第5章 不偏性と客観性
イントロ(p179-)
- 一部の人の自由だけ考えて、その他の人の自由を考えないような議論はクソだ。
不偏性、理解、客観性(p183-)
- いろんな立場の人の自由を考えるというのは大切だ。で、そうなると客観性というのが問題になってくる。
- でも、そこでいう「客観性」というのは、他の人たちときちんとコミュニケーションができているとか、いろんな立場の人たちの意見をちゃんと考慮しているということだ。「真実とは何だ!」みたいな厳密な話をする必要はありません。
混乱、言語、コミュニケーション(p186-)
(ヴィトゲンシュタインがどうしたこうしたみたいなダルい話がつづく。省略)
公共的推論と客観性(p189-)
- 倫理的客観性に必要なのは、その主張がどういう推論に基づいているのか、そしてその推論が受け入れ可能なものなのかどうか、ということだ。
- たとえばある人が、「すべての人は私こと田中一郎をあがめ奉り、毎日5兆ドルを寄付するべきだ。なぜなら、私は神だからだ」とほざいているとする。「私は神だからだ」というのはどう考えてもホラだし、仮に神だとしても5兆ドルを納めるなんて不可能だ。だから、この推論は受け入れ不可能であり、彼の倫理的主張には客観性がないということになる。
異なる領域における不偏性(p191-)
- 私がさんざん言ってきてるのは、不偏性が大事だということだ。「普遍性」ではないし「不変性」でもない。「不偏性」、つまり、偏りがないということだ。おっちょこちょいは読み間違えるかもしれないけれど、チューいせよ。
- で、この「不偏性」には2タイプある。そいつを次の章で議論するよ。予習しといてね。
コメント
- あのねえ、「ヴィトゲンシュタインは~」とか言ったって、そんなのほとんどの人に通じないでしょう? たぶん著者からしたら、「あ、この議論、ヴィトゲンシュタインの言ってたことともつながるな」と発見してワクワクしちゃったんだろうけれど、その思いつきを読まされる読者からしたら大迷惑だ。原書の編集者はしっかりしてほしいと思う。相手がノーベル賞受賞者の大先生だからビビったのかもしれないけれど、相手がどんな大物だろうとダメな原稿にはちゃんと赤を入れるのが編集者の仕事でしょう? この本、こういう無駄な話をカットしていけばたぶん150ページくらいに収まると思うよ。
- 前にもニーティとかニヤーヤとか、古代インドの法律の話が出てきたけど、それも議論を進める上でたいして意味の無い話題だった。センさんが物知りなのはわかったけど、脱線はやめてください。みんな迷惑しています。あなたがスナック気分でほいほい脱線しているうちに、なんということか、この本は日本語版で664ページという大著になってしまったのです。「ヤメレ 食っちまうど!」と周りの人たちが言ってやるべきだった。