【読書ノート】 Philosophical Foundations of Climate Change Policy第2章

第2章 Climate Change and Growth(気候変動と成長)

イントロ

哲学者たちは、気候変動を「世代間正義」の問題と分類しがちだ。そして彼らは十分性主義者(sufficientarian)であることも多い。十分性主義によると、現在世代の義務は、将来世代が一定の閾値レベルの厚生を達成できるようにしてあげることだけである。

しかし十分性主義に従うなら、われわれは気候変動に対して何もしなくていい、ということになってしまう。なぜなら、気候変動により将来世代が損失を被ったとしても、それと引き換えに経済成長の果実を将来世代が受け取れるのなら、彼らの最低限の厚生レベルは楽々と達成できてしまうからだ。こんなへんな結論が出てしまうのは、十分性主義者たちが経済成長のインパクトを無視しているからだ。

気候変動に関する現在の哲学的な議論で支配的なのは、私からみれば受け入れがたいほど極端な2つの見方だ。1つ目は功利主義的なものだ。功利主義に関するより詳細な議論は次章までお預けにしよう。今のところは、2つ目の見方である「定常状態原則」あるいは十分性主義に焦点を当てよう。

2.1. The Undemandingness Problem (何も要求しないことの問題)

哲学者たちは経済成長についてきちんと考えていない。そのため、彼らはへんな議論をやらかしがちだ。

平等原則を世代間正義の問題に応用すると、現在世代を重視しすぎなものになってしまう。なぜなら、経済成長しているということは、後の方の世代ほど経済的に豊かになるということであって、逆にいえば、現在生きている人々が「もっとも不遇な世代」ということになるからだ。となると、平等主義の原則からすれば、現在生きている人々は厚生水準を高めるために自分の消費を最大化するべきだということになってしまう。

ブライアン・バリーはこう主張する。将来世代に対するわれわれの義務は、彼らをわれわれより不遇でない状況に置くことなのだ、と。それで彼は「世代をまたぐ平等機会」という原則を支持する。これが示唆するのは次のようなものだ。「将来世代に対し、良い生とは何かに関する彼らの考えに基づいた上で、良い生の機会を与えるべきである」この考えはいわば定常状態原則(steady-state principle)とでも呼べる。

これは、ブルントラントでの持続可能な開発という概念と同じ考え方だ。これは、持続可能な開発を「将来世代がニーズを満たす能力を損なうことなしに現在のニーズを満たせる開発」と定義するものだ。しかしこの基準は、技術進歩による経済成長だけで楽々満たすことができてしまう非常にハードルの低いものだ。

したがって、十分性主義が世代間正義の問題に適用されると、いわば「何も要求しない」問題(un-demandingness problem)が生じることになる。つまり、彼らの主張に従うなら、われわれは気候変動に対して何もしなくていいという馬鹿げた結論が引き出されてしまうのだ。

2.2. Limits to Growth成長の限界

「成長」についてもう少し考えてみよう。

多くの環境主義者たちはこう考える。われわれは成長の限界に近づいている。だから、経済成長をこれからもつづけることは不可能である。したがって、こうした経済成長をこれからも進めるべきだという義務がわれわれにあるはずがない、と。

この考え方を検討する前に、まず「経済成長」がどういうものなのかについて話を整理しておこう。

経済成長の指標はGDPだ。しかしGDPは、人々が従事している経済取引の総価値を教えてくれるものにすぎない。つまり、物質的な生産の水準がどうなっているかはGDPには現れない。そこで、経済成長政策に関して環境主義者たちが擁護するのは、「デカップリング」あるいは「非物質化」戦略である。これは、持続可能な容量を超えて物質フローを増やすことなしに、質的な意味での成長が実現できる水準まで生産や消費の中身における物質の量を削減する、といったものである。

しかし、これはミスリーディングな考え方だ。「再生不可能」な資源は、文字通り消費されたり破壊されてしまうものではない。たとえば、金属は人間の使用によって完全に使えなくなってしまうわけではない。サビとなって環境中にちりぢりになってしまうかもしれないが、金属自体が実質的になくなってしまったわけではない。論点を一般化するとこうなる。もし十分なエネルギーを使えるなら、あらゆるタイプの「廃棄物」を「資源」に戻すことができる。だから、再生不可能な資源など本当は存在しないのだ。それはエネルギー技術の状況に依存するものなのだ。

したがって、経済の成長について考えるのなら、問題を資源ではなくエネルギーの観点から定式化するべきだ。成長に関する唯一の変えがたい制約は、太陽エネルギーの残量だ。それは現時点で、人間の利用量をはるかに上回っている。だから、本当の制約は、このエネルギーを利用可能な形に変換する方法を見つけるという現実的なものだ。

