【読書ノート】『資本主義と自由』第6章

これまで私が読んだ一般向けの経済学の本だと、フリードマンはだいたい悪者扱いされている。こないだちょっと読みかけて積ん読になってる『複雑系の経済学入門』という本だと、フリードマンの考え方はクソであって彼の出したさまざまな「予言」はことごとく外れているから全くのトンチキとしか言いようがないぜファックみたいなことが書かれている。最近だと、フリードマン新自由主義の親玉だからさあ……みたいなのもたまに聞く(新自由主義ってなんだろう?)。でも、前に読んだヒースの本はフリードマンの議論を一部下敷きにしているのだけど、そこで紹介されているものを読む限り、それなりに明快で説得的な議論をしているように思えた。

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もしかして食わず嫌いだったのかなあ、と思って『資本主義と自由』を読み始めたら、すごく面白い。ようするに、政府が人々のやっていることに介入して状況を良くしようとするとかえってダメにしてしまうことが多いから、政府介入はもっと制限すべきだみたいな話。それも、単に市場原理主義的にただ政府介入はやめろという抽象的な主張を繰り返すのではなくて、とても論理的かつ丁寧に自分の主張を裏づけている。

たとえば、公園は外部効果があるから政府が介入しないとうまく維持されないと思われがちだけど、必ずしもそうではない。都市にある公園の場合は周辺にたくさん人がいるから誰がその恩恵を被っているか特定できないし排除もできないので政府が介入するのは妥当だ。だけど都市からずっと遠いところにある国立公園みたいのだと誰が恩恵を被っているかを特定できる(つまり、実際にわざわざ車とかで来てくれる人たちだ)。だから彼らから入園料を取ればいいし、なんだったら民間企業が運営すればいい。政府が介入することには何の正当性もない。これはすごくわかりやすい理屈だし、しかも意外性があって面白い。環境経済学の教科書なんかだと、外部性を持つ財の例として「公園」が挙げられるのが定番みたいだけど、フリードマンの議論によると、必ずしも公園は外部性を持つわけではないのだ。

ものごとをきちんと吟味せずになんでもかんでも政府に介入させてなんとかしようとすると大変な非効率が発生するだけでなく、人々の自由まで奪われてしまうのだよ、ということをこの本の中でフリードマンは主張している。その一方で、自由至上主義ということでもなくて、不平等を是正するための方策もちゃんと考えている(所得の再分配ということではなく、市場の機能をもっとうまくいかした方策)。なんだ、すごくまともな人じゃん。フリードマンがこういう人だなんて、誰も教えてくれなかったよ。

まだ7章までしか読んでないのだけど、6章の教育に関する話が面白かったので、ちょっとまとめてみます。

第6章「教育における政府の役割」

教育への政府の介入に根拠があるとしたら、それは次の2つだ。

  1. 実質的な外部効果が存在すること
  2. 子どもなどの責任能力のない人に対する温情的な配慮

だけど、教育とひとくちに言っても「良識ある市民になるための基礎教育」と「職業訓練や専門職教育」ではぜんぜんちがう。これらに本当に政府が介入するべきなのか、ちゃんと考えてみよう。

基礎教育

「良識ある市民になるための基礎教育」には外部効果がある。良識のない有象無象がうようよしてる社会なんて住めたものじゃないだろう。だから、基礎教育は教育を受けた人だけではなく、社会全体にとって利益をもたらすものだ。だけどそれだけに、具体的に誰がどれくらいの利益を受け取ったのかを特定するのは難しく、利益を受け取った人にその分の料金を請求したりはできない。都市部の公園と同じで、外部効果があるというわけだ。

外部効果があるわけだから、基礎教育は義務にした方がいいだろう。どの家庭もそのための費用を払えるのなら、親たちに教育費を払ってもらえばいい。でもそういうわけに行かない困窮家庭もある。だからそういう家庭向きの補助金が必要になってくる。その点で、政府の介入は確かに必要だ。だけど、だからといって政府が学校を運営すること、つまり教育産業の大部分を国営・公営にするのはおかしい。そんなの正当化できる理由はどこにもない。

政府は教育バウチャーを発行すればいいのだよ。教育機関にそのバウチャーを持って行けば、政府がその券面額を払ってくれる。親はその券面額にプラスしてお金を支払い、子どもをもっと良い学校に入れることもできる。お金がなくても券面額だけでそこそこの学校に入れることができる。つまり、最低限の教育を担保しつつ、親たちは子どもの通う学校を自由に選べるようになるのだ。

