【研究ノート】内部化をするのは誰なのか?

わたしは環境経済学の「内部化」という発想があんまり好きではない。好きとか嫌いとかの問題じゃない、という人がいると思うし、自分でもそう思うけれど、好きじゃないのは本当だ。その一方で、自分の研究をチマチマ進めていくうちに、やっぱり内部化は大事だよなあ、という考えに変わりつつある。このあたりの矛盾を解消しておきたいので、考えを整理してみる。

まず、内部化というのは、外部経済や外部不経済を市場の内部で扱えるようにする、ということだ。となると、今度は「外部経済とか外部不経済ってなんだい」という質問が出てくるだろう。内部化が好きとか嫌いとかいう前に、めんどくさいけど説明が必要になる。

たとえば昔は石炭を燃やしまくって二酸化炭素を出しまくってても誰も怒らなかったわけなんだけど、今はめちゃくちゃ怒られる。今みたいな、SDGsやらESGやらが持ち上げられてる時代では、二酸化炭素垂れ流しの企業は投資家からも消費者からも見放されてしまうだろう。また、冷房をガンガン効かせまくって氷点下3度くらいにして鍋焼きキムチうどん喰ってます、なんてツイートをしたりしたら、たちまち炎上するのは目に見えている。

なんで怒られるかというと、二酸化炭素は気候変動を引き起こす温室効果ガスの一種であると考えられているからだ。気候変動は大きなリスクだ。「いや、気温が上がったら凍死する人が減るから悪いことばかりじゃないですよ」という意見もあるだろうけれど、気候変動にはそういうメリットばかりでなく、デメリットだってある(熱中症で死ぬ人が増えるとか)。それに、そもそも気候変動というのはメカニズムがめちゃくちゃ複雑だし、参考になるような過去の事例はないし、不確実性が大きすぎる。気候変動のメリットは大きいと信じてほったらかしにしておいたら、えげつないデメリットが雨あられと降ってくる可能性もある。だから、リスクを回避するためには二酸化炭素排出はなるべく抑えた方がいい。そういうわけで、二酸化炭素をむやみやたらに排出すると怒られるのだ。

ところで、怒られたからといって二酸化炭素の排出を押さえるとは限らない。なんでかというと、それは外部不経済だからだ。つまり、二酸化炭素排出は市場の外部でのできごとであって、対価を支払う必要はないのだ。他人に迷惑をかけているという点で「不経済」ではある。だけど、二酸化炭素を排出することは、コンビニでアイスを買うこととは違う。コンビニでお金を払わずにアイスを持っていったら泥棒だけど、お金を払わずに二酸化炭素を排出しても泥棒にはならない。だから、「怒られても俺は真夏にクーラーがんがん効かせて鍋焼きキムチうどんを喰らう!」という人は鍋焼きキムチうどんを喰らうだろう。SNSで怒られたって、殺されるわけじゃないんだし、「SNSの世界に生息し炎上活動に精を出す身体無き人々よ。スマホを捨てよ、街に出よ」とか言って開き直ってればいい。もちろん、電気代は払わないといけないし、鍋焼きキムチうどん代も払わなければならない。しかし、二酸化炭素を排出することへの対価は支払わなくていい(電気代にその対価が反映されているケースも考えられるけど、ここではそういうのは考えないことにする)。対価を払わなくていいから、市場の外部で(つまり財布の心配をしないで)二酸化炭素排出行為がガンガン行われてしまうのだ。これが、「外部不経済」ということだ(逆に、他人に利益をもたらすときは、「外部経済」ということになる。飼い犬が散歩中に愉快な踊りをして道行く人の目を楽しませてるけど誰も投げ銭をしないとか)。

で、こういう外部不経済(や外部経済)に対価を設定することで、市場で扱えるようにするのが、「内部化」だ。たとえば二酸化炭素だったら「炭素税」を設定する。そうすると、それまで二酸化炭素をガンガン排出していた人も、二酸化炭素を排出すればするほど高額な税金を払わないとならないのでだんだん馬鹿馬鹿しくなってくる。それで、凍えるほどクーラーをガンガン効かせた部屋で鍋焼きキムチうどんを喰らうという悪行をやめ、クーラーの温度を25度くらいに設定してソーメンをチュルチュルすする、そんなつつましい生き方にシフトするようになるのだ。