そしてこれは、単なる楽観主義 v.s. 悲観主義の問題ではない。それではまるで、技術革新が外生的なプロセスであるかのようではないか。環境政策の重要な目的は、持続可能性を向上させるための研究開発に対する投資を刺激することなのだ。楽観とか悲観とかの問題ではなくて、投資をするかどうかという問題なのだ。

したがって、成長の限界という考え方が広く行き渡っているにもかかわらず、それは科学的に裏づけられた主張ではないのだといえる。

ここで、定常状態について規範的な立場から語る理論家を、実証的な立場から語る理論家と区別すると都合がいい。前者が言っているのは、成長は義務でないということだ。後者が言っているのは、成長は不可能だということだ。本節で私が示そうとしてきたのは、後者のように実証的な立場から定常状態について語る理論家たちの主張は証明されておらず、彼らが頭の中で考えただけのものだ、というものだ。だから、今後の議論では彼らの考え方は脇にどけで置こう。そして、規範的な立場から定常状態について語る理論家たちにだけ焦点を当てたい。

2.3. Impacts of Climate Change(気候変動の影響)

規範的な立場から定常状態について語る理論家たちによると、われわれには将来のGDPを最大化する義務はない。だから、ゼロ成長政策を採用したとしても、将来世代に対して何の不正義も働いていることにならないことになる。しかしこの政策は彼らに対し、気候変動に関する損失などほとんど問題とならなくなるほどの莫大な損失を負わせるものだ。

現状維持シナリオでは、気候変動の影響を受けるすべての人々を補償するのに十分な便益を簡単に生み出すことができる。2100年までに、現状維持シナリオにおける世界の人々は「補償付き定常状態」経路の人々が享受する水準の2倍以上の生活水準を享受し、彼らが受けるべき量のほぼ5倍の「補償」を受けることになる1。ということは、われわれは気候変動を緩和するのに、何もしないのにもかかわらず、やすやすと義務から放免されることになってしまうのだ。これは明らかにおかしなことだろう。

2.4. Sustainability and Fungibility (持続可能性と代替性)

一方で、前節の議論には強い仮定がある。それは、われわれが将来世代に残す財(そして損害)には「代替性」があるという仮定だ。そういう仮定があるからこそ、緩和ではなく、適応とか補償について語ることができるのだ。ブライアン・ノートンにならって「遺産」をわれわれが次の人々に受け渡す世界の全体的状態と定義することができる。この意味での遺産はたくさんのカテゴリーに分けることができる。たとえば、「自然資源」「資本財」「生態系」「制度」「専門技術」などだ。

世代間正義の立場から出てくる重要な疑問は次の様なものだ。われわれはそれぞれのカテゴリーについて同じだけの量と質を次の世代に継承する義務があるのか、あるいは、あるカテゴリーにおける減少は他のカテゴリーにおける増加で代替できるのか。

もしあらゆる代替が許容されるなら、環境の持続可能性にはなんら特別な問題はないことになる。というのは、自然カテゴリーにおいてどんな損失が生じたとしても、原則的にはその他の社会カテゴリーのいくつか(とくに資本財ストックのカテゴリー)における増加で補償できるからだ。

もちろん、何もかもが自由に他の何かと代替できるというアイデアは非現実的なものだ。たとえば、農業は世界の総GDPのほんの4%しか貢献していない。しかし、もしある世代が地球上の農業をすべて破壊してしまうとしたら、他のカテゴリーで4%分の生産を増加させたとしても埋め合わせにならないことは明らかだ。たとえ将来世代の具体的な選好のあり方が予想できなくても、彼らは食料を必要とするだろうと想定した方が安全パイだろう。したがって、将来世代に継承する経済は農業部門を含まなければならないということになる。こういう風に、カテゴリー間のある程度の代替は許容するが、全面的な代替を認めないのは、「弱い持続可能性」と呼ばれる考え方だ。

反対の極には、カテゴリー間の代替を許容しない立場がある。これは「強い持続可能性」と呼ばれる立場だ。強い持続可能性では、カテゴリー間の代替は完全に禁止されるか、あるいは一方向に制限されている。たとえば、自然資源を減少させて資本財を増やすことはできるが、資本財を減少させて自然資源を増やすことはできない、といったことだ。

ここで生じるもっとも大きな問題は、人工物のカテゴリーから自然物のカテゴリーへの補償が可能かどうかという点にある。環境主義者たちならこの問題に対し即座に「ノー」と言うだろう。しかし、「イエス」といわざるを得ないような状況はたくさん挙げられる。

