【読書ノート】Philosophical Foundations of Climate Change イントロ

ヒースの代表的な著作はだいたい読んで、なんでこの人がこういう考え方をするようになったのだろうか、というのはなんとなくわかった気がする。わかった気がするけれど、何がわかったのかわかってない気もしてきたので、ちょいと羅列してみよう。

  • 合理性に対する考え方:
    • 帰結主義
      • 規範を重視。人は帰結だけじゃなくて規範も考慮して合理的に行動する。
    • 選好の認知主義:
      • 人は自分の選好に盲目的に従うのではなく、合理性を働かせて、自分の選好を疑うこともできる。
    • 合理性は言語を基礎としている:
      • 人は言語を通して他者と「理由」をやりとりする。他者に受け入れられる理由がなければ合理的とはいえない。その意味で、合理性の根底には社会規範がある。
    • 外的足場による合理性の補完:
      • 人間の能力はそんなに高くないので、合理性がうまく働いてくれるとは限らない。だから、人間の貧弱な能力を補足するものとして、外的足場が重要になってくる。たとえば言語や社会制度が外的足場にあたる。
  • 集合行為への着目による倫理学批判:
    • 規範同調性による集合行為問題の回避:
      • 倫理学者たちは立派な倫理理論をつくるけれど、それが集合行為の問題にどう答えられるのかをきちんと考えていない。進化論的に考えると、平等を重視する倫理が生き残るのは難しい。なぜなら、平等を志向する個体は適応度が低いので淘汰されてしまうからだ。
      • 規範同調性というのを仮定すれば、こうした適応度の問題は回避できる。道徳は文化レベルの現象であって、文化に関しては生物学的な進化理論は通用しなくなるからだ。
    • 合意を可能にする要件としてのパレート効率:
      • 倫理学者たちは平等を重視するけれど、平等はゼロサムゲームだ。たとえば、貧乏人がお金をもらう一方で、金持ちがお金を奪われたりする。これでは合意は困難だ。倫理学者たちの問題は、そうした現実社会での合意可能性についてきちんと考えていないことだ。
      • パレート効率であれば、だれも損をしない。ゼロサムではなくウィンウィンになる。だから合意がしやすくなる。
      • 市場における倫理はパレート原理に基づくべきだ。なぜなら、市場はパレート原理を達成するための外的足場だからだ。

最後のパレート効率のところはヒースのビジネス倫理学の関する議論から出てきたもの。他のところはぜんぶ『ルールに従う』に書いてあることだ。

「合理性」と「集合行為」が重要なキーワードなのかなあ。で、主要な敵は経済学者と倫理学者ということになりそうだ。経済学者たちは合理性概念を勘違いして極端に狭いものにしているし、倫理学者たちは集合行為の問題をろくに考えもせずに立派な倫理理論をつくることに精を出している。そうした点をヒースは攻撃している。

ただ、経済学はすでにいろんな論者たちから批判を浴びている。たとえばセンは大昔に「合理的な愚か者」なんて言葉で経済学者たちをディスっていたし、たしかロールズも、「rationalとは利己的ということではなくて理に適っているということなのだ!」とかどっかで言ってなかったっけ? 経済学における合理性の捉え方がへんだというのは結構昔から指摘されていることだ。批判の方向性は新しくても、論点自体はそこまで新しくない。

となると、ヒースに関して新しいのはむしろ倫理学批判の方なんじゃないかと思う。ただ、じゃあヒースがどういう倫理学を考えているのかというと、全体像があまり見えてこない。ビジネス倫理学では市場の失敗アプローチなんてのを提案しているけれど、それはあくまでビジネス倫理学限定の議論だ。それ以外の場面ではどういう風に考えているんだろう?

今回の本は、気候変動を題材にヒースが独自の倫理学的立場を示すもの、だと思う。「だと思う」というのは、まだ途中までしか読んでないから。ただ、ちらっと読んだ感じだと環境倫理学への批判があったりするので、いちおう倫理学批判に焦点を当てた本なのだと思う。かつて環境倫理学に片足を突っ込んで「もういいや」と引っこ抜いた身としては、ヒースがどんな風に環境倫理学を批判して、代替案として何を言ってくれるのかとても興味深い。

英語だから読んでもスルスル忘れていってしまうので、まとめながら読んでいきます。たぶん本書が翻訳されることはないはずだから丁寧にまとめていこう。あと、この本、馬鹿高いです。8,000円以上します。洋書の場合、売れない学術書は極端に高い。研究費で買っても良かったのだけど自腹で買いました。