内部化なんてやらなくても、二酸化炭素排出罪みたいのを作って鍋焼き野郎をどんどん逮捕してけばいいんじゃないの? と思うかも知れない。だけど、それだと警察官や裁判官が何人いても足りないだろう。法律や刑罰で取り締まろうとするとコストがかかりすぎる。それに、別に二酸化炭素排出をゼロにしろということじゃなくて、大事なのは、他人に与える「迷惑」という意味でのコストをその人にきちんと支払わせるということなのだ。迷惑料を払うのなら、その分、二酸化炭素を排出して好き放題やっていい。その方が、コストをあまりかけずに二酸化炭素排出を抑制して、なおかつ人々の自由や幸福を高めることにつながるだろう。

ふうん、じゃあ内部化って素晴らしいじゃない。どんどんやれば良いじゃない。そう思う人が多いと思う。

だけど、ときどき環境経済学の教科書や論文を読んで違和感をおぼえることがある。

具体的に内部化をどうやるのか? そのためには外部経済や外部不経済の評価が必要だ。そこで行われるのが「環境評価」という奴なのだけど、その環境評価手法のひとつにCVMというのがあって、昔から物議を醸してきた。たとえば、私が好きなアマルティア・センなんかは、かなり手厳しくCVMを批判している。

CVMがどういうのかというと、めんどくさいので、識者の記述をそのまま引用する。以下にある「仮想評価法」というのはCVMのことです。

環境の経済的評価における仮想評価は、簡単に要約すると次のようになる。まず、ある環境(状態の変化)に関する支払意志額(WTP)あるいは受取意志額(WTA)を、関係者あるいはその標本として一部の人びとから直接聞き出し、その額を統計的に処理することによって1人あたりの金額を計算する。そして、その金額を関係者全体で集計することによって、その環境の価値とするというものである。 鷲田豊明『環境評価入門』p107-108

具体的には、たとえば「この地域で、こういう開発プロジェクトを進めたら、この地域の環境はこういう風に悪化します。環境に対する負荷のもっと小さいプロジェクトに変更することもできますが、それにはお金がかかります。そのお金を補填するための基金があるとします。あなたはこの基金に対していくら支払うつもりがありますか」みたいな聞き方をする。それで、「500円」とか「100円」とか「払いたくない」とかいろいろ回答が返ってくる。そういう回答を集計して計算して、その地域の環境の貨幣価値を評価するのだ。

で、なんでこれに私が違和感をおぼえるかというと、そもそも、何を内部化して何を内部化しないか、というのを、なんで環境経済学者が勝手に決めてるのか、というのが謎だからだ。CVMというのは「仮想評価法(Contingent Valuation Method)」というだけあって、仮想状況を設定して環境を評価するというアプローチを取る。上記の例でいえば、そもそも「基金」なんてものは現実には存在しなくて、ただのフィクションなのだ。フィクションとして「もしこういう基金があったら、あなたはいくら支払いますか?」という聞き方をしている。だけど、なんでこういうフィクションを受け入れなくてはならないのか、根拠がさっぱりわからない。

この基金が実際にその地域の住民や関係者がお互いに議論し合った上で作ったものなら納得いくのだけど、環境経済学者が勝手にフィクションの基金を設定して支払意志額を聞くというのは、誘導質問のように思えなくもない。

フィクションだから、どんな基金を設定するのも自由だ。「生物多様性を守るための基金」であってもいいし、「文化的価値を守るための基金」であってもいい。で、聞かれた側はまず戸惑うだろう。だって、そんな基金は存在しないのだから。そして、存在していたとしても、そういう風に「いくら支払いますか」と誰かに聞かれることはありえない。普通は、「へえ、そんなのあるんだね」というくらいで素通りしてしまうだろう。だけど、なぜか「いくら支払いますか」と聞かれるシチュエーションに置かれてしまったら、けち臭いことをするのも罪悪感をおぼえるので、「100円」とか「500円」とか答えてしまうものだと思う。だけど、そうして回答した金額が、どういう意味を持っているのかよくわからない。だって、実際にその金額を支払うわけではないのだから。いくら高い金額を表明しても、財布はちっとも傷まないのだ。これでは、回答者たちは環境経済学者が勝手に作ったフィクション世界で遊びに付き合ってあげているだけだということにしかならない。そしてその一方で、「CVMで評価したところ、この環境の貨幣価値は3,000万円という結果が出ました」という風に、数字だけが一人歩きしてしまう。

