【雑文】苦い顔で読書

休日は何もやる気が出ないでグダグダ過ごしてしまうので、ニーズゼロの世迷い言でも書いて、何かやった気分になろう。

アトピーになったことがきっかけで、免疫学やら分子生物学やらの入門書をちびちび読むのが趣味になった。楽しい。いや、次々とわけのわからない分子名が出てくるので、苦痛と言えば苦痛なのだけど、その苦痛も含めて楽しい。なぜなら私はマゾ気質だからだ。なんでこんな複雑なメカニズムが整然と機能しているのか。生物の勉強をしているというより、コンピュータの仕組みの勉強をしているのに似た感覚がある。

その一方で、アトピーやら感染症やらワクチンやらの話題には、必ず「へっ! 科学者どもの言うことなんて信じられないね!」という人が出てくる。最近、免疫学の世界でかなり偉い先生が書いたコロナ関連の本を読んだのだけど、人々のレビューを読むと、そういう不信感をあらわにしたものがたくさんついていた。

そういう人たちの言ってることは基本的に偏見によるものだと思う。とはいえ、その本は一般向けにかなり免疫系の話題をかみ砕いて説明している印象があった。人々がつけいる隙はそれなりにあったのかもしれない1

説明をかみ砕かないとならないのは、免疫系がおそしく複雑なシステムだからだ。初心者にとってはとっつきにくい分子名、細胞名が次々出てくるし、それぞれの相互作用のメカニズムもなかなか頭に入りにくい。ブルーバックスとかの入門書でも、レビュー欄を見ると、半分以上が「難しい」という意見で占められていることが多い。で、おそらくそういうめんどくさいシステムに関する説明を律儀に追いかけようという人は少ない。だからコロナに関して啓蒙が目的で本を書くのなら、免疫系についてかなり簡略化して説明しないとほとんどの人が本を投げ出すだろう。でも、そこで簡略化しすぎてしまうと議論の説得力が減る。そして、「こんなのは世間知らずの学者のたわごとだ!」「いったい国からいくらもらったんだこのゴミ御用学者!」のような罵詈雑言が投げつけられることになる。

というわけで、科学啓蒙書の執筆者は、「読みやすさ」と「正確性」のトレードオフ関係をいかに見極めるか、という難問に悩まされることになる。アマチュアの科学オタクみたいな人を相手にするのなら、「読みやすさ」をぐっと低くして、「正確性」を高めに設定しても、ちゃんと読んでくれるだろう。でも、コロナみたいなのがテーマだと、とにかく「読みやすさ」を高めないと話にならない。だって、啓蒙が目的なのだから。だけど、「読みやすさ」を高めていくと「正確性」がガンガン減ってくる。で、正確性が減少すれば、説得力も弱くなる。そのため、「納得できない」という人がたくさん出てきて、レビュー欄は罵詈雑言で埋まることになる。

一方、「読みやすさ」を追求した上で、なおかつ読者に強く共感してもらう、というやり方もできる。つまり、読者の不安や怒りに同調するようなことを書けばいいわけだ。で、当然、そういう本は売れる。だって、「読みやすさ」と「共感性」の両方があるわけだから。トレードオフを慎重に考えた末に「中途半端な読みやすさ」と「中途半端な正確性」を持つ本を出したって、売れない上に、罵詈雑言を喰らってしまう。真面目に頑張れば馬鹿を見るのだ。だったら、トレードオフ計算なんて投げ出して、「読みやすさ」と「共感性」の追求にシフトする、というのは戦略としては理解できなくはない。「何が悪いというんですか? 読者もハッピーになれるし、私もハッピーになれるんです。みんなハッピーハッピーですよ!」ハッピーな笑顔のまま、みんなどんどん体調が悪くなって死んでいくかもしれないけどね…。

「いや、ハッピーハッピー教の人たちが勝手に自滅して死んでくのならそれはそれでいいじゃないですか、自己責任ですよ」という考え方もある。だけど、感染症だと他の人にもリスクをまき散らすことになるわけだし、放置はできない。また、ハッピーハッピー教の人たちも、べつに根は悪い人じゃないのだし、彼らもまた被害者なのだ。じゃあ、ハッピーハッピー教の教祖様が悪いのでは? まあ、そう考えるのが妥当かなあ。だけど、教祖も教祖で、自分がつくりだした迷妄にとりつかれ、自己催眠状態にかかっているのかもしれない。と考えていくと、ハッピーハッピー教の人たちやその教祖様をやっつければ問題は解決だ、という風に考えるんじゃなくて、簡単に共感してハッピーになってしまうこの人間という生物のシステムに欠陥があるのだと考えた方がいいのではないかと思えてくる。

人間はよくわからん生き物だ。体内の免疫系はこんなにも緻密なのに、一方で、簡単にハッピーハッピー教の信者になってしまうという脆さもある。そういう「思想感染」みたいなものに対しても何か免疫系的なものがあればいいのだけど。うーん、あんまり思い当たらない。少なくとも、思想感染に対する生得的な自然免疫は備わってなさそうだ。後天的な免疫はあると思う。学校教育というワクチンによって得られる獲得免疫だ2。ただ、それは免疫としてちょっと頼りない。というのは、思想感染の媒体となる「思想ウイルス」は次々と変種が登場するからだ。学校教育だけではすべてのウイルスに対応できるような免疫をつくりだせない。

