【研究ノート】「合理的」に考えてもらうには?
合理的に考えるための議論環境をつくる、というのが大まかな今の研究テーマなのだけど、やってみるとなかなか難しい。そういう議論環境をつくって学生たちに議論してもらっても、かなりなあなあな感じで議論が進められてしまう。細かくマニュアルを作ったり指示を与えたりしても根本的なところはなかなか変わらない。なんとなくお互いの意見に「共感」し合って、何となく「納得」してしまうみたい。本当は、野中郁次郎が言ってるみたいな「知的コンバット」をやって欲しいのだけど、なかなかそんな風に行かない。
かなり難しいことをやっているというのは自覚がある。合理的に考えるのはそれなりに訓練のいることだ。たとえば、卒論・修論の指導をしていて、こちらが「論理」の話をしているのに、「普通はそうならないと思います」という「常識」で返されることがある。また、研究者同士で議論していても、結論が私にとって受け入れがたいからその論理は間違っている、というようなことを言う人がいる。結局、人間はバイアスのかたまりみたいな生き物であって、そのバイアスを剥がすのはかなり難儀なのだ。
ヒースは『啓蒙主義2.0』の中で、合理的な議論にはナッジが有効なのではないか、という趣旨の主張している。たとえば、議会での質疑応答をテレビ放送するのなら、長さ一分未満のシーンの再生は禁止するとか、政治広告で画像や音楽の利用は禁止するとかだ。ただ、これらは感情的反応を抑えるためのナッジとしてはいいかもしれないけれど、感情を抑えたからといって必ずしもバイアスがなくなるわけではない。たとえば、太さの違う2つのビーカーに水を入れて、どちらがたくさん入っているように見えるでしょう、みたいな問題を解くときの心理的バイアスは、感情とはあんまり関係ないと思う。
合理的かどうか、ということを問題とするには、まず、そもそも何をもって「合理的」というのかを決めておく必要がある。たとえば、意思決定論の研究者であるギルボアは、「合理的」についてこんな風に考えている。
合理的な行動様式とは私が説明したり説教したりしても変えることができないものです。私は合理性を――意思決定理論の理論家によって意思決定主体に与えられる勲章のようなものではなく――安定性という概念、あるいは意思決定者の個人的な基準と実際の意思決定の整合性と見なそうとしています。 ギルボア, I.( 2013)『合理的選択』p20
つまり、説教しても変えられない行動様式が合理的であり、説教したら変えられる行動様式が非合理的だということだ。たとえば、経済学でいわれる「効用最大化」というのは、実はその意思決定が完全律と推移律を満たすということの言い換えでしかない。完全律というのはそれぞれの選択肢対についてどちらが好ましいかを決められること、推移律というのは好ましさの順番に矛盾がないこと。意思決定者がこういうルールを守るかどうかはわからない。本人次第だ。でも、たいていの人はこういうルールを受け入れるだろう。たとえば「あなたはバナナよりイチゴが好きなんですよね」「はい」「で、イチゴよりスイカが好きなんですよね」「はい」「じゃあ、バナナよりスイカが好きということになりますよね」「いいえ」という人は推移律を満たしていない。そういう人がいても構わないけど、普通は推移律から矛盾してると指摘されたら「あ、すいません、はいでした」と訂正するだろう。
つまり、「矛盾してるじゃないか!」と説教されて意見が変わるんだったら、その人はそれまで合理的でなかったということだ。逆にいうと、どんなに説教されても意見が変わらないのなら、たとえ完全律や推移律に矛盾しているとしても、その人は合理的なのだということになる。
こういう緩い合理性観は、推論主義とかなり近いと思う。推論主義では、理由をちゃんと答えられるのが合理的だと位置づけられている。ギルボアの議論とつなげるなら、たとえば推移律に従わないで意思決定している人がいて、「推移律に従ってないじゃないか!」と説教されても自分の理由を主張できるのなら、その意思決定は合理的だということになる。
推移律に違反してるけど理由を説明できる、というイメージはわかりにくいかもしれないけれど、橋本治はちょっと近いんじゃないだろうか。
山形 『アニマルスピリット』(ジョージ・A・アカロフ/ロバート・シラー著、山形浩生訳、東洋経済新報社、二〇〇九年)に書いてあることですが、今の経済理論は、一〇円と一〇〇円ではどっちが欲しいかと聞いて、一〇〇円と答える、じゃあ五〇円と一〇〇円ではと聞いて、やっぱり一〇〇円、じゃあ九九円と一〇〇円、では九九・九九九九九円と一〇〇円だったら、というような、最後には普通の人であればどっちでもいいという話にすら、選択を迫るわけです。そうやって突き詰めていくことが原因で訳の分からない話になり、人がそんなに細かく考えることを前提としていることでおかしくなるというようなことが書いてあります。...(略)