たとえば鉄鉱床は、鋼鉄を作るために採掘されて利用され、採掘された鋼鉄は、自動車、建築物、家電機器、風力タービン、その他諸々のものを作るのに使われる。もし技術革新によって鋼鉄の伸張強度を高めること可能になり、建設に必要な材料が少なくてすむようになるなら、あるいは新しい製造プロセスによって金属の薄板をもっと薄く作れるようになり自動車に必要な金属の量が少なくなるなら、あるいはある種の用途において鋼鉄を代替できるような新しいプラスチックが開発されるなら、どうだろうか? これらがすべて意味しているのは、将来世代に必要な鉄の量は減るということだ。

だから、人工物カテゴリーを自然物カテゴリーにいくらか代替するのは許容できることなのである。こう考えると、強い持続可能性テーゼは掘り崩されることになる。

2.5. Catastrophe(破滅)

定常状態を重視する人たちは気候変動による「破滅的損失」についても語りがちだ。

気候変動のリスクには、確率としては非常に低いが損失は破滅的という、テールエンド(確率分布の端っこの方)のリスクがある。この破滅的なリスクへの対処を、保険を購入するようなものだと考える人たちがいる。破滅的な損失のリスクを考慮すると、人はそのリスクを削減するために前もって金額を支払おうとするだろう、ということだ。

しかこれは、保険システムがどんな風に機能するかに関する事実誤認にもとづく考え方だ。破滅的なできごとへの対策として保険を購入したとしても、そうしたできごとが発生するリスクを本当に削減しているわけではない。保険システムというのは、同じリスクに直面する人々がその損失を被る人に補償するために、自分たちの資源をプールすることに同意するときに生まれるものだ。破滅的な気候変動の損失は、保険をかけられるできごとではない。

気候変動に対する対応は、保険のような「リスクプーリング」ではなく、むしろ「リスクマネジメント」だ。つまり、リスクを変化させるために投資する、といったことだ。一方、テールエンドのリスクへの対応を強調するのは、われわれはもっとリスク回避的であるべきだと言っているのに等しい。つまり、保険とはぜんぜん関係ない話だ。

非常に急速な温暖化が起これば、気候工学で対応しようということになるだろう。そうした介入による影響は、テールエンドの破滅的なリスクを削除するためのものであって、気候変動によるもっと平凡な損失を削減するためのものではない。定常状態支持派の「破滅回避」という観点に立つと、気候変動で破滅を回避することが可能になれば、将来世代に対するわれわれの義務はいっさい無くなってしまい、広範な炭素削減に従事する義務は無くなる。私には、これはとても受け入れられる考え方ではない。

気候変動には実際にはふたつの問題が含まれている。1つ目は、高い確率で起こりうる、大気中に放出される外部性に関する問題だ。2つ目は、ロングテール、つまり低確率だが損失の大きい出来事に関する問題だ。私が「標準的な政策的議論」と考えるのは、1つ目の、高確率で起こり、予期しやすく、もっと平凡な損失レベルの問題の方だ。そうした問題を政策的観点から扱うのにもっとも良いやり方は、標準的なコストベネフィット分析を用いることだ。

2.6. Conclusion(結論)

今の哲学的議論は、このままの経済成長は不可能である、あるいは重要ではないという考え方で支配されており、そのため、彼らの多くは定常状態に関する規範理論を受容している。しかし定常状態という考え方は、政策論争に関する限り完全な役立たずである。というのは、現在世代の人々に規範として課す義務があまりにやすやすとクリアできるものだからである。

十分性主義の規範的立場は、破滅的な損害が予期されるときにだけ妥当なものとなる。しかしそのため、IPCCによる気候変動の損失予測に対する広範な否定や、低確率シナリオの過剰な強調といった反応が生まれ、結果的に、哲学者たちは政策議論のメインストリームからますます孤立してしまうのだ。

感想

たとえば下記リンク先にもあるように「定常型社会」という発想は日本でも人気だけど、そうした考え方だと気候変動に対して何もしないで良いことになってしまう、というのが今回の議論だ。

www.nhk.or.jp

ただ、ヒースが言っているsteady-state economyというのは、「経済成長をやめて本当の幸せを実現しよう」というような話とはちょっとちがってて、「経済成長は将来世代のニーズを満たせる水準で十分だ」という十分性主義(sufficientarian)というものみたいだ。で、この意味での定常状態は簡単に達成できてしまう。たとえ温室効果ガスを垂れ流して経済成長を推し進め、それによって温暖化が深刻な水準まで進んだとしても、将来世代はそうした経済成長の果実を受け取れるわけだから、それで気候変動による損失は簡単に埋め合わされてしまう。だから、定常状態をめざすなら気候変動を放置するべきだという、本人たちもまったく意図していない倒錯した結論が引き出されてしまう。

