第7章 個人間での集計と比較可能性
ああ、やっと7章読み終わった。けっきょく1ヶ月近くかかったわけか。しかも、あちこちわかんないところが残ってる。「序数型」ってけっきょくなんなんだい。「Liの各要素がLiの他のすべての要素の正の単調変換であり、かつLiの任意の要素のすべての正の線形変換がLiに属するとき、個人的厚生は序数型である」っつったって、定義を読んでもぜんぜんイメージできないよ。え? この後半が成り立つんなら、結局すべての要素は正の線形変換でつくれるんじゃないの? だからこれはけっきょくは基数型と同じことなんじゃないの? なのになんで前半は「単調変換」なの? 意味不明だぜ私の脳が。
分量自体もこれまでの章に比べて多いし、supとかinfとか凸集合とかの数学概念も出てくるし、話が抽象的すぎていったい何の話をしているのかよくわからないところがひたすらつづく。数学が得意でない私にとってはホロウナイトの苦痛の道のようにひたすら苦痛なマゾステージだった。この本に昨年あたりチャレンジしたときもこの7章が意味不明で挫折したのだった。
でも、この「比較可能性」の話は『正義のアイデア』でもちょこちょこ出てきた話題だ。大事なことを言っている気もするので、なんとか食らいついていかないと。
「*」付きの章を日本語に翻訳するのは私の脳では無理なので、無印章の方をまとめていきます。まとめ方には私の主観がたくさん入っているので、主観が邪魔なら本を買ってください。
7.1. 無関係選択肢からの独立性
さて、経済学では一般的に、効用は個人間で比較できないものだと考えている。たとえば同じ映画を見たとき、私の効用は4上がって、あなたの効用は10上がった、だからあなたの方が効用が6だけ余計に上がったのですねー、みたいなのは成り立たない。
なぜそう考えるかというと、比較できる根拠がないから。根拠レスな前提の上に学問を組み立てたらオカルトになってしまうので、効用は個人間で比較できないということにしておこう、ということだ。
経済学で大事な概念である「パレート最適」とか「パレート改善」というのは、こういう個人間比較を行うことなしに、社会のよい状態を決めるための概念だ。たとえば、ある映画を見て、私はそれをクソみたいな作品だと感じて効用が下がったとする。逆に、あなたはこれは素晴らしいと思い効用が上がったとする。個人間比較ができるのなら、これらのプラスとマイナスの効用を足し合わせて、全体としてプラスなのかマイナスなのかを確かめるとよい。全体としてプラスなのなら、私さんには悪いけど、全体としては良い結果だったということになるだろう。しかし、個人間比較はできないのだから、そういうプラスマイナスの足し合わせは不可能だ。一方、もしもこのとき、私はとくにこの映画を面白いと思わないけれど、効用がマイナスだとまでは思わなかったとする。すると、少なくとも私はマイナスでないのだから、状態は悪くなっていない。一方、あなたは状態が良くなっている。ということは、個人間比較をしなくても、全体として状態が良くなっていると判断できる。こういうのをパレート改善という。
いやあ、科学の営みを守ることができてよかったよかった、と言いたいところだけど、これは逃げに過ぎない。現実には、私がマイナスだけどあなたがプラスみたいな状況はいくらでもある。個人間比較から逃げると科学的には良いかもしれないけれど、けっきょくは現実に対してあんまり役立つことの言えないガラクタに成り果ててしまう。だからやっぱり個人間比較というのは大切なのだよ。だから個人間比較がどの程度できるのか、というのをこの章では見ていこう。
さて、個人間比較をあっけらかんとやってしまう立場のひとつに功利主義が挙げられる。「最大多数の最大幸福」という奴で、少々不幸な人がいても、それを補うだけの幸福が他の人たちにもたらされているのならそれは良いことなのだ、という考え方だ。とうぜん、功利主義はバッチリ個人間比較をしている。
