【読書ノート】Morality, Competition, and the Firm イントロ

このごろ、エシカル消費やらフェアトレードやらについて勉強しているのだけど、なんだかピンときていない。

何がピンと来ていないのか。まず、自分自身、フェアトレード商品なんて買ったことない。もうちょっとお金持ちになったら買うかもしれないけれど、今のところ、コーヒーは1円/1gの激安豆で済ませている。

前回の記事でも引用したけど、ヒースは、倫理的消費は任意であるのが問題だと言っている。つまり、買いたい人は買うし、買いたくない人は買わない、というのではなく、きちんと内部化して、人々に環境や途上国労働に関するコストを支払わせるのが必要なのだ。

これは感覚的にはとても納得できる。たとえば、少なくとも今の日本で有機農産品を買うのはお金持ちばかりだし、有機農産品を買いたければ高級スーパーに行くことになる。ほんのひとにぎりのお金持ちが高級スーパーで有機のズッキーニやトマトを買ってラタトゥイユを作って食べたって、消費量としては微々たるものだろう。それはお金持ち向けの市場を作ったというだけのことであって、大多数の人はもっと安価な商品を購入しつづけるのだから、問題は何も解決していないのではないか(有機の場合、そもそもそれが環境にとって良いことかどうか微妙だという問題もあるけれど)。

経済に倫理を持ち込むことを重視する人はそれなりにいるし、わたし自身もそれは大事なことだと思う。だけど、結局それは、一部の意識高い人たちの娯楽に成り果ててしまっていて、ウォークとかウィンウィンとかサステナブルとかわけのわかんないカタカナ言葉がどんどん増殖していくむなしい状況になっている。というわけで、経済と倫理の関係に興味はありつつも、経済に倫理を持ち込もうとする人たちに対しては強い違和感を持っている。

さっき言及したヒースは実はビジネス倫理学の研究もしている。今回取り上げる本は、むしろ企業は利益を追い求めるべきだ、ということを主張する本だ。というのは、ヒースの「市場の失敗アプローチ」によると、企業がきちんと利益を追い求めることこそが倫理的だということになるからだ。したがって、CSRはヒースのアプローチの中で否定的に扱われることになる。 → これは言い過ぎ。CSRそのものは否定していない。あくまで、CSRを擁護するのにステークホルダー理論を使うのが不適切だと考えているみたい(p68-69)。

詳細はこれからチビチビ整理していくけれど、経済と倫理の関係についてずっとモヤモヤした思いを持っていたわたしからすると、解毒剤になってくれそうな議論内容なので、かなり期待している。

Introduction

I.1.1 PROFIT

ビジネス倫理学では、経営者はステークホルダーに対して責任があり、株主が優先されるべきではない、ということがよく論じられている。つまり、経営者は環境問題やら貧困問題やらに関わるステークホルダーの利益になるよう行動するべきであって、企業利益を最大化することで株主を喜ばすようなことは慎むべきだ、ということだ。だけど、これはおかしい。なぜなら、資本主義というのは利益の追求という動機によって動いているものなのであって、利益追求を否定してしまったら、それは資本主義を捨てるということになってしまうからだ。これは問題を取り違えている。というのは、ビジネス倫理学は資本主義を捨てるかどうかということを問題にする学問ではなく、資本主義において各主体はどう振る舞うべきかを問題とする学問だからだ。(p7)

各主体は自身の利益を追求する資格を持っている。というのは、競争市場においては、各主体が利益を追求することによって、価格に社会的コストが反映されるからだ。(p10)

もし、ある主体の行為が他の主体に害を及ぼすのなら、その分の社会的コストを価格に反映させるべきだ。そうすることでパレート効率となる。(p11)

I.2. The Goal of Business Ethics

多くのビジネス倫理学者たちは、謙虚さからか、自分たちは人々の振る舞いを道徳的にしようというつもりはない、と言っている。しかしわたし(ヒース)は、むしろそれこそがわたしの仕事だと思っている。哲学というのは単に世界を理解するためのものではなく、世界を変えるためのものなのだ。 (p12)

企業は、法律によって禁止されてないことなら何でもやっていい、というわけではない。法律というのはコストのかかる抑止手段なので、なんでもかんでも法律で取り締まるわけにはいかない。そもそも、社会に対して協力的でないような振る舞いをしている企業(つまり、道徳無視で振る舞う企業)を法律でコントロールするのは難しい。 (p13)

企業犯罪を取り締まるのは、路上での犯罪を取り締まるのに比べて、ずっと難しい。たとえば、企業犯罪の犠牲者というのは様々な人たちで構成されるグループなので、犯罪にあっても、そもそも自分が犯罪にあっているということに気づかないことが多い。(p17)

ビジネス倫理学の役割は、市場に外部から道徳的配慮を持ち込むことではなく、市場経済の参加者の自己理解を明確にし、修正することだ。 (p19)

I.3. Further Directions

(省略)

感想

価格に社会的コストが反映されているという前提のもとで、企業は利益をきちんと求めるべきで、それが社会的コストを減らすことになる、と述べられている。その一方で、法律が許せば企業はなんでもして良いというわけではなく、道徳も大事だとも述べられている。というのは、法律で企業を取り締まるのはコストがかかるし、そもそも取り締まること自体が難しいからだ。

ここでいう「道徳」というのは、利益を度外視して環境問題に熱心に取り組む、というのとは違うことを言っているみたいだ。たとえば不正を隠蔽するとか、そういう社会的コストを生み出してしまう振る舞いを抑制する、という意味で道徳を持ち出しているんじゃないかなあ、と思う(ビジネスの話は苦手なので、文意を読み取るのに苦労している)。

じゃあ、そもそもどうすれば価格に社会的コストが反映されるようになるのだろう? というところに個人的には関心があるのだけど、書いてなかった気がする。もうちょいと読み進めないと。