この「経済成長で気候変動の損失を補う」というのが本当に可能なのか、という問題も考察される。そして、環境問題は突き詰めればエネルギー問題であって、エネルギーを効率よく入手できるかどうかは技術革新の問題であり、技術革新は結局は投資の問題だということになる。だから、やっぱり「経済成長で気候変動の損失を補う」のはある程度可能なのだ、ということになる。少なくとも、そうした代替を全く認めない強い持続可能性は妥当な考え方ではない、ということになる。

ところで、「経済成長をやめて本当の幸せを実現しよう」というタイプの定常状態原則には、ヒースの今回の議論はどの程度当てはまるのかな? そこだけちょっと考えてみよう。

今回の「経済成長によって損失はある程度補える」という発想を応用するなら、やっぱり経済成長をきちんと達成するべきだ、ということになるんじゃないかなあ、と思う。まず、「本当の幸せ」というのは学者や活動家や政治家が人々に押しつけるものではなくて、個々人が自分で考えるべきことだ。で、自分で「こういうのが私にとっての本当の幸せだ!」と決めたとしても、使える資源が足りないと、「本当の幸せ」を達成するのが難しくなってしまう。そうした資源を確保するためには、経済成長が必要だということになるだろう。強い持続可能性テーゼの立場に立てば、「本当の幸せ」の実現に必要な資源はある程度決まっていて、経済成長で経済資本を形成してもそうした資源の代替にはならない、ということになるかもしれない。しかし弱い持続可能性の立場に立てば、代替はある程度可能だ。というか、そもそも「本当の幸せ」の実現にどんな資源が必要になるのかなんて本人にしかわからないのだから、先行世代が勝手に「将来世代の本当の幸せのためにはこの資源が必要だ!」と決めるのはおかしいだろう。

たとえばゲームを作りたいという人は、昔だったらゲーム会社に入らないとその夢を実現できなかったけれど、今の時代なら個人でも作ることができる。家庭用PCでもつくれるし、それを販売できる流通システムもある。それは技術革新によって、そうしたPCや開発ツールや流通システムといった「資源」に個人がアクセスできるようになったからだ。それで、ゲーム会社にいるよりも比較的自由にゲームをつくれるようになった。ユーザーからしても、大手なら絶対つくれないような攻めた内容のタイトルがたくさんあるのでとてもありがたい話だ。作り手もユーザーも、経済成長のおかげで「本当の幸せ」を幾分かは達成しやすくなったといえる。

「ゲームなんて人々を堕落させるものだ。そんなもの本当の幸せではない」と言ってゲームの規制を支持する人もいるだろうけれど、それはまさに今、中国の権威主義的な政治のもとで行われていることだ。「本当の幸せ」について他人がとやかく言う権利はないし、そんなことやりだしたら恐ろしく息苦しい社会になってしまう。だから、何が「本当の幸せ」なのかは個人の判断に任せておいて、彼らが「本当の幸せ」を実現するのに必要な資源を確保するため、経済成長をきちんとやっておくべきだ、ということになるんじゃないだろうか? というのは、将来の人々にとって何が必要な資源になるのか前もって予想できない以上、投資をして経済資本をきちんと蓄積しておいた方が、将来世代が市場で自分に必要な資源を手に入れるのが比較的容易になるからだ。いや、ここらへんはあくまでヒースの議論の拡大解釈で、本人はこんなこと言ってません。

ただ、今のところ、ヒース自身が気候変動についてどんな道徳理論を考えているかは明らかにされてない。環境倫理学者や定常状態主義者たちの議論がおかしいと論破してるだけだ。次の章はどんな感じになるんだろう? 功利主義について論じるとか本章の冒頭にちらっと書いてあったけど、次は功利主義批判なのかな?


  1. ここは何の根拠もなしに言っているのではなくて、「スターン報告」という報告書にある予測を参照している。また、定常状態の立場では「人々のニーズを満たせる水準まで経済成長したらあとは経済成長するべきでない」ということになるので、その最低限の水準を設定する必要がある。ヒースは、教育、健康、幼児死亡率などに関してジャクソンという人の示したデータを元にして、まあ、余裕を見ても1人当たりGDPが5,000ドルくらいあればニーズを満たせるでしょう、と仮定している。