【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第3章 3.2 選好、制度、同一性

前説(ぼやき)

  • 3章あと50ページくらいあるんだよなあ……。もうちょい端折っていきたい。あんまり引用しすぎると著作権的にもアレだし。
  • がんばろう。

3.2 選好、制度、同一性

選択のニューロン機構における外在化された概念の役割

  • ここは、選好というのが制度なんだということを論じるための準備作業みたいな節。つまり、脳が何かを評価するとき、実は外部にある何かを参照しているということをここでは言おうとしている。
  • ここではGlimcher(2011)の選択モデルが批判的に検討される。これは、ものごとの評価を神経科学的な証拠に還元しようとするアプローチだ。しかし検討していくと、このアプローチでも結局は「文脈」が評価において重要な役割を果たすことになる。たとえば、目の前にリンゴがあっても、それを「食べ物」として見るか「デッサンの題材」として見るかで評価は変わってくる。これは、評価を神経科学的な証拠に還元しきれないことを意味している。

p132 評価には概念形成が必要なので還元主義はうまくいかない

このモデルは哲学的なパースペクティブからは非常に問題含みである。ここで重要なのは、将来の期待に対する期待が自己言及的であり、それが可能となるためには概念形成を必要とするという単純な事実である。(…)
(…)期待価値の概念が明示的に記号的表象を参照していることである(Glimcher 2011:403)。このことは、人間行動の説明において、フレーミング効果が発生することを意味している(…)。参照点は選択環境を表現する概念的構造に依存している。さらに、主観的価値と期待を媒介する際に、概念が含まれている(…)。これら両方のことを観察するだけで、グリムシャーのモデルが彼自身の主張とは反対に、還元主義たりえないことが立証される。

  • ものごとに対する評価は「概念」を通して行われる。たとえば「かわいい」という概念の無い人には女性のファッションを評価することができない。概念というのは個人が好き勝手に生み出すものではなく制度が無くては成り立たない。だから、制度を参照しないと評価の問題は理解できないということになる。

同一性と行動

  • ここでなぜ「同一性」が取り上げられるのか。それは「人間行動は制度化されている」ということを明らかにするためだ。そうすることで、次の「制度としての選好」に議論がつながっていく。
  • この節はそもそも何を狙いとして論述しているかわかりにくいので、先に結論から引用しよう。

p138-139 すべての人間行動は制度化されている

われわれが引き出す結論は、すべての人間行動は第2章の意味で制度化されているということである。諸個人の人格としての同一性は、必然的に外在化された媒介物とそれらの規範的構造に基づいているからである。あるいは簡潔にいうと、同一性は制度に根差している。自己同一化に関してすら、制度的に限定された行動を採用することによってのみ、行為者の同一性は確立できる。さらに、同一性という社会的存在論を確立するのは承認である。このことは、諸個人が表現的行為において、彼らの人格としての同一性を遂行していることをも含意している。

  • 因果関係がちょっと読み取りにくい。
    • 制度 → 同一性 → 人間行動  というよりも
    • 制度 → (同一性 ⇔ 人間行動) という感じなのかな? 
  • いずれにしても、人間行動は制度化されているということを言おうとしている。経済学だと各人は各人の効用関数にしたがってバラバラに効用最大化行動にいそしんでいるということになる。だけど、実はそんなバラバラではなく、人間行動は実は制度の中である程度ならされているのだよ、ということだろう。
  • 同一性と人間行動に何の関係があるのかというと、もし同一性がなかったら人間行動を理解できなくなってしまう、ということじゃないだろうか。たとえば多重人格者で、2分ごとに人格が次々入れ替わるような人がいたら、その人は自分の行動について何の計画も立てることができないし、他人からみたらその人がいったい何をしようとしているのか全く理解できないだろう。当然、効用関数なんてものも立てようが無くなるし、「選好」という概念も意味を成さなくなる。

