【読書ノート】Philosophical Foundations of Climate Change Policy第5章

第5章_The Social Cost of Carbon(炭素の社会的コスト)

イントロ

炭素税をかけるのは、費用便益分析をするのと同じ事なのだろうか? まあ、そんなようなものなのだと思っていい。炭素税が課されるときに炭素を排出する活動に従事しようかどうか検討している人は、実質的に、私的に費用便益分析をしていることになるのだ。

多くの哲学者たちは費用便益分析を功利主義の変種に過ぎないものと見なした上で、功利主義を拒否する傾向がある。しかし費用便益分析が功利主義だというのは適切ではない。費用便益分析の根柢にある原則は功利主義ではなく、パレート主義あるいは契約主義なのだ

本章における私の主な目的は、気候変動政策における費用便益分析の利用を擁護することだ。

5.1. Embedded CBA(地に足の着いた費用便益分析)

現実の費用便益分析は教科書に載っているものとは全く異なる。区別のために、こういう風に分類しておこう。

  • 教科書的な費用便益分析:財政学の入門書に出てくるような費用便益分析
  • 地に足の着いた費用便益分析:現実の制度的状況において用いられている費用便益分析

費用便益分析の根柢にある原則は功利主義的なものではなく、パレート改善を生み出すことを狙いとしている。しかし純粋なパレート改善は現実世界ではめったにお目にかかれない。たとえば、あるインフラプロジェクトがいかに有益なものであっても、どんな値段を付けられても土地を売ろうとしない地主が必ず1人はいるものだ。そこで持ち出されるのがカルドアヒックス基準だ。これは、もし得する人の便益が損する人に補償できるほど十分大きければ、それは現状よりも良い選択肢だ、というものだ。これはときに「潜在的パレート」基準として知られているものだ。なぜなら、この基準が満たされるときは原則的に補償を実行できるわけだから、その帰結はパレート改善を実現したものとなるからだ。

この手の議論の進め方にはちょっとしたインチキがしばしば含まれている。カルドアヒックス基準は、まるでパレート基準をちょっと修正しただけのもののように示されることが多い。しかし、補償金額を実際には払わなくていいのだとすると、この原則は実質的に功利主義になってしまう。逆に、もし実際に補償をすることがねらいなのだとしたら、潜在的パレート基準は不要なものであり、必要なのはパレート基準だけになる。なぜなら、補償が成されるのなら、結局のところパレート改善が実現することになるからだ。

私が何を言いたいかというと、「教科書的な費用便益分析」がカルドアヒックス基準を用いているとしても、「地に足の着いた費用便益分析」ではその基準は用いられておらず、実質的にはパレート改善が目指されているということだ。費用便益分析の核心にある立場は効率性の原則なのだ。

  • 効率性原則その1.パレート改善

    • 政府は、私的主体の自発的合意では解決不可能な集合行為問題の解決を目指さなくてはならない。
  • 効率性原則その2.リベラル中立性

    • 特定の価値の正しさに訴えるような政策の採用を政府は避けるべきだ。
  • 効率性原則その3.市民の平等性

    • 政府はどの政策を追求するかを決定する際に、それぞれの市民の価値と関心に等しい重みを割り当てるべきだ。

この平等性へのコミットこそが、費用便益分析に関してもっとも議論を呼ぶ特徴のひとつだ。費用便益分析は、その政策によって生み出される利益と損失の規模を比較する尺度として貨幣を用いる。本章で私がしようとしているもっとも重要な主張のひとつは、費用便益分析において貨幣を評価尺度として用いるのは、功利主義やら新自由主義やら経済主義やらに基本的なところでコミットしているからではなく、むしろ基本的なところで平等性にコミットしているからだ、というものだ。

平等性を踏まえた決定手続はこういうものだろう。人々の関心は各人の価値体系において一定のウェイトを持つと認めつつ、その関心が誰の関心なのかを度外視し、人々のあいだで相互に比較可能な重みを持つ関心には決定手続において同じ重みを割り当てる。

これを実現するためにまず把握するべきなのは、ある問題について人々がどれほど強く感じているか、あるいはコンフリクトの原因となっている価値について人々がどれだけ強い関心を持っているかだ。そうした情報を入手するためのひとつのやり方は、次のように彼らに問うことだ。