功利主義は無関係選択肢からの独立性を満たさないと言われる。つまり、xとyのどちらを選ぶかを決めるのならxとyの比較だけで決めるべきなのに、yとzの比較もその決定に影響してしまう、ということだ。
何言ってるかわかんないよ、という人は具体的な数字で考えよう。
選択肢xの効用 | 選択肢yの効用 | 選択肢zの効用 | 選好順序 | |
---|---|---|---|---|
個人1 | 1 | 0.1 | 0 | x→y→z |
個人2 | 0.6 | 1 | 0 | y→x→z |
個人3 | 0.6 | 1 | 0 | y→x→z |
効用合計 | 2.2 | 2.1 | 0 | x→y→z |
功利主義だと、こういう風に効用をフランクに足し合わせてしまう。だから、「選択肢xが人々にもたらす効用の総和は1+0.6+0.6=2.2だね!」となる。で、そうやって選択肢ごとに効用の総和を求めていけば、x、y、zそれぞれの効用の総和も求まるので、社会全体としての選好順序はx→y→zとなる。
ここで個人2と個人3の選好順序が変わって、y→x→zではなく、y→x,zになったとする。つまり、xとzに序列がつかないで、どちらも同じくらい好ましい、ということだ。このとき、無関係選択肢からの独立性が保たれているのなら、xとyに関する社会的選好順序は変わらないはずだ。だけど、実際には次のように変わってしまう。だから功利主義は無関係選択肢からの独立性を満たしていないということだ。
選択肢xの効用 | 選択肢yの効用 | 選択肢zの効用 | 選好順序 | |
---|---|---|---|---|
個人1 | 1 | 0.1 | 0 | x→y→z |
個人2 | 0 | 1 | 0 | y→x, z |
個人3 | 0 | 1 | 0 | y→x, z |
効用合計 | 1 | 2.1 | 0 | y→x→z |
だけど、そもそも無関係選択肢からの独立性ってそんなに厳密に重視されるべきなのだろうか? その条件をちょっと緩めた方が、もっといろんな場面で役に立つ判断ができるのでは? この章ではそういう「ちょっと緩めてみたらどうだろう?」ということを考えていく。
7.2. 比較可能性、基数性、識別可能性
ある個人が基数的な効用を持つという仮定はそれなりに妥当性があるかもしれない。
だけど、その個人の「効用ものさし」が他の人とも同じかどうかはよくわからない。「超ハッピー」と「極絶望」の両極端しかいない人もいれば、もっと繊細な人もいるだろう。繊細な人がちょっと気分良くなることと、超絶望から超ハッピーになることを、どちらも同じ「幸せプラス1」とみなすのはちょっとへんだ。
7.3. フォンノイマン=モルゲンシュテルンの基数化をめぐって
フォンノイマン=モルゲンシュテルンは、くじを使って期待効用を基数的に表現できることを示した。この考え方にはいろいろ批判がある。なかでもアローは、「くじ」というギャンブルに対する個人の選好をもとに社会的選好を考えるなんていかがなものかねと批判している。
だけど、たとえばハーサニ君なんかは人々の倫理的選好を考えるときに一種のギャンブルを想定している。つまり、彼によると倫理的選好とは「もし人々が等確率で誰かの立場に身をおくとしたら同意するであろう判断」なのだ。だから、くじを使うからといってそこまで不謹慎なものではないのだよ。
また、アローによる批判は、基数化の仕方が恣意的じゃないかという趣旨だとも考えられる。なんだって恣意的に「くじ」なんてものを導入してるのだね? と。基数化の仕方はいくらでもあるじゃないか。
まあ、そりゃそうなのだけど、基数化の仕方が複数あるからといって社会的決定がオジャンになってしまうわけではない。その点は、「*」付きの章の方を読んでくれたまえ。d(B)という指標を導入すると、d(B)が0のときは確かにオジャンになってしまうのでパレート原理に頼らざるをえないのだけど、d(B)の値が大きくなれば社会的選好の順序がそれなりに一貫するようになってくる。じゃあd(B)ってなんだい、どうやって求めるんだい、と言われそうだけど、簡単にいえば、人々の間の「効用ものさし」の目盛りがどの程度そろっているかを示す指標です(たぶん)。
