【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』5章~ラスト

第五章 風土学の二つの時代

 やがて私(ベルク)は地理学から存在論の方に興味が移っていった。和辻が言うように、風土とは「人間存在の構造契機」なのであり、風土について論じていくのなら、存在論について論じていくことになるのだ。

 ユクスキュルという昔の生物学者は「環世界」という概念を提唱した。つまり、「客観的なひとつの現実」があるというのは絵空事であって、それぞれの生物種が生きている世界はそれぞれ異なる、という考え方だ。たとえば牛には赤は存在しない。波長が700ナノメートルの電磁波は、人間には赤に見えるが、牛にはそもそも色として知覚されないのだ(闘牛の牛は赤色に反応しているわけではなく、闘牛士の身振りに反応している)。

 人間も、ヒトという生物種に固有の世界に住んでいる。そしてそれだけでなく、人間の場合はそこに各文化に固有の特殊化が加わる。たとえば風景に対する捉え方は文化によってぜんぜん異なる。それどころか、西洋の場合、ある時期までは風景そのものが存在しなかった(周りの環境を風景として見る文化が存在しなかったのだ)。

 われわれは「客観的なひとつの現実」を見ているわけではなく、われわれの風土に固有の見方で事物を見ているのだ。そして逆にわれわれ自身もまた、事物との相互作用の中で、風土とともに形成されていく。それこそが通態なのだ。

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 なんか第3章のあたりから同じ事を手を替え品を替え言い直しているだけのようにしか思えないんだけど…。

第六章 通態的な連鎖

 日本には「見立て」という伝統がある。たとえば、琵琶湖沿いの「近江八景」を、華中の湖南にある洞庭湖近くの「瀟湘八景」として見る、というような奴だ。

 これは、「琵琶湖は洞庭湖である」ということだ。主語である琵琶湖をSとして、述語である洞庭湖をPとするなら「PとしてのS」という風に言える。

 つまり、現実(r)とは、「PとしてのS」なのだ。r = S/Pということだ。なぜ大文字のRではなく小文字のrを使うのか? それは、現実はたったひとつのものではないからだ。

 通態化の過程は歴史的なものだ。だから、rにさらに新しい述語が付け加わる。((S/P)P’)P’’…という風に通態は連鎖していくのである。

 こうして述語を強調する論法を用いると、「西田哲学みたいですね」なんて思われるかもしれない。でもそういうことじゃない。西田はPが究極のものだと考える。しかし、私はSもPも同等だと考える。一緒にしてくれては困るのだ。仏教みたいに「全ては縁起であり空(くう)である」なんてことを考えているわけではない。

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 また同じ事をあれこれ言い換えてるだけだよなあ、という風にしか思えない。

 「空(くう)ではない」というところが自身の風土論の立場なんだ、ということを強調しているけれど、その強調になんの意味があるのかは正直よくわからん。訳者解説でも同様に「双方を隔てる根本的な違い」と指摘されているものの、ちがったらなんだってのさ、ということについては筆者も訳者も説明してくれない。私としては、哲学の世界の些末な重箱の隅つつきにしか思えないのだけど。ちなみに、次章では述語を絶対化する西田の論理が大東亜戦争への支持につながったみたいな議論が出てくる。でも、それはあまりに粗雑な批判だと思う。だって、述語を強調するのが戦争礼賛につながってしまうのなら、縁起と空(くう)を説く仏教だって同罪ということになるでしょう。そしていずれにしても、哲学者が社会にそれほど大きなインパクトを与えられると本気で信じているのなら、あまりにナイーブだと思う。

第七章 風土学は何のために?

 r = S/Pという式には、SをPとしてみる解釈者(I)が前提とされている。だから、((S/P)P’)P’’…という風に連鎖を続けていけばいくほど、I自身もI→I’→I’’…という風に進化していく。こうしてIの主体性は、連鎖を重ねるごとに、現実へとよりいっそう浸みこんでいくのだ。つまり、「風土はよりいっそう人間的となり、犬の環世界はますます犬的に、猫の環世界はますます猫的になる」(p94)ということだ。

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 最後の「犬の環世界はますます犬的に、猫の環世界はますます猫的になる」という言い方が好き。でも、章の内容自体は相変わらずの堂々巡り。

全体感想

 しかしこうしてみると、本当に第4章以降は蛇足だな。100ページくらいしかない薄い本でこれだけ繰り返しだらけというのは、ちょっとまずいのではないだろうか。

 ベルクが何か重要なことを言ってる気がすると思うからこそ、これまで二十年近く読み続けてきたのだけど、こうして整理してしまうと、議論のあまりの貧しさに驚く。「まとめ方、端折りすぎじゃない?」と思われるかもしれないけれど、実際、議論が堂々巡りになっているところがほとんどなのだ。

 ベルクは地理学から存在論に移行した、と五章に書いてあるけれど、それが失敗だったのではないだろうか。むしろ、存在論に目配せしつつも、地理学に留まり続けるべきだったのではないだろうか。前に、ハイデガーメルロ=ポンティ現象学をベースにして心を持つロボットをつくる、という趣旨の本を読んだことがあるけれど、哲学じゃないアプローチを使うからこそ、哲学者には決してたどり着けないような新しい領域を切り開くことができるのだと思う。 

odmy.hatenablog.com

 「風土」という考え方の使い道はそれなりにいろいろあると思うのだよね。たとえば、最近、人々の「習慣」が環境保全行動を強く規定している、という趣旨の論文を読んだ。

Pro-environmental habits: An underexplored research agenda in sustainability science - PMC

 「習慣」は、たんに人々の行動を規定するだけでなく、人々の価値観にまで影響を及ぼす。公共の場での喫煙を禁止すれば、それが習慣になって家でも喫煙をしなくなったり、喫煙は良くないという価値観が形成されたりするということだ。となると、とくに都市環境なんかでは、ナッジみたいにして人々がある特定の行動を取りやすい環境作りをすることで、人々の行動も価値観も変えることが出来るかもしれない。いわば、個人に焦点を当てるのではなく、人々と環境との関係性に焦点を当てることで、環境保全をめぐる文化そのものを変えていくということだ。

 ここらへんで風土論の発想が使えないかと思っている。風土論を使えば、そこに住む人々が風土との間にどんな関係性を築いているかを分析することができるだろう。すると、その関係性において、どんな行動が習慣化されやすいかというのも見えてくるかもしれないし、逆にどうすれば別の行動が習慣化されやすくなるかも明らかに出来るかもしれない。たんに風土を記述するのではなく、人々が環境配慮行動を習慣にしやすいように風土をデザインし直すというような話だ。まだかなりぼんやりしてるのだけど、こういう方向性に風土論を活用していける可能性はある気がしている。

 で、ベルクみたいに哲学に深入りするのはやめた方がいいと思う。老後の楽しみとしてはいいかもしれないけれど、正直なところ、不毛としか思えない。ベルクの本はもう読まないでいいな。