「自分の望む帰結を実現するために、あなたたちは他の何かをどれだけ諦めようと考えていますか?」

もし、すべての人によってだいたい同じように評価されると思われる「他の何か」を見つけることができたら、それを、コンフリクトにおいて人々がコミットしている価値の相対的強度を確定する尺度として使うことができる。そうした尺度には様々な候補があるが、魅力的な性質を多く持つのは貨幣だ。それが、費用便益分析において貨幣単位で費用と便益が表現される主要な理由なのだ。

5.2 Basic Principles of CBA(費用便益分析の基本原則)

費用便益分析は、市場の失敗が発生しなかったらどのような帰結が選択されたかを決めようとする試みであるという点において、ある意味、「市場シミュレーション」の実践なのだといえる。

純化した例を挙げよう。ある自治体がある土地を入手することになり、その土地をどう扱うかを決めなければならないとする。利用をめぐって2つの提案が成された。ひとつは、土地は更地にして近所の人々のための公園にするというもので、もうひとつは、住宅開発業者に売却するというものだ。

もし、ここでの2つの選択肢をちょっと変えてみて、ショッピングモールを建設したがっている開発業者に売却するか、あるいはマンション団地を建設したがっている開発業者に売却するか、というものにしたら、問題はずっと簡単だろう。単純に、もっとも高い値をつけた業者に売却すれば良いのだ。

重要なのは、人々が何をもっとも望んでいるかを知ることだ。もしその土地の近隣に本気で住みたい人が大勢いて、それにも関わらず十分な宅地がないとしたら、マンション団地にお金を支払いたいと彼らは考えるだろうし、マンション団地の開発はより収益の見込める投資となるだろう。あるいは、もしその地域に小売店が少ないとしたら、ショッピングモールの方がより収益の見込める投資となり、商業不動産の開発業者がその土地により高値をつけるだろう。このように、土地という資源をめぐる競争入札は、資源の最良の利用法がなんであるかを発見するための方法なのだ。

ここで、公園にするか住宅開発業者に売却するかという元の問題に戻ってみよう。土地を買って公園をつくろうという開発業者たちが列をなす、などということはありえない。入園料を人々に課すことができないか、あるいはそれができたとしてもほとんどの人が来ないためお金を回収できないからだ。公園開発に関連する便益のほとんどは、正の外部性という形をとる。公園は公共財であり、その消費から人々が得られる楽しみは、誰かが独占できるものではない。そのため、市場はこうした種類の財を過小供給することになる(これが「市場の失敗」だ)。

公園自体は、政府によって供給されなければならないというような道徳的な性質を持っているわけではない。人々が享受する普通の財なのだが、たまたま、政府以外のどんな組織にとってもその財の供給を手配することが難しいのだ。もしも、SFじみた技術的介入によって問題の根柢にある市場の失敗をすっかり無くしてしまえるのなら、市場の力を利用することに特に反対はないだろう。したがって、公園を建設すべきかどうかを決定する際に政府が取り組まなくてはならないのは、市場シミュレーションを行うことなのだ。

費用便益分析に対するもっとも広く見られる根強い批判は、こういうものだろう。費用便益分析は公共財を「商品化」しているのであり、エリザベス・アンダーソンが言うところの「単なる商品と見なされる所有物ではない」はずの財に対する本質的に間違った考え方を表しているのだ。しかし、もし何かを「商品化」するとか「貨幣化」するとかいう表現が意味することが、つきつめれば仮想的な市場を想像するという行為に基づくものであれば、「商品化」することでどこに害が生じるのかはよくわからなくなる。結局のところ、公立公園を本当に商品化しようなどと誰も言っていないのだ。

5.3. CBA and Regulation (費用便益分析と規制)

公園は必ずしも典型的なケースだというわけではない。費用便益分析のほとんどの適用事例では何らかの規制が含まれるものであり、公園のケースとちがい、(ウィン・ウィンではなく)ウィン・ルーズの構造を持つ。川を水銀で汚染している工場と、下流に住んでいて自分で釣った魚を食べたい人々のあいだにコンフリクトが発生している状況を考えてみよう。明らかに、汚染に対する規制の導入はどんなものであれ工場に費用を課す一方、下流の住民たちに便益をもたらすものになる。「住民側が得られる便益は、工場の操業に課せられる費用を正当化できるほど大きいものかどうか?」というのが費用便益分析の適用によって答えが得られる問題だ。これは功利主義的計算にかなり似ているように見える。しかし、そうした見かけに誤魔化されてはいけない。規制を評価する際の費用便益分析のねらいは、あくまでパレート効率な帰結がなんであるかを決めることなのである。