橋本 私は、子どもの頃からそういう理論に従うということがよくわからないんです。例えば一〇円と一〇〇円でどっちが欲しいと聞かれたときに、一〇〇円もらうと大それたことになるから、一〇円でいいや、という選択する子なんですよ。で、九九円と一〇〇円だったら、面倒くさいからどっちもいらない、という選択をしてしまう。
つまり、10円 > 100円 ≓ 99円 ということになる。推移律違反というのとはちょっと違うけど1、選好の順番が普通とちがうというのは言えると思う。また、こうした変わった選好順序に、橋本治は「大それたことになるから」「面倒くさいから」とちゃんと理由を明示している。つまり、橋本治は経済学が想定する合理性とは異なる意思決定をしているけれど、ギルボアや推論主義の観点からいうと合理的だということになる。
合理的に考えてもらうというとき、まずはひとつのタイプの合理性を押しつけてみる、というのは手かもしれない。たとえば橋本治の場合は、経済学における選好の考え方を聞いた反応として、「でも私はそういう風に考えないよ」と主張しているわけだ。自分に納得できない合理性を押しつけられる違和感によって、自分なりの合理性に気づく、ということはあり得ると思う。
あるいは、そうした合理性のタイプとして、功利主義とか義務論とかの倫理理論を押しつけてみる、というのも有効かもしれない。つねに功利主義で判断してくださいね、と指示して、最初は「もらい物の羊羹を家族でどう分けるか」みたいな無難な問題で功利主義的判断をしてもらう。それを、やがてトロッコ問題みたいなジレンマ問題に移行させていくと、「本当に功利主義で判断することが合理的なのか?」という違和感が出てくる可能性がある。
これって、センのいう「実現ベースの比較」と同じタイプの問題なのかもしれない。つまり、「完璧な正義」ではなく「相対的な正義」に焦点を当てないと現実の倫理問題解決には役立たないのと同じように、「完璧な合理性」ではなく「相対的な合理性」に焦点を与えないと現実の意思決定支援には役立たない。「相対的な合理性」を目指すにはベースラインが必要なので、まずは当て馬としての「合理性」を示す。そうすることで、自身の合理性を改善するきっかけを与えることができるのではないか…。しばらくこの路線で考えてみよう。
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(2022/10/10追記)これは推移律と全然関係ない事例なのでは? と思い始めたので、もうちょいと考えてみる。まず、効用関数U(・)というのを想定する。「・」のところには金額が入る。すると、橋本治の効用関数は、U(10)>U(100)=U(90)なのだということになる。これだけなら別に問題はない。橋本治がそういう効用関数を持っている、というだけの話だ。だけど、他の金額についても効用を考えてみると、どこかで矛盾が出てきそうな気もする。まず、橋本治はU(100)=U(90)と考える人なのだから、おそらくもらえる金額が91~99のときも効用は変わらないだろう。つまり、U(100)=U(99)=…U(91)=U(90)ということだ。また、こうやって1円刻みで金額を変化させても効用が変わらないということは、おそらくU(90)=U(89)=U(88)=…U(11)=U(10)も成り立つ。すると、推移律により、U(100)=U(90)=U(10)だということになる。だけどこれは、最初に考えていたU(10)>U(100)=U(90)という関係と矛盾する。したがって、橋本治は推移律に従っていない……ということになるのかなあ。「=」の関係で結ばれている無数の効用について推移律を適用して良いのかどうかちょっと判断つかない。前にちょっとかじってみたセンの『集合的選択と社会的厚生』だと、推移性というのは正しくは、「任意のx,y,zについて、xRy & yRz → xRz」というものだ。ここで「xRy」等は、xがyと少なくとも同じくらい良い、という意味で使われている。不等号でいったら「≧」と似たような意味を持つ記号だ。だから、「xRy」は必ずしも「yよりxの方が良い」というのではなく、「xとyは同じくらい良い」という意味も含まれている。だとしたら、U(100)=…U(90)=…U(10)という書き方じゃなくて、U(100)R…U(90)R…U(10)という書き方にしてもいい。こういう風に表現すれば、推移律がそのまま適用できるということになるんじゃないだろうか? ↩