すると、あとは自助努力で、本でも読みなさいということになるのだろうか。しかし、本こそまさに「思想ウイルス」そのものなのだ。ウイルスっつったっていろんなのがあるので、無害なのもあれば、有益なのもある。だけど、うっかり有害なのに感染してしまうとまずいことになる。どの本を読むかは個々人の自由に任されている。すると、いったんへんな「思想ウイルス」に感染してしまった人は、そうした思想と整合的な本を次から次へと読みあさり、その偏った思想をますます偏らせていくことになるだろう。

学校教育は、個々人の好みは無視して必要なことを強制的に教える。だから、自然とバイアスは取り除かれることになる。もちろん、文科省の指定する教育内容自体にバイアスが入り込むことはあるけれど、少なくとも個人ベースのバイアスは除去できる。一方、個人が自由に本を読むという状況だと、本を読む人の方がかえって偏見まみれということにもなりかねない。かといって、学校教育を終えた人たちに対し読む本を強制するわけにもいかないし…。

個人レベルで自主的にできることと言ったら、ときどき自分の趣味とぜんぜん違う本を読んでみる、ということくらいしか思いつかない。あと、できるだけめんどくさい本を読むことだろうか? 

初心者向けにかみ砕いた本というのは、「なぜそういう結論が出るのか?」というプロセスをかなり端折っているものだ。すると、読んだ人は結論だけを知って、何かわかったつもりになってしまう。それもまた一種のハッピーハッピー教だ。本を読み「A」という結論だけ知った人が「Aだ!」と主張する。「え、なんで?」と聞かれても「AだからAなんだ!」としか答えられない。それに対して「Bですよ」と反論する人がいたら、「AだからAなのにBだって言うお前は何もの? ねえ。Aですよ。A。Aにしましょうよ。Aということにするとハッピーになれますよ!」となって、これは無敵の論法だ。あとは勢いと熱いハートさえあればどんな敵だってやっつけられる。

ハッピーになれなくてもいいよ。私は苦い顔をして、読みにくいめんどくさい本を読んで不幸になります。

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  1. もちろん、学者の言ってることの方がまちがってるということはあり得る。だけど、きちんとした学会誌に論文をコンスタントに書いてたり、著名な学会で学会賞を受賞したりしてるような人がその人の専門に関して発言していることは、だいたい正しいと考えていいんじゃないだろうか? (「きちんとした学会誌」とか「著名な学会」とは何か、というのは調べればなんとなくわかると思う)。まともな学者の書く本にはだいたい参考文献リストが載っている。その人の言ってることに納得いかないなら、参考文献リストに載ってる論文をチェックすればいい。「すればいい」ったって、もちろん、普通の人はそんなことできない。できないからこそ、一般向けの本を読んでいるのだ。だけどね…。ぼーっと口開けて待ってれば誰かが正解を教えてくれるわけではないのだから、本に書いていることに納得いかないのなら、おっくうがらないで自分で勉強するべきだと思う。とりあえず高校まで卒業した人なら、大学初年度向けの教科書を独力で勉強して理解する力は備わっているはずだ。で、そうやって教科書で勉強していけば、初心者が一般向けの本を読んで抱いた疑問というのは大体の場合解決されてしまうものだと思う。それでも納得いかなければもっとレベルの高い専門書にチャレンジすればいいし、それでも納得いかなければ当の論文を読んで(この時点ですでに読めるレベルに達しているだろう)、その論文のダメなところを指摘して著者に送りつけてやればいい。「そんなことしたら学者になっちゃうじゃないですか」うん、なればいいと思うよ。疑問を持つからこそ、人は学者になるのでしょう。でも、多くの人が思いつくような疑問というのはたいていすでに誰かが手を付けているものなのだ。だから、教科書を読めばだいたい答えが載ってる。それでも納得いく答えが見つからないとしたら、それは画期的な研究の萌芽かもしれないし、あるいは人類には答えようのない形而上学的な難問なのかもしれない。
  2. ここらへんの比喩はすごく雑なのをわかって書いてる。ワクチンは免疫機構を活性化させるためのものなので、そもそも生得的な免疫機構がないのなら、ワクチンをつくることはできない。だから「ワクチン」という比喩は不適切だ。むしろ、学校教育も一種のウイルスだと考えた方がいいのかな? 学校教育の役割は、子どもにいろんな思想ウイルスを受け入れさせることによって個々人のなかでのウイルスの多様性を高め、特定のウイルスだけが支配的になるのを防止することだ、という風に理解できるかもしれない。農業とかでも、田んぼの中での生態系の多様性が減ると特定の病気が蔓延しやすくなる、というのをどっかで聞いたことがあるし。「思想の多様性が低いと思想が偏りやすくなる」というのは、まるで循環論法のようだけど、そうでもないと思う。ようするに、いったんバランスが崩れると、そのバランスの偏りがどんどん増幅されていって、結果的に極端化してしまう、ということ。