【アニメ感想】「輪るピングドラム」13話まで

また、気づいたところをつらつらと書いていこう。

「95」の事件を扱う必然性は?

この作品は一見、ほとんどリアリティを無視しているように見える。たとえば陽毬の病気がなんなのかというのは全く語られないし、通行人はみんなピクトグラムだし、あの女優のお姉さんは学芸会みたいな芝居に出てる大根役者なのにスター扱いされている。もちろん、ペンギンとかプリンセスなんとかたちもファンタジーなのだけど、それらは作品の中でも異様なものとして位置づけられている。でもペンギンとかプリンセスなんとかだけじゃなくて、そもそもこの作品のほぼすべての要素が現実的でない。

その中で、「95」の事件だけが例外的に現実と直にリンクしている。サリン事件だと明言はしない。しかし、カルト集団が東京の地下鉄で95年に引き起こした事件なのだから、現実のサリン事件とまったく関係ないとは言い訳できないだろう。

どうしてここだけ現実とリンクさせる必要があるのか? ものすごくデリケートな題材だ。扱い方次第では大炎上することも考えられるし、関係者を傷つけてしまうリスクもある。それでもこの事件を物語に取り入れるというのは、どんな必然性があるのか。

これが単なる「主人公達のトラウマ」という位置づけでしかないのだったら、現実とリンクさせる必要はない。たとえば「ぼくたちの両親はコロニー落としの主犯で大勢の人が巻き添えになって死んだんだ」みたいなフィクションでも良かったはずだ。もちろん、世界観をSFにしなきゃならないけれど、どうせ物語自体がかなり現実離れしているのだから、いまさらスペースコロニーが出てきたってどうということはないだろう。

もちろん、取らなくてもいいリスクを取って現実の事件とリンクさせているのではなくて、必然性があるからこういう選択をしているのだろう。でも、それはどういう必然性なのだろう?

「かえるくん、東京を救う」はなぜ

どういう必然性なのかまだよくわからんので、ちょっと迂回してみる。

陽毬は図書館で「かえるくん、東京を救う」という本を探す。これは村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められている一編だ。ずっと前に読んだ作品なのでよく覚えてないけど、確かこれは阪神淡路大震災をきっかけに書かれた短編集だったと思う。

この小説のなかで、「かえるくん」という、カエルだけど割とゴツくて日本語を流ちょうに話す生きものが、たしか「ミミズくん」というよくわからない生きものと死闘を繰り広げる。「ミミズくん」は大地震を引き起こすから、「かえるくん」がそれを阻止するために闘うのだ。そして死闘の末に「かえるくん」は勝利し、大地震は未然に防がれ、東京は救われる。だけど「かえるくん」も瀕死の重傷を負ってしまうのだった…というようなお話だったと思う(まちがってたらごめんなさい)。

で、この小説もピングドラムと同様に、運命を扱った作品だと解釈することができる気がする。「かえるくん」は「ミミズくん」と闘い、勝つことで、東京を救う。でも、東京に住む人々はみんなそんなことは知らない。ある意味、「かえるくん」は自分の命を賭けて東京の運命を変えたわけだ。だけど、運命が変わったことを人々は知らない。

こういう、「運命は知らないところで誰かが変えている」という世界観は、『ピングドラム』でも共有されていると思う。プリンセスなんとか、サネトシ先生、そして桃果は、たぶん「かえるくん」や「ミミズくん」と同じような世界の住人達だ。たぶん、プリンセスなんとかと桃果は「かえるくん」側で、サネトシ先生は「ミミズくん」側じゃないだろうか。

で、ここで最初に述べた、なんで「95」の事件だけ妙にリアルなんだ? という問題に戻る。たぶん、ここを「コロニー落とし」みたいなただのフィクションにしてしまうと、「運命は知らないところで誰かが変えている」という世界観がリアリティを持たなくなってしまうのだと思う。

この現実世界で、少なくとも今の日本では、大地震も無ければテロ事件も無い。戦争にも巻き込まれていない。だけど、それはもしかしたらどこかで「かえるくん」が「ミミズくん」と闘ってくれているからなのかもしれない。人間には、そのことを確かめようがない。確かめようがないのだけど、「もしかしたら…」とふと思うことはある。それはたとえば「かえるくん、東京を救う」を読んだり、そして『ピングドラム』を観たりしたときだ。そういうフィクションに触れたときに、この世界の運命をどこかで支えている目に見えないものたちの存在にリアリティを感じることがある。そして、そういうリアリティを確保するためにも、作品のなかで現実の事件とのリンクを示さなければならない。「かえるくん、東京を救う」の場合は阪神淡路大震災と、そして『ピングドラム』の場合は地下鉄サリン事件と。そうして、現実とのリンクを確保しておくことによって、この現実をどこかで支えている「かえるくん」に思いを馳せることができるのだ。

何を早くすり潰すのですか?

さて、話がずれるのかずれてないのかわからないけど、もうひとつ気になっていることを考えてみたい。それは、なぜ「すりつぶし」お姉さんは運命日記を奪ったのか、ということだ。

日記というのは私的なものだ。だから、本人にとっては意味があるし、親しい周囲の人にとっても「桃果はこんなこと考えていたんだなあ」と知ることができるという点で意味がある。だけど、桃果にとって完全な他人である「すりつぶし」お姉さんにとっては全く意味がないはずだ。それなのに、「すりつぶし」おねえさんはあの日記を奪い、マリオさんとやらを助けようとする。そしてマリオさんは、陽毬と同じペンギン帽をかぶっている。陽毬にとってあのペンギン帽は、晶馬たちと水族館に行った思い出だ。だから陽毬にとっては意味がある。だけど、マリオさんにとってはとくに思い出があるわけではないし、意味ないはずだ。

個人にとって意味あるものに他人がぐいぐい食い込んできて乗っ取ってしまおうとする。これはどういうことだろう? 

構図的に考えれば、「すりつぶし」お姉さんとマリオさんは、サネトシ先生側のグループに入ると思う。つまり、陽毬に「罰」を与えようとするグループだ。ちょっとまだ整理がつかないのだけど、おそらく、「すりつぶし」お姉さんが日記に執着するのは、運命の主導権を奪おうとしているんじゃないだろうか。冠葉と晶馬はプリンセスなんとか(=かえるくん)の助けを借りて運命を変えようと奮闘するのだけど、そういう運命の主導権を奪おうとするのがサネトシ先生(=ミミズくん)の助けを借りている「すりつぶし」お姉さんだ。「いやだわ、早くすり潰さなくちゃ」というあのお姉さんの口癖は、運命を変えようとする輩を潰して、きちんと「罰」を遂行させなくちゃ、という風な意味なのかもしれない。運命を変える力の象徴がリンゴなわけだから、リンゴはちゃんとすり潰さないとね、ということなのかな。

……という風にムリヤリ屁理屈をつけて、最後まで観続けよう。