なぜそこまでヒースに入れ込むのか? いや、わかんないけど、たぶんどっかで飽きると思うんだ。どうせ飽きるんなら、早めに飽きておきたいのだよ。飽きないと人は先に進めないものなのだ。

イントロダクション

この本は気候変動に関する政策について考えるものだ。哲学の立場から考えるのだけど、哲学をそのまま現実に適用するようなやり方は考えていない。むしろ、気候変動について現実に考え得る選択肢にどんなものがあるのか? というところから考えて、そこから哲学的な議論に移りたいと思う。そうでないと、意味のある政策提言につなげられないからだ。

基本的な制度構造を変化させるようなものは選択肢に入れられない。たとえば、「資本主義を廃止する」みたいな選択肢だ。確かにこの選択肢を選べば気候変動は止められるかもしれないが、そもそも選択肢になりえない。哲学者たちのまずいのは、そうしたそもそも選択肢になりえない提案をしがちなところなのだ。

たとえばロールズは、「最も貧しい人の利益を優先せよ」と主張する。これは、最も貧しい人の利益が最大化されるまでは、他の人たちの利益を無視せよということだ。しかしこんなことは現実には実行不可能だ。なぜなら、そんな風に圧倒的多数の人々の利益を無視するような提案が、民主主義社会で受け入れられるわけがないからだ。

これは気候変動問題においても同様だ。哲学的な議論は政策的な議論と切り離された場で行われてきたのだ。哲学者たちは経済学者たちを批判する。しかし、経済学者たちは現実の選択肢について相対的なメリットを教えてくれるからこそ、政策立案において重宝されているのだ。これに対し哲学者たちは、すべての選択肢を否定した上で、議論の前提そのものをひっくり返してしまいがちだ。これでは政策に対して哲学がぜんぜん影響力を持たないのは当たり前だ。

この点でいうと、哲学者のなかでも、義務論者たちよりも功利主義者たちの方がましだ。というのは、功利主義帰結主義であり、政策の帰結について優先順位をつけることができるからだ。その点では、経済学者たちとあまり変わらない。だけど、帰結主義は不人気なものだ。

哲学者たちは、気候変動に対処するには欧米の富裕層の消費を減らせば良いと主張してきた。だけど、今みたいにかつての途上国がガンガン豊かになってCO2を排出している状況では、そんな単純な構図では状況を理解できない。開発によって途上国が豊かになることと、排出量を抑え込むことは、トレードオフの関係にある。このトレードオフ関係を無視した提案なんて意味ないよ。

本書で私が提案しようとしているのは、一般的な契約主義的アイデアだ。これは、私がこれまでの研究で「最小限に論争的な契約主義(minimally controversial contractualism)」と呼んできたものだ。これは気候変動に対するよい哲学的・規範的土台となるだろう。それがどういうものなのか、簡単に説明しよう。

社会はそれぞれ別々の道徳コードを持っている。だからロールズの言うように、「多元主義」で考えないといけないわけだ。全体をきれいに裁ける普遍的な道徳なんてものは期待できない。ここで必要なのは、人々が協力について合意に至るための規範的原則だ。基本的な問題は次の2つに分けられる。

  1. 協力によって相互に利益が引き出せること。このとき、当事者たちは自分たちの利益が最大化されることに関心を持っている。
  2. そうした利益の分配のされ方によってはコンフリクトが生じるかもしれない。

1については、パレート原理を使えばいい。つまり、誰かの状態を悪くすることなしに、誰かの状態を良くすることのできない、効率的な状態をめざすのだ。

2については少し難しい。というのは、これはウィンウィンではなく、ウィンルーズの問題だからだ。「分配が少ないよう!」と文句が出た人に分け前を多めに上げれば、必ず別の人から文句が出る。このとき、完全に平等な分配にすれば文句はどこからも出なくなる。もちろん、平等にするのはいろいろテクニカルな問題がからんでくるのだけど、とりあえず、「分配が少ないよう!」という類いの文句を中立化することはできる。

こうして「効率性」と「平等性」を考慮に入れたのが、「優先主義的な正義論(prioritarian theory of justice)だ。平等からの逸脱は、それによって増加する厚生(welfare)が、失われた平等による厚生の損失よりも大きいときに許容される。そうしたことに配慮する制度は「公正(fair)」だということになる。気候変動問題に対する私の哲学的主張は、気候変動は、制度による分配と、制度が許可する排出レベルを、「公正さ」の観点から捉えるべきだ、ということだ。