コースが「社会的費用の問題」という論文で示したのは、たとえ外部性があったとしても、その外部性がどれだけ重要なものであるか次第では、市場のもたらす帰結は相変わらず効率的かもしれないというものだ。彼はこれを、農家たちの畑のあいだを通る鉄道線路という古典的な例で説明する。列車が速く走れば走るほどより多くの火花が生み出され、農作物が炎上する可能性が高まる。現状では、火花は負の外部性であり、その費用は火事により失われる作物という形で現れる。この問題にはふたつの解決策がある。鉄道会社が列車の速度を遅くするか、農家が線路との間にもっと距離を開けて農作物を育てるかだ。

コースによれば、たとえ農家に権利が割り当てられたとしても、外部性の産出が止まるとは限らない。たとえば、農家は線路との距離を空けることで(生産に使える畑の面積が減るので)80ドルの損失を被るが、鉄道会社は列車の速度を下げることで100ドルの損失を被るという状況を考えよう。もし鉄道会社に列車を好きなだけ速く走らせて良いという権利を与えるなら、鉄道会社はその権利を行使し、農家が80ドルの損失を受け入れることになるのは明らかだ。反対に、火花から農作物を守られる権利を農家に与えたとしても、帰結はまったく変わらない。鉄道会社は農家と交渉をし、線路と畑の距離を空けることに80ドルの支払いを提示することで、列車を速く走らせるための許可を得ることができるのだ。どちらのやり方でも、当事者たちは効率的な帰結をもたらす契約ができる。ふたつの帰結の違いは、純粋に分配をめぐるものであり、どちらの当事者が80ドルの損失を被ることになるか、というものだ。もし鉄道会社に権利が与えられたら、農家は(線路と畑の距離を広げることで)80ドルの損失を被る。もし農家に権利が与えられたら、鉄道会社は(農家に線路と畑の距離を広げてもらう代わりに補償金を支払うことによって)80ドルの損失を被る。しかしいずれのケースでも列車の速度は変わらず、火花の発生という形で外部性は産出されつづけるのだ。

したがって、単に負の外部性が存在しているだけでは非効率とは限らないのだ。本当に非効率なのかどうかは、外部性の費用がその人にどれだけ負担になっているか、そしてその外部性を生み出している人がどれだけ便益を得ているか次第なのだ。鉄道会社と農家のケースでは、火花を産出している状態は効率的な帰結なのである。

さて、外部性が産出されているが、当事者たちが解決のために交渉をすることができないという状況はたくさんある。たとえば、もし鉄道が何百キロという長さだとすると、農家たち全員が協力して鉄道会社相手に集団交渉するのはかなり費用がかかり難しい。ここで政府の出番だ。政府は、「仮に取引費用がゼロとして、双方が自由に交渉できるとしたら、当事者たちはどんな決定をしただろう?」と考えた上で行動することになる。まずまっさきに政府が決めなければならないのは、当事者たちが外部性の限度について実際に交渉すると思われるかどうかだ。そして、もし当事者たちが外部性の削減に合意すると思われるなら、今度は、どの水準の産出量で彼らが手を打つか見当をつけなければならない。これはまさに費用便益分析がしていることそのものだ。

コースの議論において重要な点は、分配面の問題に勝手に判定を下すべきではないということだ。素朴な人であれば、列車が火花をまき散らしているのを見て、鉄道会社が農家に害を与えているのだから政府はその外部性の産出を防ぐべきだと結論したがるだろう。しかし現実には、われわれが外部性と見なすものは、当事者間の相互作用で成り立つ複合的な産物であるのが常なのだ。鉄道会社は列車をあまりに速い速度で走らせることで農家に対し外部性を産出しているとも言えるが、逆に、農家は農作物を線路にあまりに近い場所で生産することで鉄道会社に対し外部性を産出しているとも言える。