 p137 個人の記憶は象徴的媒介物なしには作用しない

個人の記憶は、その個人の現在の状態に対して過去を表現する象徴的媒介物(symbolic media)の媒介なしには作用することができない。しかしながら、これらの象徴的媒介物それ自身は、個人的状態ではない。というのは、すでに述べたように、その意味は集団的に具体化されたプロセスによってのみ確立されうるからである。したがって、象徴的媒介物は外的事実であり、記憶の状態の原因なのである。たとえば、性的同一性を変化させる個人のことを考えてみよう。彼女は、自分が以前は男性であったことを記憶しているが、この「男性」という記述は、男性性への言及が可能な社会的カテゴリへの言及なしには確立することができない。

  • つまり、「わたし、前は男だったの」と主張する人は、「前は男子校に通ってた」とか「スカートをはいてなかった」とか「女湯に入ったことがなかった」とか「○月△日に性転換手術を受けた」とか、社会的カテゴリ(男子校、スカート、女湯、性転換手術)に言及しなければならない。
  • このように、「わたしは女だ」「わたしは男だった」のような同一性は、社会的カテゴリに言及しないと確立できない。そして、そうした社会的カテゴリというのは制度として定まっているものだ。
  • こうして、先に引用した「すべての人間行動は制度化されている」という話につながっていくわけだ。

制度としての選好

p139 選好は制度である

顕示選好アプローチにおいては、選好は観察された行動の数学的記述にすぎず、この観察された行動を超えたいかなる追加的な存在論的地位をも付与されえない。行動を制度的に限定されたものとみなすならば、選好は、それが個人を定義する限りで、行動における規範的な外的規則性にすぎない。したがって、選好は制度である。

  • このように、いきなり結論が出る。前のセクションで人間行動は制度的に限定されたものであることは立証されている。一方、経済学における顕示選好アプローチというのは、個人の内面に言及することなく、その人の消費行動だけを観察して選好を導き出す。つまり、顕示選好アプローチにおいて、選好とは行動の一種だ。だから、選好も制度的に限定されたものであるということになる。
  • これでもう結論は出てしまったのだけど、もうちょっと話題が展開されている。たとえば行動経済学との関連性。

p141-142 行動経済学の観点でも選好は制度であるといえる

選好が制度であるというアイディアは、さらに行動経済学と実験経済学の証拠によっても支持することができる。
第一に、選好は選択過程において所与のものではなくて、自分自身の観察された選択から発生するものである。(…)このことは、諸個人が恣意的な選好決定要因から出発するが、後から、彼らの選択における整合性を維持しようと努力することを意味している。(…)このことによる興味深い既決の一つは、価格は、個人の評価の外的アンカーとして作用する限り、諸個人の価値に直接的なインパクトを及ぼすということである(…)
第二に、諸個人はつねに財と財の概念を消費しているということである(…)。この現象には二つの解釈が可能である。一つは、人々は、たとえば高級車や映画鑑賞を楽しむときのように、物事のアイディアを消費しているという、より控えめな主張である。われわれが採用する第二の解釈は、接地した認知の理論に基づくものであり、消費という行為はすべて、「知覚的シンボル」を消費する行為だというものである(…)
たとえば、美味しいリンゴを見て、食べるという意思決定をするならば、これは現実の消費に埋め込まれた概念的消費である。ここでのわれわれの物理的行為は、単なるリンゴの対象としての表象ではなく、過去の消費活動を反映した知覚表象に埋め込まれているからである。したがって、われわれは消費行為の表象を消費しているのである(…)

