この本は前にも読書ノートを書いたのだけど、初めて書いたブログ記事なので、まとめ方がかなりかったるい感じになってる。もう一回書き直してみたい。
はじめに なぜ現代思想か(p8-)
最初に、現代思想を学ぶことのメリットが書かれている。ここはとても重要なことだ。現代思想はやたらと難しい。自分は現代思想に関してまったく無知なわけではなくて、東氏の郵便本とか、佐々木中氏の本とか、あとは千葉氏の動きすぎたらダメ本とか、いちおう読んだことはある(佐々木中氏のはラカンの章だけ読んでやめた)。だけど、どれを読んでも、「で、だから何なの?」という感想しか無かった。
そもそも哲学とは「で、だから何なの?」というようなものなのではないか、と言われそうだけど、そうでもないと思う。たとえばカントとかヘーゲルとかを勉強すると、倫理学や制度論を勉強する上で役に立ち、倫理学や制度論は現実の倫理問題や制度構築について考えるのに役に立つ。また、プラグマティズムを勉強すると環境プラグマティズムの理解に役立ち、環境プラグマティズムがわかると現実の環境問題を理解するのに多少役に立つかもしれない。あるいはアリストテレスを学べば幸福度研究やケイパビリティ研究の理解が進むだろうし、幸福度やケイパビリティがわかれば貧困や福祉の問題に対する改善策を考えるヒントになりうる。
こんな風に、少なくとも自分にとっては、哲学を学ぶというのは何かに役に立つから学ぶのであって、役に立つ見込みがないのなら勉強する意味は無いと考えている。ところが現代思想の場合、そういう「何の役に立つのか?」という出口がさっぱり見当たらない。否定神学批判がどうこうとか、切断とか、糸巻き車に対するフロイトやラカンの理解がどうこうとか、そんなの学んだところで何の役に立つというのか。しかも、勉強しようとするととてつもなく難しい。やたらとコストがかかるのに見返りが何も無いなんて、馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
と言うことを書いたら、「見返り目的で哲学を学ぶとは嘆かわしい!」とか怒られそうだけど、自分は哲学の専門家でもなんでもないので怒られても知ったこっちゃない。さすがに金になるかどうかみたいなことは求めていないけれど、何らかの形で現実に対する見通しをよくしてくれるような知見が得られないのであれば、現代思想を勉強しても無意味だと思っている。
という長ったらしい前置きをしたけれど、筆者は現代思想を学ぶことのメリットをどう考えているのだろう?
p8 現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになる。
現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。
――と言うと、「いや、複雑なことを単純化できるのが知性なんじゃないのか?」とツッコミが入るかもしれません。ですが、それに対しては、「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがありそれを尊重する必要がある」という価値観あるいは倫理を、まず提示しておきたいと思います。
少なくとも今の時点で、このメリットのありがたさはよく理解できない。単純化といってもいろんなやり方がある。たとえば気候変動を、経済問題として単純化することもできるし、世代間倫理の問題として単純化することもできる。いずれにしても、何らかの形で単純化しないと問題として定式化できないし、問題として定式化できないと問題解決することもできない。
あるいは、アマルティア・センみたいに、ものごとを多角的に捉えることが大事だと言っているのだろうか? たとえばセンは、効用だけでは人々の豊かさを捉えきれないからケイパビリティ(生き方の幅)という概念を提唱する。そして、ケイパビリティを構成する機能として具体的に何が重要なのかというリストをつくることはかたくなに拒否する。それは、機能をリスト化して固定化してしまうと、人々が実際にどのような生き方をしているかを見過ごしてしまう危険があるからだ。だから、センも現実に対する解像度を上げることの重要性を主張しているのだといえる。ただ、センはただ解像度を上げれば良いと考えているわけではなく、解像度を上げた上で、人々の豊かさや自由さを本当の意味で高めることを最終的なねらいとしている。そうした、「解像度を上げた上でどうするのか?」という問題意識は、現代思想の場合、どういうことになっているのだろうか。
p9 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持つ。
現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
つまり、解像度を上げることで、秩序を強化する動きに敏感になったり、人々の多様性をちゃんと捉えられるようにしよう、ということだろうか。それなら、センの主張とも割とリンクしてきそうな気がする。
そして、「秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてほしいのです」(p12)と述べている。割とバランス感覚のある書き方をしてるな、と読み返してみて気づいた。
ただ、その「秩序から逃れる」というのは個人任せなのだろうか? つまり、逃れられる人は逃れるけれど、どんくさい人は取り残される。そういうことにならないだろうか。世の中には、敏感な人もいれば鈍い人もいる。いろんな人がいて社会は成り立っている。だからこそ、鈍い人でも何とか生きていけるように、秩序というのはあるのだと思う。
また、「秩序から逃れる」ことを重視する思想だと、結局それは個人の生き方や好みの問題だということになってくると思う。つまり、逃れたい人は逃れればいいし、逃れたくない人は逃れなければいい。で、だとしたらわざわざ思想なんて持ってこなくても、個人の自由な判断に任せれば良いのではないか。本書では最後に「ライフハック」という生き方が提示されるけれど、ライフハックしたい人はライフハックすればいいし、したくない人はしなければいい。ただそれだけのことであって、それをわざわざ難しい本読んで勉強することの意味って何なのだろう?
で、この「はじめに」の最後は、「グレーゾーンにこそ人生のリアリティがある」という主張で締めくくられている。「秩序からの逸脱」というのは、好き勝手生きろと言っているのではなくて、「自分の秩序に従わない他者を迎え入れることを意味」する(p22)。それは他者の良いなりになるということではなく、他者に振り回されるのを楽しむということだ。
p22 グレーゾーンにこそ人生のリアリティがある
このように、能動性と受動性が互いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある。
でも、それはひとつの人生観に過ぎないのではないだろうか? 筆者の人生観が正しいとか、唯一のものであるということはない。だとしたらやっぱり、グレーゾーンを楽しみたい人は楽しめばいいし、楽しみたくない人は楽しまなければいいということになる。それは個人の生き方の問題だ。生き方を選択する自由は守られなければならない、とセンなら言うだろう。