したがって、政府は規制を加えるときに、公園建設の決定をするときと特にちがったことをしているわけではないのだ。いずれのケースでも、当事者たちがフリーライドをする機会が一切ないときに生み出したであろう帰結を、政府は生み出そうとしている。公共財の供給は、正の外部性の過小供給への対応であり、規制は負の外部性の過剰供給への対応なのだ。いずれの介入も市場の失敗の解消をねらいとするものであり、したがって、パレート原則によって正当化されるものなのだ

5.4. Objections and Replies(反論への回答)

費用便益分析の使用に対する批判はたくさんあるが、そのうちのいくつかはここで深入りするには入り組みすぎている。しかし、とくに気候変動に関わる環境政策の議論においてしばしば現れる論点のいくつかは議論しておこう。

5.4.1. The "Garbage In, Garbage Out" Objection’’(「ごみを入れればごみしか出てこない」式の反論)

費用便益分析の価値は、インプットとして用いる評価の質次第であり、一種の「ごみを入れればごみしか出てこない」という原則に影響を受ける。

これが、Peter DiamondとJerry Hausmanによる論文、「認知の価値:数が全く無いよりあった方が良いといえるのか?」の主要な論点だ。彼らは非常に重要な見解をたくさん示している。そのひとつは、人々に電話して「xに対していくら支払いたいですか」と訊ねるのは、帰結の価値を確定する方法としてはしばしば無意味であるというものだ。なぜなら、それはフレーム効果とか、アンカー効果といった、おなじみの様々なバイアスを受けるからだ。

彼らは、「全く数字が無いよりあった方がいい」という誤った推論を指摘する。この種の誤った推論が生まれるのは、同じ質の情報であっても、定性的に示されるよりも定量的に示された方がもっともらしく見えるからだ。2つの選択肢があったとして、もし片方が定性的に表現され、もう片方が定量的に表現されているとしたら、前者の方が過剰に重みを与えられる可能性が高い。この場合、バイアスを避けるには数字があるよりも無い方がよいのだ(つまり、そうすることでゴミをインプットしなくて済む)。

「ゴミを入れればゴミが出てくる」式の批判に対してきちんと反論するためには、費用便益分析が用いられるほとんどあらゆるケースにおいて、少なくとも1つの数字、つまり、費用を反映した数字は最初から利用可能であるという事実をきちんと理解しておいた方がいい。たとえば公立公園に関する費用の計算は容易だ。なぜならそれは土地の市場価格と等しいからだ。問題は必要なのは1つの数字なのか、そもそも数字はいらないのか、というものではない。むしろ、1つの数字(費用だけを反映する数字)が必要なのか、2つの数字(費用と便益の両方を反映する数字)が必要なのか、というものなのだ。

良い推定は悪い推定より望ましいものだ。たとえば気候変動に関しては、炭素削減の批判者たちが炭素削減の費用を指摘すると、支持者たちはしばしば、化石燃料を取り除くことで生み出される「グリーンジョブ」の数字に注意を向けさせようとする。これは様々なレベルで問題含みな反論の仕方だ。もっとも問題含みなのは、費用を取り上げ、それを便益として誤って分類してしまっているところだ(「有害物質の流出は良いことだ、なぜならそれによって有害物質を掃除することに従事するグリーンジョブが生み出されるから」と主張しているようなものだ)。規制にる費用に対する人々の不満に正しく対応するには、たまたま市場価格を生み出す便益を指摘するのではなく、政策がもたらす実際の便益を貨幣量で表現し、そして、それが費用を上回ることを示すべきなのだ。

最後に、費用便益分析の批判者のほとんどは、何らかの点でもっと優れた他の決定手続が存在すると信じている。もっともよく引き合いに出される代替候補は、参加型の民主的熟議だ。しかし、費用便益分析をやめてしまわなくても、そうした手続は費用便益分析に対するインプットの質を高めるのにも使えるということは知っておいた方が良い。費用便益分析の代わりに民主的熟議をするのではなく、民主的熟議をした上で費用便益分析をすることもできるのだ。費用便益分析の手続へのインプットを改善する方法には様々なものがある。費用便益分析の代替として機能し、かつ、費用便益分析自体の質を高めるのには使うことのできない決定手続を考えるのは難しい。

