【読書ノート】『ルールに従う』第3章

やっと3章読み終わった。

この本は難書な上に高いのに日本ではなぜか人気があってAmazonレビューが10件もついている。一方、原書ではたった2件しかついてないし、しかもそのうちひとつは日本人によるものだ。これも日本人の学者や翻訳者ががんばって人々に紹介してくれたおかげだろう。アリガトウ、ニポンノミナサン。著者に代わってお礼を言います。

でも、そもそもこれが何の本なのかってなるとあんまりよくわからない人も多いんじゃないかなあ。私はこれ読むの2回目だけど、「じゃあ、何の本なのさ?」と聞かれたらグギギギと息が止まると思う。

人はなんでルールに従うのかを明らかにしようとする本……という面もあるのだけど、それよりも「そもそも合理性ってなんなのさ」というのを明らかにすることに重点があるんじゃないか。改めてまえがきを読み返すとこんな風に書いてあった。

本書が展開しようと試みるのは、実践的合理性の一般理論――ルールの遵守(または規範同調性)を端的に合理的な行為の一種として表現することができるような理論――なのである。 (p17)

ほら。だから、本書の目的は「ルールに従う」を解明することじゃなくて、「ルールの遵守を表現できるような合理性の一般理論」を提案することなんだ。やっぱり私の理解で合ってたわけだ。ほら!(なにを今さら)

ただ、たいていの人はこの記述を読んでも何がなんだかわからないと思う。私も初見だと何が何やらだった気がする。で、実はこの3章を読むと、この記述が何を意味しているのか何となくわかるようになるのだ。いや、頭の良い人は読まなくても「ああ、あれね」と思うのかもしれないけれど、私はド低脳なので3章を読むまでよくわからなかったよ。

そう考えると、この本は売れないことが運命づけられた本なのだということになりそうだ。だって、3章までの100ページくらいの分量を読まないとそもそも何の本なのかわからないんだから。それに何の本なのかがわかったとしても、経済学やらゲーム理論やらにとくに興味のない人には合理性がどうたらなんて「あっそ」というものでしかないと思う。これ勉強したって公務員試験にはクソも役に立たないしねえ。

それでも、社会科学にちょっと本気で取り組むようになると、誰でも「合理性とは何か?」という問題にぶち当たるものだと思う(そうでもないのかな?)。そういう、社会科学者としてのアイデンティティを失いかけて自分探しをしている人には良い話し相手になってくれる本だと思う。私も迷走してるので頼りにしてますよ。

ともかく、ゆるゆりとまとめていこう。難しい本だとつい記述が増えすぎて「お前さんの頭のなかでは著作権ってどういう概念になってるんだい」と言われそうなのでなるべくザックリまとめていきたい。

第3章 義務的制約

3.1 社会規範

さて、道具主義の人たちであれば、人がルールに従うのはサンクションが怖いからだと考えるかもしれない。というのは、道具主義では人は自身の利害だけを考えて行動するものだと仮定するからだ。だけど、現実の社会ではサンクションってそんなに実施されてない。それなのに人々はちゃんとルールに従っているのだ。

デュルケームやらパーソンズやらの社会学者たちは、人々はルールを内面化しているのだと考える。多くの人々が万引きしないのは、店主に捕まって警察に突き出されるのを恐れているからというよりも、万引きするのは良くないことだと思っているからだ。だから、実際にサンクションがなくても、人は良心の声にしたがって万引きを思いとどまるのだ。

でも、かといって人は盲目的にルールに従っているわけではない。たとえば、「知ってる人に会ったらあいさつする」というのはルールだ。でも、相手が嫌な奴だったらわざと知らんぷりするとかは普通にあるだろう。ルールに従うというのも合理性の一側面なのだ。だとしたら、こういう「ルールに従う」という側面を合理的選択理論に組み込むことはできるはずだ。つまり、「信念」とか「欲求」とかと並列的に、「ルールに従う」という側面を扱うことができるはずなのだ。

3.2 原理

で、そういう「信念」とか「欲求」と並列的に扱えるものを「原理(principle)」と呼ぶことにしよう。

そんなこと言うと、「何言ってんだバカ」と合理的選択の専門家から叱られるかもしれない。「ルールに従うのは、その方がその人にとって良い帰結をもたらす可能性が高いからなんだよ! だから原理なんてなくても、信念と欲求という概念があれば人がルールに従うという現象は記述できるんだよ!」 本当にそうだろうか? 私はそうではなくて、人がルールに従うのは人がルールに従いたいからだと思う。

3.3 世界ベイズ主義

さて、合理的選択理論に原理を組み込むと、そもそも行為と結果を分けるべきなのかどうか、という問題が出てくる。以下のような意思決定の「木」を考えてみよう。

なにこれ? がんばってp125の図を真似して描いてみたのです。めんどくさくてあちこち表記を略しているのでこの図は真似しないでください。

さて、「信念」と書かれているところの下に3つの枝があるでしょう。これは確率です。たとえば一番上の枝が「万引きをしたら捕まる」という事態を表しているとしたら、これは、この人が「万引きをしたら20%の確率で捕まる」という信念を持っているということになります。