7.4. 部分比較可能性
いやあよくわかんねえや、具体例はないのかよ具体例。それじゃあはい具体例。
人々の効用を測るものさしを3つ用意してみよう。
まずはものさし1で測った場合。
選択肢xの効用 | 選択肢yの効用 | 選択肢zの効用 | |
---|---|---|---|
個人1 | 1 | 0.90 | 0 |
個人2 | 1 | 0.88 | 0 |
個人3 | 0 | 0.95 | 1 |
効用合計 | 2 | 2.73 | 1 |
このとき、社会全体としての選好順序はy→x→zとなる。
ここで、便宜上、ちょいとこの表の書き方を修正してみよう。
x-yの効用差 | y-zの効用差 | z-xの効用差 | |
---|---|---|---|
個人1 | 0.10 | 0.90 | -1.00 |
個人2 | 0.12 | 0.88 | -1.00 |
個人3 | -0.95 | -0.05 | 1.00 |
効用差合計 | -0.73 | 1.73 | -1.00 |
社会としての選好順序 | y→x | y→z | x→z |
これは書き方を変えただけでさっきの表と同じだ。だから、一番下の行の社会としての選好順序を整理すると、さっきと同じy→x→zとなる。
ここで、ものさし2で彼らの効用を測り直してみよう。ものさし2は、個人1と個人2のものさしの目盛りがもっと密になっている。具体的には、個人1と個人2について、効用差の値が2倍になる。また、個人3は逆にものさしの目盛りがすかすかになって、効用差の値が半分になる。
x-yの効用差 | y-zの効用差 | z-xの効用差 | |
---|---|---|---|
個人1 | 0.20 | 1.80 | -2.00 |
個人2 | 0.24 | 1.76 | -2.00 |
個人3 | -0.475 | -0.025 | 0.50 |
効用差合計 | -0.035 | 3.535 | -3.50 |
社会としての選好順序 | y→x | y→z | x→z |
一番下の行はさっきの表と何も変わってない。だから社会的選好順序もさっきと同じy→x→zとなる。
次はものさし3。ものさし3は、ものさし2とは逆に、個人1と個人2の効用差を半分にして、個人3の効用差を2倍にする。
x-yの効用差 | y-zの効用差 | z-xの効用差 | |
---|---|---|---|
個人1 | 0.05 | 0.45 | -0.50 |
個人2 | 0.06 | 0.44 | -0.50 |
個人3 | -1.90 | -0.10 | 2.00 |
効用差合計 | -1.79 | 0.79 | 1.00 |
社会としての選好順序 | y→x | y→z | z→x |
z-xの効用差だけが逆転している。
さて、こうやってものさしを3つ用意してみると、xとzの関係だけが定まらないことになる。つまり、ものさし1と2だとx→zだけど、ものさし3だとz→xだ。でも、それ以外の選好順序はどのものさしでも同じだ。つまり、どのものさしを使っても、xやzよりyの方が選好されている。だからyにすべし、と決めることができる。
こんな風に、みんなのものさしが厳密に同じでなくても、ある程度そろっていれば部分的に比較はできるのですよ。これが部分的比較可能性というやつ。ようするに、社会として何かものごとを決めたいとき、部分的比較可能性が成り立っていれば決められることもあるわけで、「あああみんなのものさしがちがうから個人間比較なんてできないよおおお!!!」なんて発狂して個人間比較をブン投げる必要はないのだ。
7.5. 序数型厚生の加算
さて、こういう風にものさしの目盛りを変換してやるやり方として、正の単調変換と、正の線形変換というのを考えよう。
効用が序数的であるとき、正の単調変換をしても正の線形変換をしても問題無い。というのは、序数的というのは、ようするに順番が決まっているということだから。単調変換だろうと線形変換だろうと順番は変わらない。
