【読書ノート】『倫理的市場の経済社会学』1章

1章 自生的秩序としての倫理的市場

前回に引き続き、ちまちまとまとめていこう。

倫理的市場というのは何なのか、というのは前章でも出てきたけれど、今回も冒頭に改めて説明されている。

倫理的市場は、自由な経済活動の抑制を通じてではなく、むしろ自由選択を通じて自然環境や社会環境に配慮された経済が維持・形成されるという経済モデルである。 p26

前回は気づかなかったけど、こういう定義の仕方にも問題があるような気がする。そもそも「自由選択」というは、勝手に生まれてくるものではない。たとえば、詐欺や汚職が横行しているような市場では、自由な取引は生まれないだろう。そういうときは、詐欺や汚職を取り締まるための法律が必要になる。そして、そういう法律は市場で自生的に生まれるものではなく、政府が外部から市場参加者に義務づけるものだ。

だから、自由選択を保障するためにも市場外部からの介入は必要なのだ。だけど、そういうところに目をつぶると、あたかも人々は最初から自由に選択しているように見えるし、そしてそういう自由選択を通して自然環境や社会環境に配慮された経済が維持・形成されているように見える。でも、それはそういう風に見ているからそう見えるだけであって、別の見方をすれば、市場外部からの介入が大きな影響力を持っていることに気づくだろう1

倫理的市場のパラドクス

倫理的市場のパラドクスとは「経済を非倫理的にしてきたはずの自由な経済活動が倫理的な経済を維持・形成する」というパラドクスである。 p30

別にこれがパラドクスだとは思わないけど。前回も指摘したけど、環境経済学における内部化というのは、まさに自由な経済活動で倫理的な経済を維持・形成するという発想だ。前回引用した環境評価の入門書から引用してみよう。

市場を軸とした経済システムの中に、環境問題解決の仕組みを組み込めば、私たちの自由を大きく抑制することなく、環境保全が可能になる分野が少なからずある。たとえば、同じ規模の環境の利用に対しては、それにともなう同じ費用を出してもらうようにすればよい。切実な人は、たくさんの費用を出しても環境を利用するようになる。そのために、他のムダな支出を減らすことも、自分自身の判断、決定でできるようになるのである。
(…)このように経済システムは、個人の自由を生かしたまま、環境問題の解決を助ける可能性を持っている。  鷲田豊明『環境評価入門』

これをパラドクスだとみるかどうかは、その人の見方の問題に過ぎないのではないだろうか。

たとえばレジ袋が有料になって、環境問題に関心の無い人も、レジ袋に払うお金がもったいないのでマイバッグを使うようになったとする。それを、「環境問題に関心の無い人が環境配慮行動をするのはパラドクスだ」と指摘することもできる。でも、別の見方をすれば「彼はレジ袋にお金を使いたくないからマイバッグを使っているのだ」とも解釈できて、パラドクスにはならない。そして、いずれにしても「レジ袋使用を抑制する」という倫理的行為は実現できている。重要なのは倫理的行為が実現されているかどうかであって、その行為の意図をどう解釈するかは、ただの見方の問題ではないだろうか。

ハイエクの自生的秩序論

さて、ここで「自生的秩序」というのが何なのかが説明される。

ハイエクのいう自生的秩序とは、諸個人の意図や目的に外在するような自然の原理に導かれて発生するような秩序を指し示しているのではなく、全体に貢献するという何らかの共通の意図をもたない諸要素の各々のうごめきが相互に連関し合う過程の結果として形成される秩序のことを指し示している。 p34-35

書き写していて、環境経済学の内部化の話とは微妙に違うのかな、というのに気づいた。

内部化というのは、政府が市場に課すものだ。たとえば炭素税は市場で勝手に生まれるものではなく、政府が各々の事業体なり消費者なりに課すものだということになる。だけどここでは、人々がワチャワチャうごめいているうちに勝手に秩序が生まれてくる、ということをイメージしているようだ。

いや、政府だって人々のうごめきの一部だ、って言うこともできそうな気がするけれど、どうも、そういうのはうごめきに入れないで考えているみたいだ。

で、それではそういうワチャワチャの中からどうやって秩序が生まれるのかというと、「シンボル」がワチャワチャを調整してくれるからなのだそうだ。ここでシンボルとは、「人々が暗黙的に依拠している行為の「抽象的ルール」を体現するもの」(p35)であり、貨幣にもシンボリックな機能があるとされている。

