第3章 社会的厚生関数
前回のあらすじ
前回は集合的選択ルールというやつが出てきた。つまり、人々のいろんな選好パターンを放り込んだら社会として何を優先すればいいかというアウトプットを出してくれる関数のことだ。多数決なんかも集合的選択ルールの一種だけど、多数決がすべてじゃない。で、前回はそういう集合的選択ルールの一種として、パレート関係のもとづくものをあれこれ考察した。
パレート関係というのは、「その社会のすべての人がyよりxの方がマシだと考えているのなら、社会としてもyよりxがマシだという判断を下す」というもの。多数決に比べると、これはとても穏当な考え方だ。「みんなが中華料理の方がフランス料理よりマシだと言ったので今日は中華料理にしました」で文句を言う人はいなくても、「51%の人が中華料理に賛成して49%の人がフランス料理に賛成でした。だから今日は中華料理にしました」なら、たぶんその49%の人の中から文句が出るだろう。
しかし、こういう穏当なパレート関係でものごとを決めていこうとしてもうまくいかないことがある。たとえば、100人中99人が「中華の方がフランス料理よりまし」と考えていても、残り1人が「フランス料理の方が中華より良い」と考えていたら、パレート関係は使えなくなる。それで前回はパレート関係を拡張するために、カルドア基準やらシストフスキー原理やらを検討したけれど、それでもうまくいかないことがある……というのが結論だった。
社会的厚生関数
さて、今回は集合的選択ルールに少し制限を加えたものを扱う。それが社会的厚生関数という奴だ。
集合的選択ルールは、とにかく個人の選好から社会としての選好を導き出せればなんでもOKというものだった。社会的厚生関数の場合は、この社会としての選好が順序でなければならないという制約が加わる。つまり、社会としての選好に、反射性・完備性・推移性が備わっているというものだ。
本章では、この社会的厚生関数に関してある常識的な条件をつけると、どうしても独裁者が発生してしまうという定理の証明がひたすら行われる。有名なアローの一般可能性定理というやつだ。
アローの一般可能性定理
社会的厚生関数に対して次のような条件をつけてみる。どれも、別にどうってことない、誰でも「まあいいんじゃないの?」って思いそうな穏当で常識的な条件だ。
- 条件1:定義域の非限定性・・・個人の選好はどんなものでもエニシンOK
- 条件2:パレート原理・・・みんながyよりxの方が良いと思ってるのなら、社会としてもyよりxの方が良い
- 条件3:無関係選択肢からの独立性・・・社会としてxとyの良し悪しについて決めるときは、個々人がxとyについてどう考えてるかだけを考慮する(zとかのことは考えない)
- 条件4:非独裁制・・・あらゆる選択肢について決定権を持つような個人は存在しない
だけど、こういう4つの条件を満たすような社会的厚生関数は存在しない、というのがアローの一般可能性定理。証明プロセスを説明しようとしたらテキストを全部書き写すことになるので省略する。
概略だけ説明するとこんな感じ。
まず、「弱い決定力」という概念を導入する。Aさんがyよりもxを好んでいるとする。で、他の人がみんなxよりもyを好んでいるとする。つまり、Aさんだけがxとyについて他の人と真逆の選好を持っているときだ。そういうとき、Aさんに弱い決定力があるなら、社会としてもAさんの選好にしたがってyよりもxを優先しなければならない。みんながEDM聴いて踊り狂いたいときにAさんがアニソン聴きたかったらアニソン流さなきゃならないみたいなこと。
で、ある選択肢対についてそういう弱い決定力をもつ人がいるとしたら、さっきの4つの条件を満たすような社会的厚生関数は存在しない。つまり、Aさんは独裁者になってしまう。なぜかというと、x,yについてだけ持っていた弱い決定力が、結果的に他の選択肢対にも波及してしまうからだ。証明のさわりのところだけ紹介する。
仮定
- Aさんが、EDMではなくアニソンを流すことについて弱い決定力をもつとする
- 選択肢には、EDM、アニソン、昭和歌謡の3つがあるとする
- Aさんの選好順序はアニソン>EDMかつEDM>昭和歌謡 とする
- 他の人たちの選好順序はEDM>アニソンかつEDM>昭和歌謡 とする
- (ここで、他の人たちがアニソンと昭和歌謡の関係について選好関係を示してないことに注意)
証明(のさわり)
- AさんはEDMとアニソンについて弱い決定力をもつので、EDMと比べたらアニソンを流すべきということに決定(アニソン>EDM)
- 一方、Aさんも他の人たちもEDM>昭和歌謡という点では同じなので、パレート原理より、昭和歌謡と比べたらEDMを流すべきことに決定(EDM>昭和歌謡)
- 社会的厚生関数には推移性が成り立つという大前提があるので、アニソン>EDMかつEDM>昭和歌謡という関係から、昭和歌謡と比べたらアニソンを流すべきことに決定(アニソン>昭和歌謡)
- ところで、他の人たちはアニソンと昭和歌謡の関係について選好順序を示していなかった。一方で、Aさんはアニソン>昭和歌謡という選好順序を持っていて1、その意見がそのまま通ってしまった形になる。ということは、他の人たちがアニソンと昭和歌謡の関係についてどう思ってるかが全く考慮されずに、Aさんの考えだけを考慮してアニソン>昭和歌謡に決まってしまったことになる。ということは、Aさんはアニソンと昭和歌謡について決定力を持っているということだ2。あれ? Aさんは最初、アニソンとEDMについてだけ弱い決定力を持っているはずだったのに、いつの間にかアニソンと昭和歌謡についても決定力を持ってしまっているじゃないか。
こんな風に、Aさんの弱い決定力の範囲がどんどん拡大していってしまうのだ。そして、条件1~3を仮定すると、「ある特定の1組の選択肢対x,yについてだけ弱い決定力を持つ個人」は必ず存在することになる(証明略)。つまりAさんみたいな人は必ず存在する。結果的に、Aさんという独裁者が爆誕することになる。
感想
この章は証明を追うのがとても楽しい。穏当な仮定からスタートしたのにある個人の決定権がどんどん拡大していって、しまいには独裁者になってしまうプロセスを体験できる。ぷよぷよの連鎖がひたすらつづいて、ばよえーんが連呼されてるうちに気づいたら相手が死んでるみたいな感じ。
ただ、この証明の中では、個々人の選好パターンはこういうものだ、という風に仮定されている。つまり、ある特殊な選好パターンを個々人が持っているときに限り4つの条件を満たす社会的厚生関数は存在しない、ということ。だから別に「民主主義は不可能だ」みたいな極端なことを言っているわけではない。むしろ、「人々の選好がどんなものであっても必ず社会としての優先順位を完璧に決めてくれて、なおかつ独裁制とかの条件もパスしてくれる、そんな魔法の関数は存在しない」くらいの意味でとらえた方がいいんじゃないかなあ、と思う。で、そういうことなら、アローの定理がなくても大体の人は薄々わかってることなんじゃないだろうか。
証明プロセスを体験したいのなら、この本よりも、下記の本の方がわかりやすいかもしれない(内容は例によってほぼ忘れた)。