本書の目的は、最小限に論争的な契約主義によって、気候変動「政策」を考えるのに必要な規範的資源をすべて確保できるということを示すことだ。あくまで「政策」であって、環境「哲学」の基礎を与えるものでないことに注意。哲学者たちは「平等」を重視過ぎて、「効率」を無視しがちだ。だけど、気候変動に対処する際、もっともやっかいな部分を扱うのは効率性原則なのだ。これは私がこれまでビジネス分野に使ってきた市場の失敗アプローチの応用だ。

経済学者たちは一種の功利主義に従っている。私の考えでは、これは間違った立場だ。だけど、私の立場も、経済学者たちの立場も、いずれもパレート原理に関心を寄せているのだから、出てくる政策提言の内容自体はたいして変わらない。ただし、社会的割引率の問題に関しては、彼らの立場ではうまくいかないかもしれない。道徳の輪を未来の人々にも拡大するなら、帰結主義者の考えにもとづくと、割引率をかなり低く見積もらなければならない。一方、それは非現実的なので、経済学者たちはそこで規範的立場を捨てて、一般的な金利を参照して割引率を設定する。すると今度は割引率がかなり高くなってしまう。こうしたジレンマを解消するには、私の考えるような哲学的立場が役に立つ。

感想

あ、やっぱり市場の失敗アプローチの応用なんだ。私は本を読んでもほとんど脳に残らない人間なので、こうしてまとめないと何が書いてあったか思い出せないのだ。

でも、効率性と平等性の議論がどうかみ合ってるのか、イマイチわからなかった。いったん市場でパレート最適を達成した上で、強制的に平等な分配にする、みたいな話ではないと思うけど…。あるいは、いったん平等な分配にした上で、そこから「平等による厚生」と「個々の主体の利害」をパレート改善になるように交換していく、みたいなことだろうか。いや、よくわからん。無理な理解はやめよう。これから本論に入るともう少し詳しく説明されるのかな? 

最後の社会的割引率云々のところはどういうことなのかについてちょいと考えてみる。功利主義的な考え方を貫くのなら、効用を得る主体が誰なのかによって差別をしてはいけない。だから、ピーター・シンガーみたいに功利主義に基づいて動物への配慮を訴える人もいる。となると、未来世代だからといって彼らの利害を大きく割り引くわけにはいかなくなるので、割引率は低めに設定することになる。だけど、それだととてもへんな話になりがちだ。この点については、環境経済学者のノードハウスが述べていることをそのまま引用してみよう。

それでは次に、割引がない場合を見ていきたい。これはときに、哲学者の間で支持される考え方だ。先ほどの家族の例の中で、仮に将来世代に対する我々の懸念割引がゼロだったとしよう。つまり我々は、我が子のことと同じくらい孫のことを心配し、また孫のことと同じくらい玄孫のことを心配している。数字で表すと、割り引かれることのない懸念の合計は無限大だ(1+1+1+….=∞)。この場合、我々の多くは、はるか先の世代に降りかかるかもしれないありとあらゆる問題を思い浮かべながら、懸念の海に溺れることにある。小惑星や戦争、制御不能なロボット、ファットテール現象、スマートダスト、その他の大惨事。我々はただ途方に暮れるしかない。割引率をゼロにすることは、我々の両肩に無限の重荷を載せるようなものだ。 

ノードハウス『気候カジノ』p285

で、だから「我々は、市場の現実を無視した公平性という抽象的な定義ではなく、社会が向き合う実際の市場機会を反映した割引率を用いるべきだ」ということになる。そうしないと、どこに優先して投資をして良いかわからなくなる。「地球温暖化政策への投資はほかの投資と競合するべきであり、割引率はそうした投資を比較する際の物差しとなる」(p286)。

ただ、「ほかの投資と競合するべき」とは言うものの、なぜ「べき」なのかという根拠は述べられていない。まさに、「経済学者たちはそこで規範的立場を捨てて、一般的な金利を参照して割引率を設定する」わけだ。いや、そもそも古典的功利主義の立場を経済学者たちが採用しているわけではないので、そもそも経済学者には「規範的立場」なんて無いのだ、という言い方もできるのだけどね。ただ、それならなぜ将来世代の利害に配慮しなければならないのか? というのがわからなくなる。将来世代に配慮するというのなら何らかの規範的立場を取らなければならない。でも、経済学者たちは割引率を高めに設定することでそうした規範的立場を捨てている。その点をヒースは「ジレンマ」と言っているのだと思う。