(…)「シンボルによる行為調整」というひとつの理解可能性が与えられる。むろん、ここでいう「調整」とは行為に先駆けて存在する自然のメカニズムによって均衡状態へ収斂するという意味ではなく、諸行為間のパースペクティブの反射を通じて、個々の行為者自身がいかにして自らの環境に適応することができるかを学習し、それをもとに人びとが行為する過程において観察可能な一定のパターンが形成されるという意味である。異なる目的、異なる動機づけのもとにある諸個人の行為がシンボルを媒介として一定の秩序を生み出していくというあり方において、自生的秩序を理解することができるだろう。 (p36)

確かに、貨幣をシンボルと考えるなら、貨幣を通して秩序が生み出されるというのはわかる。貨幣があるからお互いに興味関心が全く異なる人同士でも商品交換ができるわけだし、市場全体としては需要と供給が一致して、財の配分が的確に行われることになる。

そのこと自体は理解できるのだけど、ただ、貨幣を有効なシンボルとして維持するためには、やっぱり政府や中央銀行の役割が重要になってくると思う。金融政策を何もやらないでほったらかしにしてたらどんどんインフレが進行してお札がすべて紙切れになってしまうことだってある。

あるいは、シンボルの維持形成自体は自生的に行われないということだろうか? でも、だったら議論としてとくに目新しいところはないということになるんじゃないだろうか。貨幣のおかげで市場で需給均衡という形で秩序が生まれる、というのはミクロ経済学の教科書に載ってることとあまり変わらないと思う。

だんだん、自分がどこがわからないのかがわかってきた気がする。つまり、「自生的に秩序が形成される」というとき、それがどこからどこまでの話をしているのかが曖昧なのだ。シンボルそのものは自生的に形成されるのか? 政府による取り組みも含めて「自生的」と見なしてはいけないのか? 秩序が自生的に形成される側面があるというのは理解できるけど、その具体的な中身がぼんやりしてるので、けっきょく何が言いたいのか読み取りにくくなってしまっている。

感想

わたしは、あくまで「自生的秩序論は役に立つか」という視点から本書を読んでいる気がする。秩序を解釈することよりも、どうしたら秩序を実現できるのか、という方向に関心がある。しかし、少なくともここまで読んだ限りだと、本書は秩序の解釈の方にウェイトを置いているように思える。そもそもの関心の方向性が違うから、読んでいてうまく乗れないのかなあ…。けっこう高い本だったのに(5,500円+税)。

あと、本章の注にこんなことが書いてあって、ここらへんもわたしと著者とで関心の方向性のずれているところなのかもしれない。

「倫理的」であるとはいかなることか、という問いかけそれ自体は非常に重要な問題であるが、本書ではそれをあくまで社会的事実として、すなわち「倫理的な事柄として人びとに考えられているもの」として考察する。 p61

ある社会で多くの人々が倫理的だと思っていても、別の社会からみると非倫理的に見えることはたくさんある。たとえば、女性を差別することがむしろ倫理的である社会もある(女性には自由な服装を選ばせるべきではない、政治的な発言権を与えるべきでない、等)。だからこそ、多様な人々の視点に立って、その社会で当たり前だと思われていることの正当性を吟味するべきだ、というのがアマルティア・センの提唱する公共的討議という発想だ。しかし、「倫理的」であることを、「倫理的な事柄として人びとに考えられているもの」としてしまったら、非倫理的なものまで倫理的な事柄に含まれてしまうし、それを疑う視点も失われてしまう。

そもそも、フェアトレードを含め、倫理的消費というのは、多くの人によって見過ごされている非倫理的な事柄にスポットライトを当てたり、そうした状況を少しでも緩和したりするための試みなのではないだろうか。むしろ、「倫理的な事柄として人びとに考えられているもの」に対する問題提起という側面もあるのではないだろうか。そうした試みに対して、自生的秩序論は何か有効なアドバイスをすることができるのだろうか。現状肯定はできても、現状批判はできないのではないだろうか。単に、「自生的秩序論で解釈することもできる」というのだと、「そういう見方もできるよねー」で終わってしまうと思う。

終章の次の記述を読むと、「現状批判」という意識も多少はあるように思えるけど、ちょっとピンと来なかった。「これはひとつの説明視角に過ぎないといわれるかもしれないが、この説明視角には公共的な社会のあり方を考える上で決定的に重要な位相が含まれているはずである」と書いているけれど、どうして「重要」なのかがよくわからなかった。

