センの『集合的選択と社会的厚生』の勉強がちょっと滞っている。野暮用ができてしまったというのもあるけど、7章がちょっと難しくて詰まってる(論理展開が難しいというより、新しく出てくる概念が現実世界でどういう意味を持ってるのか飲み込むのに手間取ってる)。
難しいけど、やっぱりすごく良い本だと思う。「社会で何かを決める」ということに対する見通しがずいぶん良くなった。6章まで読んだ感じだと、この本の大事な含意は「社会で何かを決めるとき、絶対に正しい基準なんてものは無いのだよ」ということなんじゃないかなあ、と理解している。これは別に民主主義は不可能だ、みたいな話ではない。むしろ逆で、「絶対に正しい基準なんてものは無い、ということを自覚するところから民主主義は始まるのだよ」ということだ。
このように、形式的には不可能性定理という結果に過ぎないものが、選好の規範的位置や、自由の要求の理解や、推論や行動の規範の再検討の必要性などを問うことを含め、様々な公共的推論への含意を持ちうる。 セン(2011)『正義のアイデア』p176
パレート的リベラルの不可能性は、アローのもっと大きな不可能性定理と同様に、それまで注目されてこなかった問題に焦点を合わせることによって、公共的討議に貢献したと見るべきである。(...)それは、問題を明らかにし、それについて公共的討議を促進しようとするという社会的選択理論の主要な利用法の一つである。 セン(前掲書) p448
画期的な社会的厚生関数に人々の選好をポイポイ放り込めばみんなが納得できる最強の社会的決定が全自動でなされる……ということはない。そうではなくて、さまざまな社会的厚生関数にそれぞれ問題があることを知ることで、「そもそもこういう選好って社会的にアウトじゃないの?」とか「個人の自由の範囲ってどの範囲にとどめるべきなのかなあ」とかいろいろ議論すべきところが見えてくる、ということが大事なのだ。全自動で勝手に決めてくれたら楽だけど、そもそも民主主義ってめんどくさいものなのだ。
元ネタの本は読んだことないけど、無意識データ民主主義とかいう考え方があるらしい。ようするに、センサーやら監視カメラやらから人々のいろんな無意識データをゲットして、それを何らかのアルゴリズムにポイポイ放り込むと、最適な社会的決定が導き出される……とかいう壮大なお話のようだ。
センが『集合的選択と社会的厚生』のなかで延々と論証しているのは、民主主義社会の常識的な特徴をいくつか削らない限り、そうした「何らかのアルゴリズム」は存在しないということだ1。むりやり社会的決定を導き出そうとすると、独裁者が誕生してしまったり、人々の最低限の自由が侵されてしまったりする。
また、もっと問題なのは、そうした高級なアルゴリズムを使うと社会的決定のプロセスがブラックボックスになってしまうことだろう。専門家はそのアルゴリズムがどんなものなのかわかるかもしれないけれど、多くの一般人にはちんぷんかんぷんだ。となると、そのアルゴリズムで導かれた結果が「真の民意」なのだと多くの人々は誤解することになってしまう。だけど、「真の民意」を全自動で導き出すのは不可能なのだ。
一方、多数決もまた一種のアルゴリズムだと言えるけれど、とても単純でわかりやすいアルゴリズムだ。それだけに、多数決のどこに問題があるのか、というのは多くの人がなんとなく理解している。たとえばAにするかBにするかを多数決で決めるとき、Aに51票入り、Bに49票入ったとする。多数決に従えばAに決定ということになる。でも、それで納得いかない人はたくさんいるだろう。「たった2票なんて誤差でしょ?」とか「49人を切り捨てる決定のどこが民主主義だ?」とか。おそらく、Bに票を入れた人だけでなく、Aに入れた人のなかにもそうしたモヤモヤを感じる人がいるだろう。
そうしたモヤモヤは、センのいう「公共的討議」を進める上での良い動機になると思う。それは、リベラルパラドックスを知った人がモヤモヤして「選好とは?」とか「自由とは?」といったことを考える動機を持つのと同じことだ。
センは『チャタレイ夫人の恋人』の例を出して、リベラルパラドックスをなるべくわかりやすく説明している。センがわかりやすさを追求するのは、わかりやすければわかりやすいほど、モヤモヤする人を増やすことができるからだろう。もしこれが何ページにもわたって証明が必要な定理だったら、学術的な議論としては面白くても、公共的討議の促進にはほとんど役に立たないだろう。
そして、リベラルパラドックスよりもさらにわかりやすいのが多数決の問題だ。多くの人は学校や友だちづきあい、職場などで多数決を実際に体験している。で、自分にとって好都合な結果になったこともあるだろうし、よくない結果になって悔しい思いを味わったこともあるだろう。そうした悔しい思いは多数決の問題点を考える良い動機になるし、さらには、「社会で何かを決めること」の難しさを考えるきっかけにもなる。ようするに、多数決には民主主義社会を担う「市民」を育てる上での教育的意義があるということだ。
多数決には問題がある。だから多数決よりももっと素晴らしい社会的決定方法を……という風に考える人は多いのだと思う。でも、多数決をするからといって、必ずしも多数決だけで社会的決定が確定するわけではない。たとえば友だち同士で旅行に行くとき、多数決で海に行くことが決まったとしても、具体的にどんな旅程を組むかは話し合いで決めるだろう。海派と山派の票数がかなり拮抗していたら、旅行の雰囲気が悪くならないように、1日だけ山に行くのを予定に入れるという妥協が為されるかもしれない。ここで何らかの頭の良い感じの「アルゴリズム」を持ち出したりしたら、アルゴリズム様の導き出した結論にみんなおとなしく従って、山派に全く妥協することなくひたすら海で遊びほうけるという旅程が組まれるかもしれない。すると、アルゴリズム様に従って最適な決定をしているはずなのに、なぜかみんな機嫌が悪くて、楽しみだった旅行はみんなの黒歴史になってしまった……ということもありうるだろう。
そういうことも含めてアルゴリズム様は柔軟に考えてくださるのかもしれないけれど、「アルゴリズム様には限界がある」というのが社会的選択理論の教えなのだ。だからむしろ、多数決という原始的なアルゴリズムを使った方が、アルゴリズム様の限界に人々が気づきやすくなるという点では適切だろう2。そしてアルゴリズム様の限界に気づくところから民主主義は始まる……というのが社会的選択理論の教えなのだ。
- 本当は元ネタの本を読んだ方が良いのだろうけれど、(まあ、そんなアルゴリズムは存在しないって証明されてしまってるんだし、読む必要もないかなあ……)と思ってまだ読んでない。↩
- 前にAHPという意思決定支援ツールを使ってグループの意思決定をするのは問題含みだよ、ということを記事にまとめたけど、社会的決定のプロセスをブラックボックスにしてしまうという点でも問題含みだと思う。AHPの計算自体は簡単だけど、普通の人はわざわざAHPのアルゴリズムを勉強しようとはしないだろう。AHPみたいな簡単なアルゴリズムでもブラックボックス問題が発生してしまうことを考えると、グループでの意思決定支援に役立つアルゴリズムって案外少ないのかもしれない。↩