【用語集】先験主義と実現ベースの比較

 「気候変動問題を解決するには資本主義を捨てなければならない」と主張する本が何十万部も売れている。もちろん他の経済学者からは厳しい批判が出た。しかし、そうした批判の声はあまりに地味なせいか、人々の耳にはほとんど届いていないみたいだ(以下の柿埜氏と岩田氏の本は、齋藤本を真正面から否定している)。

 なんで『人新世の資本論』は売れてしまうのか? たぶんそれは、現状に対する人々の強い不満を反映したものだ。資本主義で得をしているのは一部の勝ち組ばかりで、多くの人々は厳しい生活を強いられているという認識が広く共有されているのだろう。

 実際には、資本主義のおかげですべての人は豊かになった。100年前の社会に比べれば子どもの死亡率は低いし、先進国で飢える人はほとんどいない。ピンカーの『21世紀の啓蒙』を読めばそんなグラフがたくさん出てくる。だけどいくらデータを見せられても、実際に格差はあるし、コロナ禍とかインフレとか、何かあるたびに、自分たちは政府に見捨てられているという気持ちになる。だからこそ、そんな憎たらしい資本主義そのものを否定してくれるこの本が救いの書のように思えてしまうのだ。

 資本主義のメリットを冷静に伝えようとする議論よりも、「今の社会を丸ごと作り替えることで、不正義のない新しい社会を実現しよう」というラジカルな主張の方が人々に届きやすい。「AIを使って民主主義を根本から作り替えよう」という『22世紀の民主主義』が売れているのもたぶん同じ理由だと思う。社会に何か問題があるのなら、今の社会をチャラにして、まったく新しいものにしてしまえばいい。乱暴な発想だけど、だからこそそこに人々は魅力を感じるのだ。

 でも、そうした「今の社会をチャラにして全く新しい社会を作り直そう」式の発想では現実を改善する上であまり役に立たない。そう主張するのがアマルティア・センだ。

 社会にとっての公正な制度を探求する取り組みを、センは「先験的制度尊重主義(先験主義)」と呼ぶ。これは、誰から見ても非の打ち所のない「完全な正義」を構想するもので、代表的な論者としては、ホッブズ、ルソー、カント、ロールズノージックらが挙げられる。先ほど挙げた『人新世の資本論』と『22世紀の民主主義』も、既存の制度の不公正さを克服した新しい制度を提案しているという意味ではこのカテゴリーに入るだろう。

 先験主義の問題は、制度の完全性にばかり目を向けて、実際の社会を直接見ようとしないことだ。そのために、「実現可能性の問題」と「過剰性の問題」が生じることになる。

 「実現可能性の問題」とは、人々がその制度に合意するかどうかわからないということだ。たとえば『人新世~』であれば、資本主義で利益を得ている人々がどうして資本主義を放棄しようという提案に合意できるのかというプロセスを全く示していない。その点では『22世紀の民主主義』も同じだ(「22世紀」という遠い未来のことだと断っておくことで逃げているのだと思う)。

 「非の打ちどころのない完璧な制度を提案すれば、みんな合意してくれるのでは?」と思われるかもしれない。しかしそんなことはない。なぜなら、それぞれの制度がベースにしている倫理的立場には一長一短あるからだ。センはそのことを「三人の子どもと一本の笛」という寓話で例証している。

 一本の笛をめぐって、三人の子供が言い争っているとする。あなたなら、次の三人のうち、だれに笛をあげるのが正義にかなっていると思うだろう?

  • アン:「この中ではあたしが一番笛が上手だからあたしによこしなよ。そうしたら、みんなあたしの笛の音色を聴いてハッピーになれるでしょ?」(功利主義
  • ボブ:「でも、俺んち貧乏だもん。おもちゃなんかひとつも持ってないもん。だから笛ちょうだいよ。ぶんぶん振り回して遊ぶから」(平等主義)
  • カーラ:「あのー。その笛、わたしがつくったんですけどお。わたしの所有権を侵害するお前らには笛はあげません」(リバタリアン

 さて、彼らの主張のどれが正しいか? 決められないだろう。誰の言い分にもそれぞれ一理あるからだ。このように100パーセント正しい立場なんて、世の中にはないのだ。「私的所有権をなくして全部コモンにしてしまった定常型社会」とか「人々の無意識をデータ化してAIに意思決定を任せた政治猫社会」とかを正しい制度だと思っている人がいたとしても、「そんな制度はクソだ」と思う人も絶対出てくるのだ。だから、「正しいからみんな合意してくれる」ということはない。そもそも合意は妥協の産物なのだ。「正しいからみんな合意してくれる」というのはあまりにナイーブな発想だろう。