5.4.2. Putting a Price on Life (生命に価格をつける)

おそらく費用便益分析のもっとも悪名高い特徴は、生命の損失を取り扱う点だろう。標準的なアプローチは、生命の損失に貨幣価格を割り当てることで、他の費用と同列に扱うというものだ。これは多くの人にとって合意しがたいことであり、彼らの主張によれば、人間の生命は内在的な尊厳を持つものであり、それは価格をつけることとはなじまないものなのだ。

バーナード・ウィリアムズが示しているシナリオでは、個人(ジム)が南アメリカの小さな町に迷い込むのだが、そこでは軍隊がランダムに選ばれた20人の市民(「インディアン」)を、反政府行動を支持した彼らの村に対する集団的懲罰の一環で処刑しようとしているところだった。指揮官はジムに対し、君が村人をランダムに選び、その手でその村人を処刑するなら、他の19人の命は救ってやろう、と提案する。ジムはどうするべきか?

ウィリアムズの直観は、ジムがその提案を拒否することは許容される、あるいはおそらく義務でさえあるというものだ。つまり、無辜の人の殺害は義務的な禁止事項であり、たとえその禁止事項を遵守することよって他の人々が殺されるのが予想できるとしても、禁止であることに変わりはない。

したがってウィリアムズによれば、異なる状況下で救われたり失われたりする生命の数、あるいは発生する権利侵害の数を足し合わせる総計主義的な手続は、われわれが直面している選択肢が持つ道徳的に重要な特徴を無視していることになる。人間の生命に関して総計主義にコミットしている限りにおいて、費用便益分析はこうした制約に抵触しているというのである。

義務論者たちが考えてきたのは、「意図された帰結」を、「予期された帰結」から区別することだ。もしジムが1人の無辜の人を撃ったら、その人の死は、ジムが選択された行為によって「意図された帰結」である。もしジムが拒否したらその同じ人物は死ぬだろうが、それはジムの行為の単なる副産物である――すなわち、「予期された帰結」であるが、「意図された帰結」ではない。だから、「意図された帰結」を避けるために、ジムは提案を拒否すべきなのだ。

それなら、費用便益分析を擁護するには、費用便益分析が扱うのは人の死を「意図」する領域ではなく、人の死が「予期」される領域なのだと述べれば良い。

たとえば、政府が交通安全に費やす予算を抑えるとき、より多くの人々事故で死ぬだろうことは政府にとって予測可能な結果だ。しかしこれは、政府が何か他の政策目的を実現するために意図的に人々を殺すのと同じ事ではないのだ。

尊厳を持ち出すタイプの批判に反論する上で、議論すべき点がまだ2つ残っている。まず、費用便益分析において命の価値が500万ドルとなったとしても、それはあなたの知っている具体的な誰かの命の価値ではなく、極めて多くの人々のあいだで分布する非常に小さな死のリスクに対するわずかばかりの評価を総計したものなのだ。ここで問われているドルの値が表しているのは「統計上の命の価値」(VSL: value of a statistical life)であり現実の人間の命(VAL: value of an actual life )ではないのだ。

1/50,000の確率で死ぬリスクを生み出す汚染への暴露を削減するのに100,000人の人々のそれぞれが100ドルを支払うとする。このとき、100,000人×100ドル/人=1,000万ドルという数字が表しているのは、1人の命が救われることに対する500万ドル分のWTPなのだ(確率的にいって、汚染の影響で死ぬと考えられるのは100,000人中2人なので、WTPは1,000万ドル÷2人=500万ドル/人となる)。汚染を禁止するかどうか考慮するとき問われている問題は、この2人の命を救うことはお金を支払うに値するかどうかではない。そうではなく、集団が直面するわずかばかりのリスクを事前に削減することは、お金を支払うに値するかどうか、というものなのだ。

したがって、尊厳を持ち出すタイプの批判に反論するには、「人間の命は価格がつけられないかもしれないが、人間の命に対するリスクは価格がつけられる」とあっさり言ってしまえばいいのだ。VSLではなくVALの利用が必要となるような分野に対する適用を避けるだけで、「地に足の着いた」費用便益分析は、人間の尊厳に対するさまざまな懸念を避けることができる(気候変動政策において社会的費用の計算が考慮する死はVALではなくVSLだということは理解しておいた方がいい)。