だけど、効用が基数的であるとき、正の単調変換をしてはいけない。たとえば個人1が次のような効用を持っているとしよう。
選択肢xの効用 | 選択肢yの効用 | 選択肢zの効用 | |
---|---|---|---|
個人1 | 1 | 2 | 3 |
個人1の効用が基数的だとすると、こうした1、2、3という数字自体に意味がある。つまり、この場合だと「yとxの効用差とzとyの効用差はどちらも同じ1です」と言える。で、これを正の線形変換するとこの「効用差が同じ」という関係は維持される。たとえば効用を2倍にしてみよう。
選択肢xの効用 | 選択肢yの効用 | 選択肢zの効用 | |
---|---|---|---|
個人1 | 2 | 4 | 6 |
このとき、yとxの効用差もzとyの効用差も同じ2だ。「効用差が同じ」という関係が維持されている。
だけど、これが正の線形変換じゃなくて、正の単調変換だと、「効用差が同じ」という関係が消滅してしまう。「線形」というのはグラフにしたら直線になるということ。一方、「単調」というのは、ようするにグラフにすると多少のペースの増減はあれ全体としては単調に大きくなるということ。たとえばy=x2なんかは線形変換ではないけど単調変換ではある。
ぐだぐだ言ってないで、じゃあ最初の効用の表を単調変換してみよう。とりあえず2乗してみる。
選択肢xの効用 | 選択肢yの効用 | 選択肢zの効用 | |
---|---|---|---|
個人1 | 1 | 4 | 9 |
このとき、yとxの効用差は3なのに、zとyの効用差は5になっている。ようするに、「効用差が同じ」というのが消えてしまっている。だから、効用が基数的なときは正の線形変換ならOKだけど正の単調変換をするとまずいということだ1。
で、逆にいうと、効用が序数的か基数的かというのは、こういう変換が認められるかどうかというので定義できるということになる。具体的には、正の単調変換が認められるのが序数的、正の線形変換しか認められないのが基数的だ、ということになる。
で、この考えをさらに発展させて、正の単調変換と正の線形変換の両方を半々ずつ認めたみたいな定義によって、厳密な序数性と厳密な基数性の中間の「序数型」というのを考えることができる。
……のだけど、わたしはこれが何なのかよくわかっていない。定義をそのまま持ってくるとこんな感じだ。「Liの各要素がLiの他のすべての要素の正の単調変換であり、かつLiの任意の要素のすべての正の線形変換がLiに属するとき、個人的厚生は序数型である」。よくわからん。「序数と基数の中間的なもの」という曖昧な理解にとどめておこう。
で、実は厳密な基数性を仮定しなくても、序数型でもさっきの部分比較可能性みたいな議論は成立する。その証明は「*」付きの章を読んでくれ。私には半分くらいしかわからなかった(そもそも序数型がなんなのかよくわかってないから)。ともかくこの章で大事なのは、「みんなが全く同じものさしを持っている」とか「みんなが厳密に基数性を満たした効用関数を持っている」とかキツい仮定をしなくても、社会的決定を導き出すことは可能だ、ということだ。
感想
ああ難しかった。自分でも何書いてんのかわかんないや。
このわからなさの原因として、そもそも「ものさし」って何? というのがあったかもしれない。効用のものさしなんて現実世界には存在しないと思うし。効用に限らず人々の厚生水準を測るなんらかの指標があって、それに個人ごとにウェイト付けをするみたいなイメージなのかな? たとえば貧しい人には下駄を履かせてウェイトを高めにつけるとか。前章までとちがって、現実世界での具体的な対応物がよくわかんなかった、というのもこの章の難しさの原因なのかなあと思った。
- この言い方は正しくなくて、割とノリで書いてる。厳密にいうなら「正の線形変換でない正の単調変換をするとまずい」ということ。正の線形変換も正の単調変換の一種なのです。↩