の「娯楽」に変えていくわけだ。

結局、政策を決めるのは、「予算」と「有権者からの支持」のふたつだと思う。予算を増やすにはまともな経済政策を実行すればいい。有権者からの支持をとりつけるには、彼らに学問の価値を理解してもらえばいい。で、これらは大学のなかで労働争議みたいなことやってもどうしようもない。そういう意味で、社会全体の取り組みにしていかなければならないということだ。つまり、大学でヘーゲル的自由を実現するには、社会全体でヘーゲル的自由を実現しなければならない。今は大学が完全に均衡状態にはまってしまっていて、自力では抜け出せない状態だ。パワーバランスを変えるには、大学の外に舞台を移さないとならない。