あるいは、費用便益分析の擁護者たちは、人々が自分の死を他の財とトレードオフするような選択をするのは、現実社会において非常にありふれたことなのだという事実を挙げて反論することもできる。安全に対し無限のお金を費やしたい人はいないし、可能な限り長く生きることを人生観の中核に据えるような人はほとんどいない。バランスの取れた健康的な人生を構成する多くの善の中で、安全はそのひとつに過ぎないのだ。

もし、費用便益分析を行うことを政府が禁じられていたとしたら、政府はとんでもないハンディを負うことになるだろう。というのは、非常に多くの集合行為問題が解決不能になってしまうからだ。市場の失敗のために個々人が解決のために契約を結ぶことができない状況で、政府がそこに介入して問題を解決しようとすると、暗黙のうちに人命の「無限の価値」を貶めることになってしまう(人命の価値に関わるいかなるトレードオフも人命の価値を貶めることになるからだ)。そうなると、政府はたとえば交通システムを運用することさえできなくなるだろう。

5.4.3. Existence Values(存在価値)

こうした問題に環境倫理の立場からアプローチする多くの論者たちにとって、費用便益分析は環境に対して絶対使用してはならないものだ。なぜなら、費用便益分析は価値に関して明らかに人間中心主義的な理論にコミットしているからだ。しかし、第1章で述べたように、「人間中心主義」という言葉の使われ方には、かなりの曖昧さが潜んでいる。その主張が、費用便益分析は世界に対する人間の評価のみを考慮するというものであれば、その主張は明らかに正しい。費用便益分析が自然の生態系の破壊に関わる費用を考慮するとき、その問題に対する生態系自身の観点は考慮されていない。しかし、もしその主張が、費用便益分析は必然的に自然を道具的価値としてのみ扱い、生態系は天然資源の供給源としてしか評価されない、あるいはそれが提供するサービスの観点からしか評価されないことなら、その主張は誤りである。道具的価値のみを考慮した費用便益分析も可能だが、そこにいわゆる存在価値も含めることも可能なのだ。

原生林の保全に熱い思いを抱く人もいれば、木材として伐採した方が良いと思う人もいる。しかし、その土地をどちらが使うのが倫理的により良いことかという問題に答える必要はない。彼らのコミットメントの強さを測る一つの方法は、各人が自分たちにとっての価値のためにどれだけのことを諦めることができるか(つまり、各個人のWTPWTAはいくらであるか)を決定することだ。費用便益分析では、自然の利用価値だけでなく、存在価値も考慮するのであり、それらはいずれも金額で表現されるのだ。

おそらく、費用便益分析において存在価値を用いることに対するもっとも強力な反対意見は、存在価値は「侵害的」もしくは「外部的」な選好――他者の選好や行為を操作することを含む選好――であり、したがって、社会的厚生の水準を決定するための勘定には入れるべきではない、というものだ。この見方からすると、存在価値を含めることが意味するのは、他の領域における意思決定では誰も受け入れようと思わないような選好を導入することで、環境主義者たちが費用便益分析に関して一種のルール改変を勝手に行ってしまうということだ。たとえば、隣人の家がどんな色かということに非常に強い意見を持ち、隣人が自宅の色を変えるとなると大騒ぎしてしまうような人がいるかもしれない。あるいは、他の人がどんな本を読むかとか、どんな食べ物を食べるかについて非常に強い意見を持つ人がいるかもしれない。しかし、具体的な害がこれだと示すことができない限り――ジョン・スチュアート・ミルが大昔に主張したように――、その人がどれだけの厚生上の損失を被ろうと、それは社会的規制を支持するような議論とは見なされないのだ。

しかし、費用便益分析に存在価値の導入したからといって、そんな問題は発生しない。保全のために土地を確保したいと望むことは極めてありふれた選好であり、そうした選好に対し、市場はすでに広い範囲で対応しているのだ。例えば、CNNの創設者であるテッド・ターナーパタゴニアの原野12万8000エーカーを購入したことはよく知られている。裕福な自然保護活動家であるダグラス・トンプキンスは、生物多様性を保護するために、チリとアルゼンチンに200万エーカー以上の土地を所有している。これまでも多くのセレブや裕福な環境保護活動家が、アマゾンの熱帯雨林の広大な土地を購入してきた。また、ワールドランドトラスト、ネイチャーコンサーバンシー、熱帯雨林保全基金、カナダのネイチャートラストなど、人気のNPOも数多く存在し、決して裕福とは言えない人々が資金を出し合って土地を購入し、その土地を私的保全信託により永続的に残そうとする活動をしている。留意すべきなのは、彼らのほとんどはこうした土地を訪れる機会もなければ、何か意味あるやり方でその土地に関わることもないだろうということだ。