次に、「原理」と書かれているところを見てください。捕まるかどうかはさておき、あなたには3パターンの行動があります。「万引きしない」「友だちの万引きを手伝う」「万引きする」です。それぞれに数字が割り振られているのは、万引きをしないのはよいことだから10点だけど、万引きするのはよくないことだから0点だみたいなことを意味します。

そして最後は「欲求」です。万引きが成功したらただで商品が手に入ってうれしいけど、万引きしなかったら何も手に入らないのでうれしくないとかいうことですね。話がややこしくなりそうなので具体的な値はぼかしておきますね。

ようするに、結果だけじゃなくて行為にも効用を割り当てようということです。しかし、もしかしたらこういうやり方はムダなことのように思えるかもしれない。というのは、わざわざ行為の効用と結果の効用を切り分けなくても足してしまえばいいからだ。たとえば行為の効用が10で結果の効用がxなら、ぜんぶで10+xという効用をもたらすわけだ。だとしたら、この10+xという効用はいったい何がもたらしたものなのだろう? 行為? 結果? 行為と結果の境目が曖昧になってくるぜ。行為とかわざわざ持ち出す意味がわかんなくなってくるぜ。

世界ベイズ主義という考えを応用すると、そもそも結果というのは行為込みで定義されるものだということになる。つまり、一見同じ結果であったとしても、それが異なる行為によってもたらされたものなのなら、違う結果として扱うことができる。たとえば、「ただ乗りで10ドル稼いだ」と「みんなで協力して10ドル稼いだ」は違う。ようするに行為と結果は完全に別物ではないけれど、かといって同じでもないということだ。

3.4 社会的インタラクション

それでもゲーム理論家は「いや、結局ぜんぶ結果に押し込んじゃえばいいじゃん」と考えるかもしれない。「原理」なんて無くても人々のインタラクションは記述できるよ、と。でもそれだといろいろ問題が起こってくる。たとえば、全部結果だとしてしまうとどう行動すればいいのか決められない状況が出てくる。たとえばこういう利得表を考えよう。

行動A 行動B
行動A 2, 2 0, 0
行動B 0, 0 2, 2

この場合、左上と右下の2つが均衡だ。だけど、それぞれのプレイヤーにとって、相手プレイヤーが行動Aと行動Bのどちらを選択するかはわからない。だから自分の行動も決められなくなってしまう。

次に、行プレイヤーが、行動Aに対して1という効用を割り当てているとしよう。つまり、結果はどうあれ、行動Aをとると行プレイヤーは効用が+1になるということだ。で、もしこれを結果の効用に足し合わせるとこういうことになる。

行動A 行動B
行動A 3(=2+1), 2 1(=0+1), 0
行動B 0, 0 2, 2

さて、複数均衡の問題は解消されただろうか? されてない。やっぱり左上と右下が均衡のままだ。

だけど、こうやって行動がもたらす効用と結果がもたらす効用を足してまぜこぜにしてしまわないで、分けてみたらどうだろう? そのとき、列プレイヤーは、「結果だけ見ても複数均衡なのでどうすればいいか決められないなあ。それはきっと行プレイヤーも同じで、向こうも困っているだろう。でも、行プレイヤーは行動Aの方が好きなんだよね? だったら、たぶん行プレイヤーは均衡選択を諦めて、行動Aを選ぶだろう。だったら私も行動Aをとれば効用を最大化できるよね」という風に推論する。で、左上が唯一の均衡点として定まる。つまり、行動と結果を分けることで、複数均衡の問題は解消できるのだ。

3.5 規範的コントロール

もちろん、全部結果に押し込んでしまうことはできる。逆に、行動と結果を分けて考えることもできる。

これは人の効用関数をどういう風に表現したらいいか? という表出面での問題だ。つまり、どういう風に効用関数を表現したら直観的に受け入れやすいか、ということだ。全部を結果に押し込んでしまうことはできるけれど、はたしてそれが受け入れやすいものかどうかはまた別の話だ。

3.6 社会的統合

さて、「信頼」というのを考えてみよう。信頼を道具主義的な観点から理解するのは困難だ。でも、「原理」を組み込んでみると、信頼もまた合理的基礎を持つのだということがわかってくる。

人々がお互いに信頼できると考えているなら、囚人のジレンマみたいな状況でも協力がうまくいくかもしれない。これは、お互いに「原理」に従うことで、協力行動に高い効用を割り当てるからだ。

