【読書ノート】『ルールに従う』第4章

4章から言語哲学やら認知哲学やらの話が入ってきて闇鍋の体を成してきた。だんだん頭がこんがらがってくるけどがんばろう。これまでの議論を雑に整理するとこんな感じになるかと思います。

  • 意思決定理論やゲーム理論で前提とされている「合理性」は「信念」と「欲求」を主要なパーツとしている。これらはホッブズの議論に由来するものだ。
  • しかし「信念」と「欲求」だけだとそもそも人々がなぜ協力するのかがうまく説明できない。その一方で、心理学実験をやってみると、人々が自身の利益を度外視してでも協力する現象がよくみられる。
  • このような理論と現実のギャップを埋めるには、「信念」「欲求」に加えて「原理」というパーツを意思決定理論に組み込めばよい。つまり、人々は自分にとって有利な結果だけをひたすら求めているのではなく、ある規範の下で良いとされている行動をすること自体を好むものなのだ。

で、本章では、この「規範」について言語哲学を駆使しながら議論していく。その過程で、実は「信念」とか「欲求」もまた、なんらかの規範において形成されたものだということが明らかにされていく。つまり、意思決定理論のパーツである「信念」「欲求」そして「原理」は、いずれも社会において生み出された規範的な構成物だということだ。

「欲求」もまた社会において生み出されたものだ、というのはわかりにくいかもしれない。砂漠で水を飲みたい人は社会とかなんとか関係無しに、とにかく本能的に水を飲みたいのではないか? この点に関しては5章の方で詳しく議論するみたい。

第4章 志向的状態

4.1 言語論的転回

信念、欲求、原理は、いずれも志向的状態だ。つまり、「~に関するもの」であり、明確な対象を持つ。だから、信念・欲求・原理は、ただの神経の興奮状態ではなくて、推論のプロセスに用いることができるものなのだ。

では、そういう志向的状態はどうやってもたらされたものなのだろう? 「言語論的転回」というアイデアによると、志向的状態は言語によってもたらされた。最初に何らかの心の状態があって、それが次に言葉に翻訳されるのだと考える人はけっこう多いかもしれない。だけどそれは逆だ。むしろ、先に言葉があって、そこから信念・欲求・原理といった心の状態が生まれるのだ。

4.2 言語と意識の優先順位

信念を取り上げてみよう。言葉が無い状態で何らかの信念が画像のように心に映し出されている、というのはありそうにないことだ。たとえば「明日雨が降るかもしれない」という信念を画像で表現するのは不可能だろう(「かもしれない」をどうやって画像にすればいい?)。

信念は言語的構造を持つ。そして、言語は社会的インタラクションを通して学習されるものだ。ということは、信念とは何かを説明しようとするのなら、まずは社会的インタラクションに関して説明するべきなのだ。脳の中を探したって信念なんて出てきません。

4.3 私的言語論

言語というのは規範的なものだ。つまり、社会がないと言語は成り立たない。

これは、「私的言語」は存在しない、ということでもある。無人島に流れ着いた人は、自分で勝手に自分専用の言語をこしらえようとしてもうまくいかない。というのは、自分ひとりしかいない世界だと、「私は言語を正しく使っている」ことと「私は言語を正しく使っていると思う」ことが区別できなくなってしまうからだ。

4.4 規範性の諸源泉

これまでの議論をまとめると、「社会」→「言語」→「信念・欲求・原理といった志向的状態」という規定関係になる。この規定関係のいちばん根っこにある「社会」についてもうちょいと検討してみよう。

社会は規範性を持つものだ。つまり、「そういう言葉使いはへんだよ」とか「信号が赤のときは停止するべきだ」とか、そういう規範によって社会は成り立っている。じゃあ、その「規範」とやらはどこから出てくるものなんだろう?

