【雑文】エシカルだからといってエシカルとは限らない

エシカル消費」とか「エシカルファッション」とかの言葉が最近増えてるけど、これは変な言葉だと思う。

エシカル」というのは「倫理的」ということだ。「倫理的」なことがあるのなら、「非倫理的」なこともあるはずだ。それでは、「非倫理的消費」ってなんだろう? 地鶏ではなくブロイラーの鶏肉を買ってきて親子丼をつくって食べたら「非倫理的」と責められなければならないのだろうか? そんなはずはない。また、ユニクロのTシャツを着てたら「アンエシカルファッション」だなんて石を投げられないとならないのだろうか? そんなわけない。

「非倫理的」というのは非難の言葉としてとても強い。たとえば、人からものを盗むのは非倫理的だ。人を殺すこと、会社のお金を横領すること、詐欺を働くこと、電車の中で人のお尻を触ること、相手に実害を与えるような嘘をつくこと、子どもに体罰を加えること、猫をいじめること。「非倫理的」とはこういう、人でなしな行為のことだ。「倫理」というのは和辻哲郎によれば人と人の間の道理ということであるわけだから、「非倫理的」とは、人の道から外れたド畜生ということになる。ブロイラーの鶏肉を買ってきて親子丼作って食べたり、ユニクロのTシャツを着たりしているだけでド畜生呼ばわりされる筋合いはない。

逆に言うと、そういうド畜生的行為を特定する基準もないのに「エシカル」なんて言葉を軽々しく使うべきではない。「非倫理的」というのは、場合によっては「犯罪者」よりもキツい非難になる。たとえばアウシュヴィッツユダヤ人を虐殺していたナチスの人々、そしてそうした行いを見て見ぬふりしていた一部のドイツ人たちは、少なくとも当時のドイツ国内では犯罪者ではないけれど、明らかに非倫理的だ。「エシカル」という言葉を使うのなら、その反対の、エシカルでない「ド畜生」の存在をきちんと意識するべきだ。

もしかしたら、「親切をして良い気分になる」という程度のことが「エシカル」と見なされているのかもしれない。環境経済学でいうところの「倫理的満足」という奴だ。で、エシカル商品の価格帯が高めに設定されているのは、その「倫理的満足」分のプレミアムとして対価を支払っているからだということになる。ただ、その場合の問題は、エシカル消費が本当に何らかの倫理的問題の解決に役立つかどうか、よくわからなくなってしまうことだ。

「親切をして良い気分になる」からといって、それが本当に他者にとって「良いこと」であるかどうかという保証はない。私が大学生のころ、授業の一環で途上国支援のNPOの代表が招かれて講演会をしたことがある。その人は、途上国の貧困者を救うためにバナナを市場価格より高く買う活動をしていた。一種のフェアトレードということだと思う。しかし、一部の生産者のバナナを高く買うようにしたことで、他の生産者のバナナが売れなくなってしまい、廃業する生産者まで出てきたという。もちろん、すべての生産者のバナナをそのNPOが買うわけにも行かないので、この活動は結局頓挫してしまった。つまり、その人としては完全な善意で地元のバナナ生産者を助けようとしたのだけど、結果的に、その地域の市場経済に混乱を引き起こし、多くの生産者に対して害悪をまき散らしてしまったわけだ1

確かヒースだったか誰だったかが書いてた気がするけれど、経済というのは複雑なものであって、直観に従って良いことをしようとすると、かえって裏目に出てしまうことがある。たとえば経済学には、政府が最低賃金を引き上げるとかえって雇用が減ってしまうので良くない、という説がある(異論もあるみたいだけど)。というのは、最低賃金水準が高くなると、一部の経営者は雇用自体を差し控えてしまうからだ。このように、貧しい人にお金が行くように「よかれと思って」やったことが、結果的に意味がなかったり、逆に彼らからお金を得る機会を奪ってしまうことになることもある。

エシカル消費についても同じような問題が指摘できると思う。貧しい人や環境のためにプレミアム分のお金を払って「親切をして良い気分になる」としても、それが本当に貧しい人や環境のためになっているかどうかという保証はない。

十数年前の古い記事だけど、The Economistの特集で、フェアトレードやら倫理的消費やら地産地消がコテンパンに否定されていたことがある(その翻訳の一部は下記サイト参照)。

cruel.org

cruel.org

たとえば、フェアトレードをすると、本当はコーヒー農家を廃業していたはずの人までコーヒーを作り続けてしまうので、結果的にコーヒー豆が供給過剰になって、市場価格が下がり、フェアトレード以外の農民たちが貧乏になってしまう(これはさっきのバナナの事例に近い)。また、最低価格保証があるために、生産者たちは品質向上の努力をしなくなり、結果的に品質が下がってしまう。また、消費者が支払ったお金が全部生産者にたどり着くわけではないので、彼らの収入を高める手段としては非効率だ。

