【読書ノート】『啓蒙思想2.0』第4-5章

第4章 直観が間違うとき そして、なぜまだ理性が必要か

直観の限界はメタ認知ができないこと(p143-)

信念の持続というやつがあって、いったん「こうじゃないか?」という信念ができあがると、人はその信念をくつがえすような反証が目に入りにくくなってしまう。

直観は、なんで自分がこういう判断をしているのか、というのをメタ認知できない。そこが直観の限界だ。メタ認知を可能にするのは直観ではなく、むしろ言語だ。

直観が間違う機会が昔に比べて増えてるからますます理性が必要(p154-164)

たとえば大昔は糖分や脂肪というのは貴重だったから、そういうのを欲するのは進化的適応という点では妥当だ。だけど、今は糖分や脂肪は昔に比べてずっと手に入りやすい。そういう状況で直観のおもむくままに食べていたらどんどん肥満になってしまう。

わたしたちの生きる環境が昔に比べてずっと不自然になっているわけだから、進化的適応の産物である直観に従っていると変なことになりがちだ。だから理性は絶対不可欠なのだ。

4章コメント

なんか1章の議論とかなりかぶってる気がするなあ。

第5章 理路整然と考えるのは難しい 新しい啓蒙思想の落とし穴と課題

バイアス盲点:バイアスを笑っているあなたもバイアスにはまっている(p168-174)

わたしも心理学をたくさん勉強したものだが、それでもバイアスに引っかかることはあるよ。人は、バイアスは内省によって検知できると考えている。つまり、「ああ、大丈夫、自分は今、バイアスにひっかかってないぞ」とか。でも、それこそがまた新たなバイアス。つまり、バイアス盲点だ。

なんでそうなってしまうからということ、これまた進化的なコストによるものだ。内省でバイアスを発見するためには、「もし自分が間違っていたら?」と考えないといけない。だけど、はるか昔の人類が草原だかジャングルみたいなところにいたときに、そういう思考をしたとしてもとくに生存に有利ではない。むしろ、「間違ってるかもしれないけれど正しいかもしれない」という思考の方が生存に有利だ。たとえば草がそよいだとき、「間違ってるかもしれないけれどあれはライオンかもしれない」と思考する方が生き延びやすいのだ。

確証バイアスによる合理性障害(p175-181)

陰謀論みたいなへんな考えにひっかかってしまうのは、別にその人が馬鹿だからではない。かなり頭が良いはずの人たちがひっかかって、自分にも他人にも悲惨な結果をもたらすことがある。「充分に知能があるにもかかわらず、合理的に行動できない状態」を合理性障害という。

なんでそうなってしまうかというと、彼らは極度の確証バイアスにかかっているのだ。つまり、「もし自分が間違っていたら?」という思考をせずに、自分が「これが正しい」と確証している考えへの反論を無視してしまうのだ。

こういうバイアスを回避するためのクルージは、他人を取り入れることだ。つまり、間違っているかどうかを他人にチェックしてもらう。論文の査読制度なんかもそういうクルージだ。間違った答えというのはたいていの場合、きちんと言語を使って組み立てたものではないので、自分の考えを他人に説明しようとしたとたんに問題が露呈する。

バイアスあれこれ(p184-185)

楽観バイアス:わたしたちは万事上手くいくと思い込みがちだ。それで、開業したレストランの多くがすぐに廃業してしまうというのに、うまくいくさ、と思い込んで開業してしまう。

マイサイド・バイアス:他人の言い訳には耳を貸さないくせに、自分の言い訳はもっともらしく聞こえてしまう。

フレーミング効果とアンカリング効果:同じ選択肢であっても、その選択肢がどんな風に提示されるかによって決定が影響を受けてしまう。

損失回避:放棄された利益より損失の方を気にかける。

信念バイアス:自分がすでに信じている結論を支持してくれるかどうかでその議論の質を判断してしまう。

確率:確率で考えると大してリスクがないのにとてつもなく過大評価してしまったりする。

集合行為問題の解決の難しさ(p188-195)

こういう各種バイアスが、集合行為を難しくしてしまう。

小集団なら進化適応によって獲得された報復主義で対処可能だ。フリーライドには懲罰という形で報復がなされるのなら、フリーライダーの発生は抑えられ、集合行為を実現できる。

だけど、事故というのもありうる。つまり、Aさんに懲罰を加えようとしたら、間違ってうっかりBさんに懲罰を加えてしまうとかだ。このとき、Bさんはその懲罰を「攻撃」と見なすだろう。もしかしたら懲罰者に仕返しするかもしれない。

そして、大集団ではこういう事故が発生しやすくなる。で、気づいたら集団が非難の応酬によって麻痺状態に陥っている、ということにもなりかねない。こういう状態は、だいたいがマイサイド・バイアスと内集団の連帯と報復主義の強力なミックスの産物だ。

そういうバイアスを乗り越えて集合行為を可能にするためのクルージが国家だ。つまり、個々人に勝手に報復をやらせないで、国が裁く、ということだ。

進化に任せても集合行為の問題はクリアできない。なぜなら、集合行為というのは全員がいっせいに大きな一歩を踏み出さないと解決できないものだからだ。それに対し、進化による変化というのはずっと緩慢だ。だから、理性が必要になってくるのだ。

5章コメント

バイアス盲点というのは自分も含め、いろんな人がいろんなところでやらかしてそう。ヘーゲルやセンが公共的討議を重視するのは、バイアス回避という意味合いもあるのかもしれない。