5.5. Climate Change (気候変動)

残念ながら、費用便益分析が受容されることを阻む、強力なイデオロギーの壁が存在する。 環境問題の多くは負の外部性によって引き起こされるため、市場は環境価値に対して本質的にバイアスを持っているものだという見方は根強い。そのため、費用便益分析が市場シミュレーションの手法なのだとしたら、環境価値に対する考え方にもバイアスがかかっているのではないか、と思う人は多いのだ。

例えば、『プライスレス』という著書の中でアッカーマンとハインザーリングは、自由市場イデオロギー規制緩和、民営化に対する批判を行ったあと、「自由市場に対する信仰の、より微妙で、より洗練された形態」と彼らが表現するパレート効率の原則に対する批判を展開する。その上で費用便益分析の否定に取りかかるのだが、その論拠は、費用便益分析が「政府のプロジェクトやプログラムの成功を測るための経済的な基準を設定しようとするもの」だからというものである。

しかし、費用便益分析は「経済基準」や市場規範を使ってプロジェクトを評価するのではなく、「パレート原理」を使うのだ。したがって、費用便益分析が市場の生み出す帰結の方向に偏っていると主張することにはなんら根拠がない。 実際、社会主義国家は規制に関して全く同じ課題に直面するだろうし、その決定を導くために費用便益分析と全く同じ原則を使用しても何の問題もないはずだ。

このようなネガティブな心理学的連想を超えて費用便益分析の真価を見極めようとすると、まだ多くの深刻な問題が残されていることに気づく。 そのほとんどは存在価値の扱い方を中心としたものであり、(種の保全などを含む)「自然保護」という見出しのもとに緩やかに分類されるタイプの環境問題に関わるものだ。 しかしこれらの問題が重要であるとしても、いずれも気候変動の問題にとっては周辺的なことだと認識しておかなくてはならない。社会的費用を計算するとなると、ほぼすべて費用は紛れもなく人間に関わるものであり、極めて具体的なもので、定量化することはそれほど難しくはない。 これに対し、自然界で脅かされている内在的価値は、人間の厚生に対して予測されるわかりやすい損失に比べれば、おぼろげでわかりにくいものなのだ。

最後に、費用便益分析を評価手法として用いないことを選択した場合何らかの他のメカニズムを提案しなければならないことは、改めて強調しておく必要がある。 リベラルな哲学者たちが代替案としてよく持ち出すのは、民主的な熟議である。しかし、民主的な熟議は現在生きている人にしか開かれない。 熟議手続きにおいて将来世代に対する懸念を取り入れる唯一の方法は、現在生きている人々が、彼らの利益を擁護することである。しかしこれは将来世代の意見を現在世代が勝手に代弁しているわけだから、平等性条件に違反している。いずれにせよ、将来世代の利益を擁護するためには、彼らにどのような影響があるのかを判断するために費用便益分析を実施する必要があるのだ。

5.6. Compensating the Losers? (負け犬への補償?)

気候変動は市場の失敗の問題である。だからその解決はパレート改善をもたらすはずだ。

しかし、緩和にかかる費用は緩和の効果が目に見えるようになるずっと前に支払わなければならない。だから、気候変動の問題に対処することは、将来の人々の生活を向上させるために現在世代が犠牲になることだ。そんな風に理解する人々は多い。

こうした理解に従うと、現在世代の犠牲に対して何か補償をしなければならないだろう。 これこそがブルームが提案していることだ。「私たちは、子孫に残す贈り物の量を少なくすることで、自分たちの費用を補償することができるのだ」と彼は主張する。これは政府の借金を増やすことで達成できるのだそうだ。

しかし「未来から借りる」ことはできないのだ。政府は国債を売ることで借金をし、その国債は、民間の個人や組織、さらには外国の政府が購入する。 つまり、政府が借金をすると、資産(個人で保有する債券)とそれに対応する負債(最終的に納税者が支払わなければならない債務)の両方が生まれるのだ。ここでは世代間再分配は行われていない。すべては世代内再分配なのだ。