フェアトレード以外についても、「良いこと」が裏目に出がちであることが指摘されている。たとえば有機農業は集約的でなく、森林伐採してたくさんの農地を確保することが必要になるため、有機農業の拡大は環境破壊を深刻化させることになる。また、地産地消よりも、トラックに食品をぎっちり詰め込んでスーパーに輸送した方がエネルギー効率はずっと良い。そして、地産地消運動は明らかにフェアトレードと矛盾するという問題もある(地元にコーヒー農家がいる場合は別だけど)。

こういう様々な問題を指摘されてから十数年たって、現状がどういう風に変化しているのかはまだ勉強中でよくわかっていない。フェアトレード商品の品質の悪さについては、改善しようという発想が1980年代中頃から出てきたと次の本に書かれている。ただ、市場をゆがめてしまうという問題はどうなのだろう? 

有機農業については、国内農業をすべて有機に変えようとして大失敗したというスリランカの事例がある。やっぱり、有機農業は生産性が低いので、農地拡大をしないのなら、生産量が落ち込むことになる。この記事の中にもあるけれど、一部の農家が有機に移行するのは問題なくても、国ごと有機に移行しようとすると大混乱が起きる。

gigazine.net

地産地消については最近ほとんど話を聞かなくなってるけど、どうなんだろう? 少なくとも、フェアトレードと矛盾する、という問題は解決されてないのではないだろうか(矛盾しない、と主張するネット記事も見つけたけど、言っている意味がよくわからなかった)。

ところで、フェアトレードが市場をゆがめるという問題だけど、必ずしも市場をゆがめるとも言い切れないんじゃないか、とも思っている。もし消費者がフェアトレード商品に対し「倫理的満足」分の対価を払っているのだとしたら、それは、フェアトレード商品が市場で正当に評価されているのだとも言えると思う。つまり、「味が良い」「香りが良い」「見た目が良い」…といった様々な商品特性のひとつとして「良いことをしてる気分になれる」というのもあって、それらが総合的に評価されることで、フェアトレード商品に高値がつくのだ、ということになる。

でもそれは、倫理的満足を求める富裕層向けの商品を作り出した、というだけのことなんじゃないだろうか。前にエシカルファッションに関する調査研究の論文を読んだことがあるけれど、若い世代はエシカルファッションにほとんど興味が無いという結果が出ていた(ヨーロッパの学生が対象)。なんでかというと、若い世代はお金がない一方で、おしゃれをしたい。だから、安くてそこそこ見栄えの良いファストファッションにはお金を出すけれど、高価なエシカルファッションにはお金を出さないということだった。

お金持ちがエシカル商品有機農産物を高く買ってくれるので、途上国ではそういう「お金持ち向け」商品をせっせと作ることになる。でも、そもそもお金持ちというのは人口構成でみたら明らかに少数派だ。お金持ちが普通の人の100倍くらい食べるのなら良いかもしれないけれど、そういうわけでもないし。お金持ち向け市場にうまく転換できた生産者はそれで良いかもしれないけれど、その他大多数の生産者はこれまで通り、エシカルでもなく、有機でもない商品をせっせとつくり続けることになるのではないか。

ヒースは、倫理的消費の問題はその任意性にあると主張する。

倫理的消費の問題はその任意性にある。左派の誰も、個人の慈善的寄付だけで国の福祉事業の代わりになると唱えたりはしないだろう。だとしたら、個人の利他的な環境運動が、国や市場による外部性の規制の代わりになると考える人などいるだろうか。 p442

結局、今回の記事に書いたことはヒースのこの主張の妥当性を自分なりに検討してみただけなような気もする。繰り返すけれど、「エシカル」というのは、それをやらなければド畜生と言われるようなものについてだけそう呼ぶべきだ。やるかどうかがその人の任意なのだとしたら、それはエシカルではない。それは単なる言葉の問題ではなくて、実際にエシカルではないのだ。


  1. この話をいまだに覚えているのは、そのNPO代表があっけらかんと、「このときは失敗したけど、またチャレンジします」と言い放っていたのが印象的だったから。きちんと反省した上でもっとうまいやり方でやろうということなのかもしれないけれど、その人のあっけらかんとした話しぶりを聞いていると、どうやらまったく同じことを別の地域でやらかそうとしているのではないかという気がしてならなかった。