【雑文】つまり「現実を無視すんなバーロー」ってことですかコース先生。

コースの定理」で有名なコースの主著です。自分の論文を書いている中で、「企業ってそもそも何?」ということが気になって、手を出してみたら面白かった。

「企業ってそもそも何?」に対する回答は第2章の「企業の本質」というのに書かれている。でも、そこよりも、ついでに読んでみた第5章の「社会的費用の問題」の方が個人的には面白かった。これは、コースの定理の元ネタになった論文だ。

コースの定理は、学部生のときに環境経済学の授業で習った。私は環境経済学という学問が嫌いだった(今もそんなに好きではない)。言ってることがわけわかんねえ、と思ってたから。一番わけがわかんなかったのがCVMって言って、要するに環境に価格をつけて市場メカニズムで扱えるようにしようっていう環境評価手法だけど、今回はそこに深入りしない。二番目くらいにわけがわからなかったのがコースの定理だった。

コースの定理というのは、イメージだけを雑に示すとこういうもの。

  • 汚染物質を垂れ流して操業している工場Aと、その周囲に住む住民Bがいるとする。
  • このとき、取引費用がゼロと仮定すれば、政府が介入しなくても、AとBの自由な取引で、効率的な資源分配が実現する。
    • 工場Aに汚染抑制の義務がある場合:
      • 工場Aは汚染による損害の補償金を住民Bに支払って操業をつづける。
      • ただし、操業規模は縮小する。なぜなら、補償金を支払う分、限界収益が小さくなるから。
    • 工場Aに汚染抑制の義務がない場合:
      • 住民Bは工場Aに補償金を払って、操業規模を縮小してもらう。
  • いずれにしても、工場Aは操業規模を縮小し、汚染によって住民Bがこうむる損害は減ることになる。

だから、汚染のような外部不経済の問題に対処するのに、政府が何か規制をする必要はないし、環境税みたいなものを導入する必要もない。ただし、取引コストがゼロであれば

取引コストがゼロというのは非現実的な仮定だ。たとえば、工場と住民が補償金に関して契約を結ぶのにもコストがかかるし、住民がこうむった損害がいかほどのものなのかを測定するのにもコストがかかる。また、もし住民がひとりでなくて何百人もいたら、彼らを組織化したり議論の場に集めたりするのにもコストがかかる。だから、コースの定理は現実には成立しない。

で、授業で環境経済学を勉強すると、ここでみんなポカーンとするんじゃないだろうか。今はもっと教え方が変わってるのかもしれないけれど、私のときはポカーンだった。現実には成立しない定理をなんだって一所懸命勉強しないとならないのか。テストで「コースの定理とは何か説明せよ」という問題があれば、ともかく説明すればそれで点数はもらえる。だけど、それだけだ。こういうこところでわけわかんなくて、私は環境経済学が苦手だった。

当時使ってた教科書だとどんな説明をしていたのだろう? ちょっと抜き書きしてみる。

コースの定理は、損害賠償ルールの設定が資源配分の効率性に対して影響をもたないことを述べているにすぎず、所得分配に対してきわめて重大な影響を与えることを否定するものではない。 (…)いいかえれば、公平や公正の観点からは、いかなるルールの下で効率性を追求すべきかが重要であることを、コースの定理は逆説的に示したともいえる。(…)以上から明らかなように、コースの定理にかかわる今日における一般的な理解は、所有権が明確に規定されていれば解決が可能な外部性の問題はきわめて限られており、環境にかかわる大部分の外部性の問題については、ルールの規定の仕方も含めて政府の積極的な介入が必要だというものである。 植田和弘(1996)『環境経済学』p28

工場と住民、どちらの権利があるかによって所得分配が重大な影響を受ける。だから、公平や公正の観点もちゃんと踏まえてルールを考えていくことが大事だよとコースは逆説的に示している、ということらしい。だけど、コースは第6章「社会的費用の問題に関するノート」で、「責任ルールの変化が富の分配の変化を惹起することはない」(p296)とはっきり述べている。あれ? ここのところの整合性はどうなってるの? なんだかモヤモヤしてきたぜ。

「政府の積極的な介入が必要」というところにも違和感がある。というのは、コースの論文では、p204のあたりで、政府が介入することが必ずしも好ましくないということが書かれているから。つまり、政府が関与するとかえってコストが高く付くことがありうる、ということだ。政府が関与するのが良いことかどうかには根拠がないとコースは述べている。