何を内部化するべきか、というのは環境経済学者が勝手に決めるものではなくて、もっといろんな立場の人々が議論して決めるべきものだ。そもそもある環境の価値を内部化するべきかどうかというところでコンセンサスが得られてないのに、フィクションの基金をでっちあげて環境の価値を評価したとしても、それは多くの人にとって納得のいかないものになるだろう。

ボウルズの『モラル・エコノミー』では、アイルランドのレジ袋税の話が紹介されている。これも一種の内部化の話だ。課税額は1枚20円くらいであり、日本に比べるとかなり高額であるにも関わらず、国内での混乱は見られなかったという。これは、アイルランド政府が国民に対してかなり丁寧に説明したり、公聴会を各地でやったりして、課税をすることに対するコンセンサスを事前に得ていたからだ。

環境経済学の議論に違和感があるのは、「そもそも内部化するべきかどうか」ということのコンセンサスに関する議論をすっ飛ばして、いきなり「どのように貨幣価値を評価するか?」という技術的な議論に飛んでしまうからだ。なんでもかんでも内部化するべきではない。たとえばセンは、環境問題というのは市民の立場から捉えるべき問題であって、CVMのように環境を一種の商品として位置づけ、人々をその商品を買う消費者とみなす問題設定はおかしい、と批判している。

さっきからさんざん「コンセンサス」という言葉を使っているけれど、コンセンサスの主体は消費者ではなく市民だ。消費者として、ある環境を多くの人が高く評価しているからといって、それでコンセンサスが得られたとはいえない。もしかしたら、その環境には古い神社があって、生物多様性や景観の良し悪しでは捉えられないような宗教的価値を持っているかもしれない。あるいは、地域外の人々にはどうってことないつまらない環境でも、地域住民にとっては昔から慣れ親しんだ思い出深い環境かもしれない。そうした人々にとっては、そもそもその環境を貨幣価値で評価するという発想自体が納得いかないものである可能性がある。しかし、「支払意志額を表明せよ」という風に一方的に問題設定されてしまったら、無価値だとは言えないから、なんとなく支払意志額を表明することになってしまう。人々の「消費者」としての立場からの評価を訊く前に、まずは「市民」としての立場で、人々がその環境についていろいろ話し合うことの方が先だと思う。

で、そういう風にして市民として議論した上で、「内部化しよう」ということになったのなら、そこで初めて「じゃあ、どうやって貨幣価値を評価しようか」ということを考えれば良いのだ。前に読んだヘルマン=ピラートの本では、「選好は制度だ」ということが主張されている。

odmy.hatenablog.com

つまり、人々が消費者として好き勝手に自分の選好を持ち、その選好を満たすために行動したり判断したりするのではない。そうではなく、そういう個人の選好自体が制度であって、他者との関係の中で相互承認されることで進化していくものだ。選好のあり方に疑問が出てきたら、それを市民同士の公共的討議によって再検討していく。その過程で、あるべき選好のあり方が変化することもある(たとえば、タバコに対する選好は市民同士の公共的討議を通して少しずつその外部性が問題視されるようになったものだ)。環境問題も同じことだと思う。人々を消費者とみなし、かれらの環境に対する選好を所与のものと見なして支払意志額を聞くのではなく、まずは市民同士の公共的討議が行われるべきだ。何を内部化するべきかは、市民が決めることであって、環境経済学者が決めることではない。

…という風に、どうやら私は、内部化そのものが嫌なのではなくて、内部化に至るまでの市民同士の公共的討議をすっ飛ばしてしまうような議論の仕方が嫌なのだということみたいだ。で、そういう議論の仕方に対して嫌悪感をおぼえるのは、たぶん社会観とか人間観のところで私にとって受け入れがたいものがあるからだと思う。前掲の、環境評価の教科書のはしがきではこんなことが書いてある。

大切な自然環境を経済価値で評価することに、抵抗を感じる人がいるかもしれない。しかし、問題は手続きである。社会を構成する人びとの意志が、適切に反映していると、社会が受け入れるような手続きで与えられた評価価値は、たとえそれが貨幣額で与えられていても、私たちは尊重する必要があるのではないだろうか。 鷲田豊明『環境評価学入門』ii-iii

たぶん、著者は、個々人の評価価値を尊重することこそが民主的社会なのだという発想に立っている。しかし私は、そうした個々人の評価価値の妥当性は公共的討議を通してきちんと精査するべきだという立場だ。もしかしたら、この引用の「社会が受け入れられるような手続き」というところにそのあたりのニュアンスが込められているのかもしれないけれど、だったらそこをきちんと展開してほしかった。