ブランダムは「実践に内包された規範」という言い方をする。つまり、規範というのはルールブックみたいなものに書き込まれているのではなくて、人々の実践を通して生み出されるものなのだ、ということだ。

規範を成り立たせるには「規範的評価」が必要になる。たとえばさっき挙げた、「そういう言葉使いはへんだよ」とか「信号が赤のときは停止するべきだ」というのは、「へんだ」「停止するべきだ」という「規範的評価」をしているわけだ。

これは一種のサンクションだといえるだろう。「へんだ」「停止するべきだ」と言うことで、そういう規範から逸脱している人にサンクションを与えているのだ。

でも、じゃあそのサンクションが適切なものかどうかはどうやって判断すればいいんだろう? よくマナー講師みたいな人がわけわからんマナーを持ち出してSNSとかで炎上してるけれど、それはマナー講師の「マナー違反です!」というサンクションが不適切なものだったという証拠だろう。

マナー講師によるサンクションの適切性をチェックするのが炎上に参加する人たちだという考え方もある。つまり、彼らがマナー講師にさらにサンクションを与えているわけだ。

でも、じゃあ炎上に参加している人たちのサンクションの適切性は誰が判断すればいいんだろう? これでは「サンクションのサンクションのサンクション…」と無限後退してしまう。

ブランダムはこの無限後退問題を解くのを諦めてしまったみたいだけど、私(ヒース)に言わせればこれは解決可能な問題だ。つまり、無限後退しなくても、サンクションをループさせてやればいいのだ。炎上に参加している人たちのサンクションはマナー講師がすればいい。それも一種の無限後退なんじゃ無いのか? と突っ込まれるかもしれない。でも、もしこれで人々のサンクションと、お互いの行動に対する期待がうまい具合に単一パターンに収束しているなら、それは一種の均衡状態だと見なせるだろう。これは明らかに無害な状態だ。

こんな風にして、「ループするサンクション」という「実践」を通して規範性が生まれるわけだ。

4.5 記号論の凋落

前節の議論は、規範性がどう生まれるかという説明にはなっているけれど、言語の話とどうつながるのかというのはまだ示していない。そこで、もうちょい言語の話にリンクさせてみよう。

このリンクをつくるには、言語の基本的単位が「語」ではなく「文」であることを示すことが必要だ。われわれは「文」をつかって、何かを「主張」したり「命令」したり「質問」したりする。そして、こうした行為は明らかに社会的実践によってルールが与えられるものだ(「こういうシチュエーションではこういう主張をするのが許される」みたいなルール)。だから、言語の基本的単位が「文」なのだと示せれば、「社会→言語」というリンクをもう少し明確にすることができる。

もし逆に「語」が言語の基本的単位だとしたら、語と語を組み合わせて文をつくるというボトムアップアプローチを取ることになる。しかし、それだとどうやって個別と普遍を関連づければ良いのかがわからなくなってくる。「このテーブルは茶色い」という文を考えよう。「このテーブル」という「個別」に対応するのは目の前のテーブルだろう。しかし、「茶色い」という「普遍」に対応するものは? イデア界における「茶色い」というイデア? でもイデアなんてよくわからないものを持ち出すことに対しては拒否反応を示す人が多いだろう。

カントは、普遍は「判断」という行為によって与えられるものだとした。つまり、「個別を表す語」と「普遍を表す語」を組み合わせることで文が生まれるのではなく、「普遍」という関数に「個別」をインプットしたものが「判断」という文なのだということだ。「( )は茶色い」という関数があって、そこに「このテーブル」という個別をインプットしたものが、「このテーブルは茶色い」という文であり、判断だ。こうした判断以前に「茶色い」というイデアイデア界にふわふわ浮いているわけではない。だから、言語の基本的単位は「文」なのだ。

4.6 理由を与えたり求めたりするゲーム

ここまでで明らかにしたのは次のことだ。

  • 社会的実践 → 規範性 (4.4節)
  • 規範性 → 言語  (4.5節)

でも、この「社会的実践」の中身はまだ詳しく論じていないし、それが言語と行動とどう関係するかも十分に示していない。これを明らかにできれば、「社会的実践 → 規範性 → 言語」というリンクをきちんと示せたことになるだろう。

ブランダムは、言語の意味のベースにある社会的実践を「主張という言語ゲーム」として捉える。たとえば、私の隣人が「煙」と言うならば、私は「火」と言う権利が与えられる。そして私の「火」という発言は、他の誰かに対して逃げる権利を付与することになるかもしれない。つまり、「煙」「火」といった主張は単独で行われるものではなく、こうした人々のインタラクション(主張という言語ゲーム)において成されるものだ。そして言語の「意味」は、こうした「主張という言語ゲーム」においてその言語表現が果たす役割の把握から成り立っているのだ。