もちろん現実には、お互いに信頼できるかどうかなんてわからない。自分だけ「原理」に従って協力行動をとっても、相手がクソみたいな奴だったら裏切られるし…。そういうときは、人々がお互いにインタラクションを繰り返して、ちょっとずつお互いのことを知っていく、という風に考えよう。「あの人、協力してくれるかなあ」と最初は疑心暗鬼だったけれど、たまたま一回協力してくれたら、「あの人は信頼できる人だ」と自分の信念を改訂する。「たまたま協力してくれる」かどうかがわからなくても、信頼できる第三者がいるかもしれない。相手が協力してくれないならその第三者がそいつにサンクションを与えてくれるのだ。そうすれば、自信を持って自分から協力することができるだろう。「え? それじゃあやっぱりサンクションに頼って道具主義的に人々が協力すると考えてるのと同じじゃん」と突っ込まれそうだけど、そういうことじゃない。というのは、それはあくまで「信頼を裏切ったことに対するサンクション」だからだ。そういうサンクションは別に本当に相手をひどい目に遭わせるような強いものでなくてもいい。あくまで、「相手を信頼して良い」という信念を補強するのがこのサンクションのねらいだ。

で、こういう「信頼」というものが成り立つのは、人が結果への欲求だけでなく、「原理」にも従って行動を選択するという性向があるからなのだ。もし結果への欲求だけで人が動くのなら、かなり強烈なサンクションにしないと人々は協力行動を選択しないだろう。

3.7 結論

という風に、伝統的な合理的選択モデルに「原理」という義務的制約を取り入れたのが私の提案するモデルなのです。

感想

いつものことだけど、結構あちこち端折ったし、自分の独自解釈で説明している部分もある。うわ、そういうのやめてください、という人は本を買ってください6,380円。

ようするに、無理して信念と欲求だけで人々の行動を説明するよりも、そこに「原理」を取り入れた方がうまく説明できるし直観的にもわかりやすいよ、ということが言いたいのかな? で、この「原理」というのは要するに「道徳に従おうとする性向」みたいなもので、これがあるから人はルールにも従う。「ルールに従う」という側面も組み込んだものとして合理性をとらえなおそうじゃないか、というのがヒースの提案なのだと思う。

ただこれは、経済学とかゲーム理論に慣れ親しんでいない人にはいまいちピンとこない提案だと思う。つまり、そもそも信念と欲求だけで人の行動を捉えようという枠組み自体が普通の人には意味不明なんじゃないか(念のため言うと、ヒースの提案が意味不明ということじゃなくて、一般的なゲーム理論の前提の方が普通の人には意味不明なんじゃないかということ)。信念と欲求しかないとしたら、たとえば世の中の多くの文学作品は理解不能になるよね。『罪と罰』の主人公はなんで人を殺したかと思えばそのあと煩悶してるのか、ぜんぜんわからなくなってしまう。ゲーム理論で『罪と罰』を解釈するとかの無茶をやる人はいないんだろうか。『ジェイン・オースティンに学ぶゲーム理論』って本はあるけど。

あ、探したら罪と罰もあった。

jur.byu.edu

でも、なんか「結局論文投稿しなかったよ」とか書いてある。なんじゃこりゃ。ゲーム理論を使うとなんでラスコーリニコフが精神錯乱状態と明晰状態のあいだで行ったり来たりしてるかがわかる…とか書いてあるけどアブストなので詳細がよくわからん。でも面白そう。

もうちょい探したら論文も見つかった。でも、論文というより、ワークショップみたいな奴の原稿みたい。少なくとも形式はぜんぜん論文になってない。10ページくらいか。暇なら読むかも。

scholarsarchive.byu.edu

もうちょい追記。普通の人からしたら意味不明な前提(ようするに道具主義ということ)を否定するのになんでヒースがこんなに難解な議論を展開しているかというと、道具主義という前提が社会科学の世界でそれだけ強力に根付いてしまっているからなのだと思う。行動経済学は人間が実は非合理だ、ということをあの手この手の実験で示してくれるけど、代替となる新しい合理性の理論は提案してくれない(プロスペクト理論とか断片的な提案はあるけど)。で、「非合理な人々が合理的に考えられるようになるためにナッジをしてあげればいいんだよ」というような提案をする。たとえば男性が小便器を上手に使いたいのにどうしてもビシャビシャにぶちまけてしまうのだとしたら、便器にハエの絵を描いてやればいい。するとごらん。男性はハエの絵めがけて自身のものを発射するので、ビシャビシャしなくなるのだ。よかったよかった。これで「ビシャビシャにしたくない」という男性の欲求は適切に満たされた。クリーンにおしっこするという男性の計画は達成されたのだ…。でも、そこで言われている「合理性」というのは、伝統的な合理性概念と何も変わらない。そういう点で、行動経済学はラジカルな外見とは裏腹にずいぶん保守的な学問なのだ。行動経済学は伝統的な合理性概念と戦おうとしないけれど、ヒースは真っ向から戦おうとしている。その点で、行動経済学よりも本書の試みの方がずっとラジカルなのだ。本書の難解さはそのラジカルさの裏返しだといえる。