政府の行政機構は、それ自身、費用なしには動き得ない。ときには、この費用は極端に大きな額になり得る。そのうえ、政府は、政治的圧力を受けやすく、競争によるチェックなしに作動する。このように誤りを免れない政府が設けた制限規制や区域規制が、つねに、そして必然的に、経済システム作動の効率性を高めると考えることには、なんら根拠は存在しない。(…)それと同等に、こうした政府の管理規制によっては経済的効率性の改善は達成され得ないという主張にも、なんら根拠は存在しない。 コース(2020)『企業・市場・法』p204

私が学んだ環境経済学の教科書では、コースの定理についてちゃんと説明できてなかったのではないだろうか。いや、私の誤解なのかもしれないけど、少なくとも、コースの元論文とはかなり内容が違っている印象がある。かつての私がポカーンだったのはそういう事情があったんじゃないだろうか。

じゃあ、コース自身は一体何が言いたかったのか? 重要そうなところを抜き書きしてみよう。

経済学者は、企業の問題を研究する際、よく機会費用にもとづくアプローチを用い、生産諸要素のある所与の結合から得られる収益を、代替的な事業計画(から得られる収益)と比較することを慣行としている。経済政策の問題を取り扱うにあたっても、同様のアプローチを採用するのが望ましく、代替的な社会制度によってもたらされる総生産物を比較することが望まれよう。(…)経済的問題の解決のために、様々な社会制度のなかから選択をするときには、市場評価よりもっと広い視点からその選択はなされるべきことが望ましく、また、これらの社会制度が及ぼす人間生活のあらゆる側面への全体的効果が考慮に加えられるべきことが望ましい。フランク・H・ナイトがしばしば強調したように、厚生経済学の諸問題は、究極的には、審美学と道徳の考察のなかへと発展的に解消されていかなければならない。 コース(前掲書)p260

最後に「審美学と道徳の考察のなかへと発展的に解消されていかなければならない」というのが出てきてる時点で、あ、なんか教科書に出てきたコースとぜんぜん違うな、という気配がある。「これらの社会制度が及ぼす人間生活のあらゆる側面への全体的効果が考慮に加えられるべきことが望ましい」とあることからわかるように、コースが重視しているのは「ものごとをあらゆる側面から検討せよ」ということなのだと思う。

コースの定理が言いたいことは「政府なしでも社会的費用の問題は解決できるぞ」ということではなくて、「社会的費用の問題があるからといってすぐに政府に飛びつくべきでない」ということだ。政府が介入したり環境税を設定したりしなくても、状況によっては当事者同士の取引で問題解決できてしまうこともある。だから、もっと現実の問題をもっと多角的に見て、どういう解決がもっとも望ましいのかを考えるべきだ。最後に「審美学と道徳の考察のなかへと発展的に解消されていかなければならない」とあるのは、そういう現実の複雑性に目を向けさせるための注意喚起なんじゃないかと思う。

で、「すぐに政府に飛びつくべきではない」ということを論証するために、コースは「社会的費用の問題」の中でかなりページ数を割いてピグーをコテンパンに否定している。ピグー環境経済学の教科書ではおなじみの経済学者で、社会的費用と私的費用が乖離しているときは課税等で両者を一致させるべきだという主張をしている。教科書で勉強していたころは、ピグーとコースは仲間みたいなものだと思っていた。でも、コースからしたらピグーはむしろ否定すべき敵だったのだ。

さっきの工場Aと住民Bの話で考えると、ピグーなら工場Aが住民Bに補償金を与えるよう政府が介入すべきと主張するだろう。そうすることで、工場Aによる排出がもたらす社会的費用(つまり汚染による住民への被害)を、工場Aの私的費用(つまり工場を操業する費用+補償金支払い費用)と一致させることができるからだ。こうすれば、工場Aはやみくもに汚染物質をまき散らすのではなく、住民Bへ与える損失を考慮しつつ操業することができる。

だけどコースからしたら、こういうピグーによる分析は的外れだ。というのは、「代替的な社会制度を比較する際、経済学者が用いるべき適切な手続きは、それぞれの制度のもとで生みだされる社会的総生産物を比較秤量することである。私的生産物と社会的生産物との比較などでは断じてない」(p241)からだ。

どういうことか? 工場Aと住民Bの例で考えると、感覚的には、汚染物質を垂れ流している工場Aの方が悪いように思える。だから、工場Aに補償金を支払わせるのには何の問題もないように思える。でも、もしかしたら工場Aはずっと昔からその土地で同じように操業をしていて、住民Bはつい最近になって引っ越してきたニューカマーなのかもしれない。その場合、むしろ住民Bが引っ越し先を別の土地に変更すればよかったのではないだろうか? そうすれば、工場Aはこれまで通り生産を続けられるし、住民Bは工場のないきれいな環境で生活できるはずだ。