そして、こうした主張は、人々が推論を行うときに用いられる素材となるものだ。「煙」という主張を隣人がするから、私は「火(火事にちがいない)」という推論をするのだ。そして、私の「火」という主張を聞いて逃げ出す他の人もまた、言葉は発していないにしても、一種の推論を行っているのだ。

4.7 志向的状態

言語は言語使用者の認知能力を増幅させる「究極のアップデート」だ(言語アップグレード)。

信念と欲求(あるいは選好)は、この「言語アップグレード」の一部分として理解されるべきだ。脳の中に信念や欲求があるわけではない。

われわれは訊ねられれば「私は7,000,002は7,000,001より大きいという信念を持っている」と答えるだろう。でもそれは、脳の中にそういう信念があるということではない。というか、訊ねられる前にそうした信念はそもそも存在しなかったろう。この信念は、われわれが持つ他の信念から推論されて生み出された信念なのだ。

ここまでの議論を改めてまとめるとこうなる。「社会」のところはやや詳細に書き直している。

「社会的実践(=主張という言語ゲーム)」 → 「規範性」 →「言語」→「信念・欲求・原理といった志向的状態」

ゲーム理論家たちはこれを逆向きに理解して、「信念・欲求・原理といった志向的状態」→「規範性」という規定関係を明らかにしようとしてきた。でもそうした理解は誤りなのだ。

4.8 結論

(略)

感想

いつもの通りざっくりまとめています。もともとの議論がめちゃくちゃに複雑なので、人にわかるようにまとめられた自信はまったくない。ヒース自身も結論部で「ここでの論証の提示はきわめて複雑なものであった」と述べている。たぶん、言語哲学の知識が無い人だとかなり苦労すると思う。以下の本を事前に読んでおくといいと思います。

ところで、この本では、ヒースが4.3節で提案している「ループするサンクション」みたいなアイデアでは解決にならないということが書いてあったと思う(「サンクション」ではなく「承認」という表現を使っていたけれど)。で、ブランダム自身はヘーゲルについて論じた近著の中で、「想起」という概念を導入することでこの無限後退問題に片を付けているとのこと。読みたいけど分厚すぎて手が出ない。

ヒースの議論はブランダムの推論主義をベースにして成り立っていて、そしてブランダムはヘーゲル哲学を読み替えることで自身の哲学を展開している。だけど、ヒースはヘーゲルにぜんぜん言及してなくて、むしろカントの方を評価している。ここらへんは知識が無いのでうまく判断できないけれど、ちょっと気になる点ではある。ヒースの「選好の認知主義」というアイデアはヘルマン=ピラートのヘーゲル経済学(ヘーゲル哲学をベースにした一種の制度経済学)で主張されている「選好は制度である」というアイデアとかなり似てるし。ヒースがヘーゲル哲学に注目してもぜんぜんおかしくないのに、なぜスルーなのかなあ…。

ここらへんは割と重要な問題のような気がする。ヒースの議論の魅力は論理の鋭さなのだけど、いくつか著書を読んでいると、ちょっと鋭すぎるんじゃないかと感じてしまうことがよくある。論理的には正しいのだけど、そんなに簡単に結論を出してしまっていいのかなあ、とか。たとえばヒースがビジネス倫理学の領域で提案している「市場の失敗アプローチ」は、パレート原理を道徳的義務の根拠に応用しようとするものだけど、そもそも何をもって「パレート改善」と見なすかは簡単に判断つかないものだと思う。センのリベラルパラドックスは「パレート原理を盲目的に適用するべきではない」と戒めるものだ。また、ヘーゲル経済学の枠組みを使うなら、パレート改善は「制度」という歴史的構築物の中でしか判断できないのではないか。ちょっと、ヘルマン=ピラートの本から関連しそうなところを引用しておこう。

カント的倫理学は、ヘーゲルの主張によれば、形式的である――すなわち具体的な歴史的内容を欠いている。(…)彼は、カント的な義務の抽象的要求を外的な規範と見なした。それは道徳的行為と非道徳的行為を区別することをめざすが、しかしまさにその空虚さのために、それが課した課題に到達していないのである。

ヘルマン=ピラート&ボルディレフ(2017)『現代経済学のヘーゲル的転回』p196

やっぱりヘーゲルとかカントとかブランダムとか勉強しないとならんのかなあ…。めんどくさい。