「必ずしも常に倫理的であるとは限らない人間たちが、自然環境や社会環境を破壊しない仕方で共生していくためには、「倫理的」意図には還元されない制度がどうしても必要なのではないだろうか」というのも、いや、そういうのは環境経済学がずっと提唱してきたことだし…。社会学の立場から一体どういう新しいことが言えたのか、よくわからない。

でも、今のところ理論編しか読んでないから、それ以外の部分も読めばもうちょいとわかるのかもしれない。もうちょい読み進めてみようと思う。

本書は、1990年代以降の倫理的市場の展開を、この「あたかも・・・であるかのように」という次元で展開される倫理的配慮の拡大として示すものであった。もちろん、これはひとつの説明視角に過ぎないといわれるかもしれないが、この説明視角には公共的な社会のあり方を考える上で決定的に重要な位相が含まれているはずである。もちろん、こうした経済のあり方を表現する際に「倫理的」という言葉を用いてよいのか、という倫理学的批判は真摯に受け止めなければならない。この経済では「倫理的」という言葉は既にシンボル的な機能をなすのみであり、経営活動においては手段的な「データ」に過ぎないともいえる。「倫理的」という言葉をその水準に貶めている時点で非倫理的であるといわれても仕方ないであろう。
本書はその批判から倫理的市場を擁護する気は毛頭ない。ただ、必ずしも常に倫理的であるとは限らない人間たちが、自然環境や社会環境を破壊しない仕方で共生していくためには、「倫理的」意図には還元されない制度がどうしても必要なのではないだろうか。むろん、この制度が「偽善」といわれることは否定しない。しかし、これまで「偽善」とよばれ拒絶されてきたものこそが社会を支えているという側面を直視することから出発して、その可能性と限界を明らかにすることも、社会学の仕事として重要なのではないだろうか。 p291

追記(2022/09/03)

その後、読んでないところも読み進めてだんだんわかってきたのだけど、本書ではフェアトレードの認証システムによって、企業が自らの利害関心を追求してフェアトレード商品を扱うようになることを「内部化」と考えているみたい。

認証制度の経営学的な意義を理解することで、認証取得が、企業自らの利害関心の追求のために積極的に自らの利害関心を制御する行動だという社会学的視点が与えられる。認証を媒介として、自然環境や社会環境の保護が、経済取引の利害関心それ自体のなかに織り込まれているわけである。環境経済学では、こうした織り込みの位相は「外部性の内部化」とよばれてきた。これは、市場の外部性が市場取引の対象となることで、コスト負担自体が合理的になるということを意味する。 p152

でも、こういうのは内部化とは普通言わないのではないだろうか? 内部化の手段は普通は課税や補助金であって、その担い手は政府だ。「コスト負担自体が合理的になる」ということではなく、コスト負担が「義務」になるのが内部化だ。認証制度を通して「内部化」するというのだと、そのコストを支払うのが各企業や消費者の任意になってしまう。だから、たとえば一部の消費者は高いフェアトレードコーヒーを買い続けるけれど、他の消費者は安い普通のコーヒーを買い続ける。それは、安いコーヒーを買う消費者たちが一種のフリーライダーとして振る舞っているということになる。ということは、そもそも内部化できていないということになる(だって、フリーライダーたちに社会的費用をきちんと支払わせようというのが内部化のそもそもの目的なのだから)。

レジ袋有料化というのは一種の内部化だと思う。レジ袋をもらうときにお金を払うかどうかは任意ではなく、義務だ。お金を払わなかったら窃盗になる。それは、フェアトレードでないコーヒーを買うというのとは全然違う話だ。

本書を読んでいて感じる違和感の原因には、「内部化」という概念に対する理解が違うというのもあるのかもしれない。


  1. ESG投資も、自生的秩序としての倫理的市場の一種になると思うけれど、The Economistの特集では、現在のESGはほとんどまともに機能してないということが指摘されている。原因はいろいろあって、環境破壊的な操業は下請けにやらせておいて表面的には環境配慮的に振る舞っている企業があるとか、そもそもESGを評価する基準がばらばらで統一されてないから評価内容が投資家にとってぜんぜん役立ってないとかが指摘されている。さらに、こうやってESG投資という形で社会貢献を企業に押しつけるのは民主主義的におかしなことであって、たとえば炭素税を人々に課すのは政治の仕事だ、という根本的な批判もある。ガラクタになってしまったESGを立て直すためには、評価の仕方をもっと合理的なものにするべきだし、規制強化が必要だとも指摘されている。誰がそれをやるかということは明示されてないけれど、少なくとも、ESGに関する改革が自生的に行われるものだとは考えられていないみたいだ。