もちろんそれは、具体的な数値を使わないとなんとも言えない話だ。住民Bが引っ越し先を変えるべきかどうかは汚染の深刻度によって変わってくるだろう。また、補償金を支払うにしても、取引費用が莫大だと、むしろ何もせずに現状維持するのが望ましいということにもなりうる。ただいずれにしても、社会的費用と私的費用は必ず一致させるべき、というピグーの主張は成り立たない。それはケースバイケースで、それぞれの具体的な事例をみないとなんとも言えないことなのだ。

現実を無視して思い込みでもの言ってんじゃねーぞバーロー」がコースの主張なのだ、と雑にまとめてしまいたい。政府介入がダメだと言ってるわけでもないし、かといって政府介入が良いと言っているわけでもない。それらはすべてケースバイケースだ。ものごとを多角的に眺めよ。経済システム全体を見て、トータルで望ましい結果なのかどうかをきちんと考えるべきだ。

コースの本を読んだおかげで、環境経済学に対してずっと持っていたモヤモヤの正体が見えてきた気がする。たとえば、当時授業で、「水田の持つダム機能の価値は貨幣評価すると○○億円」みたいな話を紹介されて、やっぱり意味分かんねえと思ってた。水田のダム機能が○○億円でありとても高額だから、われわれは日本農業を守るべきだというのだ。だけど、その理屈でいうのならその水田を潰して遊園地をつくった方が儲かるから水田は潰すべきだ、という主張だって成り立ってしまう。その土地をどういう風に使うのか、それぞれで利益やコストはどうなっているのか。そういうことをきちんと多角的に考えないと、「だから日本農業を守るべきだ」なんて雑な結論は出せないはずだ1。この手の議論は誰が聞いてもへんなので、最近は「△△の価値を貨幣換算したら○○億円だ」みたいなのはあんまり聞かなくなった。でも、表面的な現象だけを見て「こうするべきだ」という結論を安易に出してしまうのは、ピグーだけでなく、多くの人がやらかしがちなことだと思う。なので環境経済学にとくにルサンチマンのない人でも、本書は読むとためになるはずです。

ためになるというだけでなくて、コースの皮肉っぽいユーモアがあちこちに見られて割と楽しい本でもある。とくに最後の章の「経済学のなかの灯台」という、論文というよりエッセイみたいなのはすばらしい。

これまで多くの経済学者たちが、私企業ではなく政府でないと供給できない財・サービスの例として、灯台を取り上げてきた。灯台が私企業に供給できないというのは、利用者から料金を徴収するのが難しいから。だけど、実際にはイギリスにおける灯台は、利用者から料金を徴収することで運営されていたのだ! 

このエッセイの主なねらいは、現実の灯台運営をろくに調べずに頭の中だけで政策についてあれこれ主張する経済学者たちをたしなめることだろう。その点では、「社会的費用の問題」でピグーをコテンパンにやっつけてるのとねらいは変わらない。ただ、だとしてもここまできちんと灯台について調べるか、ってくらいきちんと調べていて笑える。批判された経済学者からしたら「いや、灯台はあくまで例ですよ」と逃げを打つだろうけれど、そんなの承知の上でコースはマジレスしてるのだ。トロッコ問題を論じる倫理学者に対して「あなたはそもそもトロッコの構造をちゃんと知ってるのですか? 鉱山採掘企業の組織構造や安全管理の実態を知っているのですか?」とネチネチ問い詰めるようなやり方だ。えぐい。たぶん、半ばギャグでやってるんじゃないかなあ。ゲラゲラ笑いながら執筆してたんじゃないかと思う。コースの意地悪な性格が垣間見えるすてきな章です。


  1. 同じようなことが速水佑次郎・神門善久(2002)『農業経済論 新版』のp292で指摘されている。《これまで農業関係者の多くは日本の水田が持つ保水機能は、黒四ダムの何十倍にものぼり、それをダムとして建設すればいかに膨大な費用がかかるかなどの試算にもとづいて、水田維持の必要を主張してきた。かかる議論は基礎となる試算自体がいかに正しくとも政策論としては無意味である。政策決定にとって有用であるためには、山地の水田をたとえば日本の環境にとって本来もっとも適しているといわれる照葉樹林にもどしたとき、どれだけの保水が期待され、そのための費用はどれほどであるかについての試算がともなわなければならない。(…)こうした機会費用との比較検討なしに、外部効果の大きさのみを列挙するのは、科学的な政策論とは言いがたい。》