  • 一番目で言おうとしているのは、たとえば普段まじめな本ばかり買ってる人が、すごく表紙の気になるエロ本をたまたま見かけてどうしても欲しくなり、でも(店員になんと思われるか……)みたいなくだらないことを考えて踏ん切りがつかないというようなことかな。あるいは、これまで週刊少年ジャンプを毎週買ってた人が、急に漫画ゴラクを買おうとするとなんか緊張するとか。つまり、選好というのはその人の自由ではないということだ。
  • 二番目はイメージがつきにくいんだけど。リンゴだとわかりにくいから(この本は全体的に例が退屈でわかりにくい)、「カップアイスの蓋」を例に考えてみる。カップアイスの、アイス本体と、蓋についたアイスは、どっちも同じアイスだ。だけど、蓋についたアイスの方がおいしいとか言う人はいる。それはたぶん、蓋についたアイスを見て「ラッキー、ここにもアイスついてたぜ」と喜んでぺろぺろなめた経験が記憶されていて、その「ラッキー」という記憶こみでアイスを知覚表象しているからだ。だから、彼らは「カップアイスの蓋」という概念を消費しているのだといえる。
  • このセクションには他にもいろいろ話題があるけど、きりが無いので、最後に倫理的消費のところだけ検討する。

p148 非倫理的消費なんてものはない。

すべての消費は倫理的に基礎づけられている。なぜなら消費者倫理は、社会的ネットワーク市場における外部性を内部化するメカニズムだからである。たとえば、多くの社会では、顕示的消費に対する倫理的制約が存在しており、富を大っぴらに明らかにすることを制限している。(…)
選好は制度なので、社会は、適切な制度変化を支配する規範を確立するような方向に進化する。したがって消費者倫理は、近年の消費に関する健康考慮の急激な高まりのような現象――それは最先進国社会のいける「禁煙」革命をもたらした――をも含むのである。消費者倫理のもう一つの重要な側面は、味覚の洗練にも関連している。すなわち、食の専門家(connoisseur)の倫理である。(…)
ヘーゲル的観点では、個人の合理性は本質的に規範的であり社会的なので、経済倫理は経済理論の不可欠な部分である。このとき、「非倫理的な」消費というものはなく、個人的選好の社会以前的な集合の中に、厚生の社会的評価を基礎づける方法も存在しない。

  • さて、選好が制度的に制約されたものなのだとしたら、制度が進化していくことで、選好は倫理的なものとなっていく。だから、消費は倫理的なものになるし、非倫理的な消費はありえないということになる。
  • たとえば今の日本においてコカインは違法だ。だから合理的な人であればコカインを選好し、消費するということはありえない。その意味で、非倫理的な消費はありえない。ただ、非合理的な人は当然いるので、そういう人たちは闇ルートでコカインを手に入れたしなむだろう。ここではあくまで、「その社会における合理的な人にとっては」という議論をしているのだと思う。
  • フェアトレードとかエシカルファッションとかの文脈で考えると、倫理的消費をするかどうかは個人の自由だということになる。だから、一見、フェアトレードでない商品を消費するという意味での非倫理的消費はありうるように思う。だけど、それはたぶん、制度が十分に進化していないということなんじゃないだろうか。つまり、外部性が十分に内部化されてないということだ。制度が十分に進化して、フェアトレードでない商品を消費することが、コカインを消費することと同じくらいありえないことになったとしたら、合理的な人はみなフェアトレード商品を消費する。したがって、非倫理的消費はやはりありえないことになる。
  • 倫理的消費に関する文献を読んでいっても、こういう風に制度との絡みで論じる議論はあまり無い気がする。それで、「エシカルファッションの衣服を購入する消費者の年代は?」とか「エシカルファッション消費を促すのに情報提供は有効か?」みたいなマーケティング調査のような研究が主流になっている。だけどそれは、選好を個人に紐付けられたものとして扱っているという点において、経済学的な内在的アプローチに制約されてしまっている。選好は社会的なものなのだから、むしろ個々の消費者が周りの人たちとエシカルファッションについて議論したことがあるかどうかを聞くとか、あるいは実際に議論させた上で購買意思を尋ねるとか、そういう他者とのインタラクションにおける消費のあり方について調査しないと、倫理的消費の本質を捉え損なうことになると思う。