ブルームが提案しているのは、われわれが炭素排出を削減することで消費が低下する分を補償するために、貯蓄を削減してわれわれの消費に回せば良いということだ。しかし、彼の言っていることは間違いだ。われわれは将来世代のために犠牲になって貯蓄をするのではなく、自分たちの老後のために貯蓄をするのだ。われわれが将来世代にする「贈り物」は、われわれが自分たちのためにやったことの副産物なのだ。

ここで、汚染を排出する工場と、その下流のコミュニティの例を再び考えてみよう。そもそも規制をするべきかどうかというのは効率性に関する問題だ。しかし、規制をしたあと工場所有者に補償をすべきかどうかというのは分配的正義に関わる問題であり、それは私たちが問題をどう受け止めるか次第だ。もし工場の方が先にそこにあって、コミュニティが後からやってきたのだとしたら、私たちは工場に補償すべきだと受け止めるかもしれない。逆に、コミュニティの方が先にあったのだとしたら、工場に補償すべきだとは受け止められないかもしれない。

気候変動に関しても同じように考えてみよう。規制をして、効率性の問題をクリアしたとしたら、今度は分配的正義の問題だ。現在世代は補償されるべきだろうか? 将来世代が現在世代のために補償の費用を支払わなければならない、というのは理解しがたい。なぜなら、温室効果ガスを排出しているのはわれわれ現在世代が自分たちの判断でやっていることだからだ。だからやはり、現在世代が補償されなければならないというブルームの考えはへんなのだ。

ブルームは、もしかしたら分配的正義に関心があるのではなく、むしろ政治的な配慮が動機としてあるのかもしれない。つまり、現在世代の負担を取り除いてあげなければ、気候変動対策は人々に受け入れられないだろうと考えているのだ。しかし、それなら炭素税を歳入に対してニュートラルなものにしてやればいい。つまり、炭素税を負担する人に対して、所得税の課税額を減らしてあげればいいのだ(グリーンシフトというやつだ)。

感想

ああ、疲れた。全訳なんかするんじゃなかった。毎日1時間くらいしかかけられないから全然進まないし、スピード重視で雑に訳すと自分で読み返しても何書いてるかわからなくなるから、全訳が終わったあとの清書だけで1週間くらいかかってしまった(もうDeepLなんか使わん)。4万字くらいあったのをなんとか1万3,000字程度まで縮められたけど、もうやりたくない。次はもっとお手軽にしよう。

「費用便益分析は功利主義とはぜんぜん関係無い」というのは私も誤解していた。便益から費用を差し引くという費用便益における操作と、「快やら不快やらを足し合わせる」という功利主義的な操作は、イメージだけだとなんとなく似ている。実際、費用便益分析を適用する対象次第では功利主義とほとんど同じになるだろう(トロッコ問題を費用便益分析で解くとか)。だけどヒースのいうように、費用便益分析の適用対象は市場の失敗が発生している問題だ。そして市場の失敗を解消すればパレート改善になる。つまり、いわゆるウィンウィンになるので、功利主義みたいに「誰かの損失を別の誰かの利益で補う」みたいなウィンルーズにはならない。そして、気候変動はまさに市場の失敗によって引き起こされるので、費用便益分析を用いることには何の問題もない、ということになる。

私が学生時代に勉強した環境経済学の教科書ではこういうことを何も教えてくれなかったよ。それで、環境評価やら費用便益分析に対してかなり反感を持っていたのだけど、本書のような説明があれば、そんな風に反感を持つこともなかったろうに。

まとめるのに疲れたついでの暴論だけど、経済学者もパレート原理のことをよくわかってないんじゃないだろうか。経済学の教科書を読んでも、パレート原理とは何なのかという説明はあっても、パレート原理がなぜ大事なのかという説明はほとんどなかった気がする。「気がする」なんてあやふやなことで暴論が許されるのですか? 許されないけど、疲れてるんですよ。

「パレート原理はなぜ大事か?」という問題は、実は環境倫理学の方で答えなければならない問題だった。だけど環境倫理学環境経済学を正面からきちんと検討してくれない。だから本書におけるヒースの議論はとても重要なものなので、本書を環境倫理学の新しい教科書にするべきだと思うよ。