いや、今だってお金を払えば好きな学校に入れられるでしょう? と思うだろうか。でも、バウチャーがなければ、親は好きな学校に入れるためのお金をぜんぶ自分で工面しなければならなくなる。それはハードルが高い。だから、子どもの学校教育に投資するのは親ではなく政府になってしまう。で、政府は金を出す以上、使い道も決める。で、結果的に、なんだかよくわからないものにお金が使われることになってしまう。それに対して一部の人が「おかしいぞ!」と声を上げても、過半数の人を動かさないとそういう声は通らない。バウチャー制を導入すれば、親たちは自分が納得することにお金を出せるので、結果的に国全体での学校教育への支出総額は増える可能性が高い。

大学教育

高等教育に政府が補助金を出すことも基礎教育と同様に正当化できる。高等教育は「若者をよき市民またよき社会の指導者に育てる手段」だからだ。

政府が運営する学校に通う場合にしかその補助金の恩恵を受けられない、というのはおかしなことだ。そんなことを正当化できる理屈はない。補助金は学校にではなく個人(つまり学生)に払うべきだ。個人はそのお金で自分の行きたい学校を自由に選べる。そうすれば、学生を獲得するために学校間の競争が激化して、各校の資源は有効活用されるようになるだろう。

職業教育・専門職教育

職業教育や専門職教育には外部効果はない。これはいわば、人的資本への投資であって、機械や建物など物的資本への投資と基本的に同じなのだ。

だから各人は、自分に投資するための資金を調達することが必要になる。親からもらうとか、市場でなんとか調達するとかだ。

人的資本のリターンは物的資本のリターンよりもはるかに高い。それなのに投資が進んでないのは、資本市場が不完全だからだ。つまり、資金調達がすごく難しいのだ。たとえば物的資本の場合、投資しても約束通りのリターンが出てこなかったら差し押さえという手が使える。でも、人的資本でそれをやったら人を奴隷にすることになってしまって、そんなの今の時代やれるわけがない。だから投資する側も二の足を踏んでしまう。あと、投資のリスクもでかい。その人の能力や努力次第では、さんざん投資したのにぜんぜんリターンが出せないということもある。

じゃあどうするかというと、株式会社方式でやればいい。で、投資する人はいろんな人相手にポートフォリオを組んで、失敗した投資の穴埋めができるようにすればいいのだ。今のところこういう仕組みはないけど、興味があるなら事業を立ち上げてみたらどうだね。たぶん早期参入者の方が利益はでかいよ。なぜなら、有望な投資対象を思いのままに選別することができるから。

で、こうやって人的資本に関する資本市場をきちんと整備してあげれば、資本は広く活用されるようになり、機会均等が実現し、所得と富の不平等は減り、人的資源の活用が進むだろう。所得の直接的な再配分は対症療法に過ぎない。

感想

教育の外部性から政府介入の根拠やその限界を明確にしようとするとてもわかりやすい議論。単に「ぜんぶ市場に任せてしまえばいいんだ」というような雑な話ではなくて、バウチャー制によって最低限の基礎教育と学校選択の自由の両方を実現しようというとてもバランスのとれた提案だと思う。これのどこが新自由主義なの? (というか新自由主義ってなに)

補助金は学校ではなく個人に対して行え、というのはすごく納得いく。今の日本の大学教育の場合、文科省がわけのわかんない補助事業を立ち上げて、そのたびに大学が意味不明のポンチ絵満載の申請書をつくって提出して、なんとか補助金をゲットしたらあとはアリバイ作りのために科目数とか教員数とか学生数とかイベント数とかの数字をせっせと達成していく、というむなしい光景が繰り返されているように思う(私も以前そういうクソみたいなプロジェクトで働いていたことがあって毎日暗澹たる気持ちで過ごしていた。補助金頼みのプロジェクトだから天下りも横行してたなあ)。文科省向けの言い訳づくりで教育内容を変えるなんてあほらしいので、補助金を受け取った個人が自由に学校を選べるようにした方が良い。その方が学生にとって意味ある教育ができると思う。

あと、こういうやり方ならとにかく学生にとって魅力ある教育ができれば学校として成り立つことになるわけだから、人文系にもチャンスが出てくるんじゃないだろうか。もちろん、ちゃんと教育内容を魅力的なものに変えていく努力は必要になってくるけれど、今みたいに国が研究や教育内容に口出ししてくる現状よりはずっと生き残りやすくなると思う。