 次に、「過剰性の問題」もある。つまり、そもそも制度の完全性は必要なのかということだ。たとえば、気候変動を克服するには本当に資本主義を捨てる必要があるのだろうか? 今の資本主義でもまだまだやれることはあるのでは? 環境経済学者のノードハウスは次のように述べている。

問題は過度の経済成長にあるということだろうか。人類はゼロ成長をめざすべきなのだろうか。今日このような結論を下す人はほとんどいない。ミルクが痛んでいるからと言って、すべての食料品を捨ててしまうようなものだ。とるべき対応は、気候変動に関連する負の経済外部性を是正し、市場の失敗を修復することだ。傷んだミルクを捨て、不良品の冷蔵庫を修理するのである。 『気候カジノ』p120

 制度の完全性ばかりに目を向けることは、まさに、ミルクが痛んでいるからと言ってすべての食料品を捨ててしまうようなものなのだ。

 制度の完全性ばかりに捕らわれた先験主義に対し、センが擁護するのが、「実現ベースの比較」という立場だ。これは、明白な不公正を取り除き、よりよい社会を実現することに関心を持つアプローチであり、アダム・スミスベンサムマルクス、ミルらが代表的論者だとされている。

 ここで面白いのは、マルクスも実現ベースの比較論者に入れられていることだ。先ほどの『人新世の~』の著者はマルクス学者であるのだが、実はマルクス自身は先験主義ではない。センの『正義のアイデア』p59にある注には次のようにある。

マルクスは、資本主義的労働制度は搾取的であると論じる一方、奴隷制度に比べて、賃金労働制がいかに大きな改善であるかを指摘するのに熱心であった。(…)マルクスの正義の分析は、マルクス批評家が多く論じてきたように、「共産主義の究極の段階」だけに夢中になるのではなく、それをはるかに越えていたのである。

 「奴隷制も賃金労働制も搾取的であるのは同じだから奴隷制も賃金労働制もやめてしまえ」なんて極論はマルクスの立場ではない。「それでも賃金労働制の方がマシだよね」ときちんと認めるのがマルクスなのだ。これは、「気候変動問題を解決するには資本主義を捨てなければならない」という極端な立場とは全く異なる。

 さて、先験主義ではなく実現ベースの比較で行くのなら、何をもって「より良い社会」と判断するべきかという基準が必要になってくる。つまり、「Aという状態よりもBという状態の方がマシだ」という比較をするためには、比較の基準が必要になってくるのだ。

 「より良い社会」かどうかを判断するには、その社会に生きる人々が実際にどんな風に暮らしているかをみないとわからない。ところで、人々の暮らしの良さというのは、効用や幸福だけで評価できるものではない。たとえば、ヤクでバッチリきまっていてトロンと幸せそうな顔の人がいたとしても、その人の暮らし向きが良いとはとても言えないだろう。あるいは、子供のころから何一つ苦労を知らずに生きてきた良家の子女で、でも仕事も結婚相手も自分で自由に選べないという人がいるとしたら、それもやはり良い暮らしとは言いがたい。

 だからその人の「自由」も評価するべきだ。自分で自由に選択して、その選択に対する責任を自分で負う。そういう人の方が、『マトリックス』や『トゥルーマンショー』みたいな幸せな幻想世界で生きている人たちよりも、良い人生を生きているといえるだろう。

 そういう、人の自由さを評価する尺度が「ケイパビリティ」だ。ケイパビリティが何かについてはまた別の記事でまとめます。ともかく、実現ベースの比較では、ケイパビリティを使って社会の良し悪しを評価していくのだ。そうすることで、地に足の着いた相対的な正義を実現していくための道筋を見極めることができるのだ。

メモ

 前に『正義のアイデア』のまとめ記事を作っていたので、そこからいくらかコピペした。

 先験主義だと何がまずいのかって、意外と具体例は多くない。『人新世』とか『22世紀の』の主張がへんだと思っている人からすればこれらは良い例のように思えるだろうけれど、そうでない人からすれば「先験主義で何がダメなの?」とピンとこないかもしれない。

 共産主義を例に挙げるというのもひとつの手だけど、ちょっと古すぎるんだよな。古すぎると何が問題かというと、「新しいやり方ならうまくいくんじゃないか」という期待を感じさせてしまうことだ。それに対してセンの言いたいことは、古かろうと新しかろうと、制度をそっくり作り直すようなラジカルな提案は有害である、というものなのだ。そこをわかりやすく伝えるのは案外難しい。