環境倫理は余計なのか?

 現在の環境政策に対して、環境倫理はいかなる意味でも影響を与えていない。従来の思弁的な環境倫理だけでなく、前回論じた風土に基づく環境倫理も、現実においてはほとんど無力な存在だ。

 しかしそれは、現在の環境政策において倫理が無用の長物だということではない。むしろ、倫理は環境政策を実現する上で必要不可欠なものだ。ただ、その倫理は環境倫理ではなく、もっと一般的な倫理だ。具体的にいえば、平等性や自由、権利といった、環境倫理が登場するよりずっと以前から近代社会において論じられてきた倫理概念こそが、環境政策のあり方に影響を与えているのだ。

 たとえば気候変動を取り上げよう。各国が二酸化炭素排出を抑制することは、気候変動を緩和することにつながる。そのためこれまで繰り返し国家間で議論が行われ、二酸化炭素排出抑制に関する目標や方策が決められてきた。しかしその成果は明らかに不十分であり、気候変動の進展を止める見通しはまったく立っていないのが現状だ。

 この一つの要因は、社会的ジレンマだ。つまり、気候変動対策は他の国にやってもらって、自分の国だけは二酸化炭素排出をつづけようというインセンティブがどの国にもある。その方が自国の利益を上げられるからだ。でも、どの国もそのように行動したら、気候変動対策は破綻してしまうことになる。

 もう少し詳しく見てみると、どの国にもそれぞれ事情があることがわかる。たとえば、ある国はとても貧しい。彼らからすれば、気候変動を深刻化させたのは先進国なのに、なぜ自分たちが経済発展を遅らせてでも気候変動対策に参加しなければならないのかという不満があるだろう。また、気候変動の影響も国によって大きく異なる。内陸部にある国よりは、沿岸部にある国の方が被害は大きいだろう。気温上昇で農作物の被害が甚大になる国もあれば、かえって生産量を増やせる国もあるかもしれない。こうした状況で、どうやって気候変動対策について各国間で協調することができるのか? もう少し言うと、各国間での協調を阻んでいる要因は、突き詰めればいったい何なのだろうか。

 ここで各国間の協調を阻んでいるのは、各国間で生じている「不平等」だ。平等な状況であれば、こうした問題は生じないだろう。すべての国が同じくらい豊かで、どの国も気候変動によって同様の影響を受ける仮想の世界を考えてみよう。この場合、気候変動対策をめぐる協調はずっとスムーズに進むはずだ。その対策が世界全体にとって望ましいものであり、かつ誰もが平等の状況にあるのであれば、その対策に反対する動機を誰も持ちえない。反対が生じるのはその対策を実行するにあたり、様々な不平等が伴うからだ。

 それでは、なぜ不平等だと協調が困難になるのか? 大昔の社会には著しい不平等があったけれど、それについて文句を言う人はあまりいなかったはずだ。アリストテレスは、異民族はものを考える力がないので奴隷になるのが適切であると、奴隷制度を肯定している。同じロジックを使うなら、「貧しい国は貧しさを甘受するべきである」とか「沿岸部の人々は自分の国が水の下に沈んでも諦めなければならない」とか言えばいいのではないだろうか。

 近代社会において、不平等を肯定するロジックは通用しない。なぜなら、近代社会には人々の自由や権利が平等に認められるべきだという倫理観が広く行き渡っているからだ。だから、今のロシアみたいに軍事力で他国を侵略する行為は国際的に厳しい非難を受ける。そうした、人々の権利を踏みにじる行為を否定するのが、戦後の国際社会が構築してきた価値観であり、倫理なのだ。気候変動についても同じだ。貧困国や沿岸国を見捨てることはできない。彼らを先進国が武力で脅して協調を強制することもできるが、それをしてしまったら、戦後構築してきた国際秩序も同時に崩壊してしまう。だから、不平等を放置して気候変動対策を進めるという選択肢は存在しないのだ。

 このように、環境政策に対して倫理は確実に影響を与えている。しかし、それは「環境倫理」ではない。そこでは「内在的価値」も「風土」も何ら問題となっておらず、問題とされているのは「平等性」や「自由」、「権利」という、近代社会における倫理的概念なのだ。この上に、わざわざ「環境倫理」を提唱する意味とは何なのか? 

 従来の環境倫理学は、環境に関して固有の倫理概念として、「自然の権利」や「自然の内在的価値」を論じていた。確かにこれらは、これまでの近代の倫理概念では捉えきれないものだ。だからこそ、環境倫理学は思弁的すぎると批判されながらもこうした概念に固執せざるを得なかったのだろう。しかし問題は、発想があまりにも突飛すぎて、多くの人にとってこうした概念は理解不能であるという点にある。自然に権利を与えてしまったら、人間は生きていけなくなるだろう。アリを潰すことがアリの権利を侵害することだとなったら歩くこともできなくなるし、空気中の微生物の権利を尊重するなら息をすることさえできなくなる。権利を与えるべき自然と与えるべきでない自然を区分するという方法もあるが、当然そこには恣意性が出てくる。「環境倫理」は無用であるばかりか、むしろ議論を不必要に混乱させるという点において有害にすらなりうる。

 従来の環境倫理学の根本的な欠陥は、人間を度外視した倫理を作ろうとしたところにあると思う。倫理はあくまで「人と人の間の道理」なのだ。倫理の主体になり得るのは人間だけだ。人間が「自然に権利を与える」という議論の進め方だと、その権利の与え方にどうしても恣意性が出てくる。そしてその恣意性は近代の重要な倫理概念である「平等性」に明らかに反している。権利は与えるものではなく、権利を求める人々がぶつかり合い議論し合うなかで少しずつ作られていくものだ。そして、そうしたプロセスの主体になりうるのは人間だけなのだ。

 環境倫理を構築するにあたり風土という観点が重要なのは、風土があくまで「人間にとっての風土」であるからだ。人間から切り離された自然などというものを風土論では扱わない。自由や平等などの近代的倫理概念だけでも環境問題をある程度は扱うことができる。しかし、それだけでは扱いきれない問題もある。何度か言及した、スーパー堤防の建設に反対する住民の問題を扱うには、やはり何らかの環境倫理が必要だろう。そうした環境倫理の構築にあたり、風土という観点は必要不可欠だと思う。

コメント

 じゃあ、風土を取り入れた環境倫理とはなんなのだい、というツッコミを入れたくなる。ただ、それが上手く言えないのだよな。どうやっても文学的な感じになってしまうし。

 ただ、私はずっと、環境問題について論じる人たちの論調に違和感をおぼえてきたんだ。たとえば最近は生態系サービスがどうこうという議論がすごく活発になっているけど、そういう議論に私はあまり興味を持てない。結局のところ、「いかに自然を人間のために持続的に利用していけるか」という問題でしかない。そういうのが大事だとは思うのだけど、でも、人間と自然の関係って、「利用」だけでは捉えきれないのではないだろうか。

 たとえば、月で人間が暮らすようになったら、自殺者がかなり増えると思う。自然が無い場所で人間は正気でいられるだろうか。コロニーの中に温室作って植物を育てたりしても、根本的に同じ事なんじゃないか。自然って、人間の身体の延長みたいなものだと思う。身体なしで人間が生きていくことはできない、というのと同じ意味で、自然なしで人間は生きていくことができない。自然のそういう側面に私は関心を持っている。ただ、そこを突き詰めて行くとどうしても文学になってしまう…。