かなりひどいアトピー性皮膚炎になってしまって、先週まで体中に炎症に広がって大やけどみたいな感じになっていた。ステロイドを塗ったり、抗ヒスタミン薬を飲んだり、保湿剤を塗ったり、加湿器を導入したり、部屋のハウスダストを徹底的に除去したりして、ようやく良くなってきた。なので一件落着なのだけど、アトピーのことを調べていくうちに面白くなってきて、ブルーバックスで関連書籍を読み続けている。たとえばこんなの。
免疫系って、登場人物が無際限に増えていく推理小説みたいな感じで、何度も読み返さないとストーリーがぜんぜん頭に入ってこない。おまけに、推理小説と同じで、途中まで無害だと思われていた登場人物が、実は炎症を引き起こす犯人だったりするのだ。私のように、普通の推理小説さえも登場人物をおぼえるのが面倒で投げ出してしまう甲斐性無しには、ちょっとした拷問だ。しかしその拷問に耐えるとだんだん楽しくなってくる。自分の体がどんな風に機能しているのかというのが分かってくると、体のなかがひとつの町みたいに賑やかな空間に思えてくる。『はたらく細胞』に描かれている世界がリアルに体内に感じられるようになってくる。
哲学だと、ロックみたいに「人間は自分の身体を所有している」なんて簡単に言うことがあるけれど、そんなわけねーだろ、と言いたくなる。こんなに思い通りにならないものを「所有」なんかできるわけないし、そもそもその「所有」をしている「私」はいったいどこにいるのかもよくわからんし。免疫系は自己(つまり身体の細胞)と非自己(ウイルスとか菌)を判別するセンサーを持っているけれど、だったら個々の身体細胞が「私」なの? 身体細胞である「私」が身体を所有するって、何を言っているのかよくわからない。よくわからないことを平気で主張するロック君は免疫系の勉強をして出直してくればいいと思う。あ、もう死んでるから出直せないか。R. I. P.
ブルーバックスを何冊か読んでみて、やっぱり理系楽しいなと思うようになった。私はいちおう文系だけど、大学2年生くらいまでは理系だったのだ。で、理系にとっての「わかる」と、文系にとっての「わかる」って、ぜんぜん違うよなあと改めて思った。さっきのロックの話にしても、「私は身体を所有している」なんて、哲学だったらそう言い切っちゃえば通ってしまうけど、理系的には完全にアウトな主張だ。だって、そこで言われる「私」がなんなのか定義されてないし、「所有」の定義もないし、何がどうなったら「私は身体を所有している」という命題が実証されるのかもわからない。実証不可能なことを主張しているのだから、それは単なるロックの信条表明にすぎない。「私はこう思いたいのです」というだけのことだ。そして、そういうへんな主張をベースにして「自然に対して労働したらその自然を所有できる。なぜならその労働は私の身体によるものであり、労働を介して自然に私の所有権が与えられるからだ」とかいうまたへんな主張につなげてしまうのだから、どんどん話がへんなことになってくる。早く安らかに眠ってくれ。
いや、それは昔の人だからそういうへんな考え方をするんじゃないですか、と言われれば確かにそうなのだけど、ただ、文系の場合、「わかる」の水準は一般的にかなり甘い気がする。これは現代でもそうだと思う。文系の世界にいて、文系の勉強ばかりしていると気づかなくなるけれど、たまに理系に触れてみると、ああもう、文系ぜんぜんわかってないじゃん、そんなことなんで言えるのさ、と思ってしまう。私もよくやるのだけど、社会学的なテーマのアンケートで重回帰分析とかやっても、決定係数はせいぜい0.15とか0.20とかしか出ないことが多い。つまり、データの変動の15%とか20%くらいしか説明できてなくて、残り85%とか80%とかはブラックボックスの中だということだ。おまけに、そのアンケート自体も回答者が主観で答えているのだから尺度の間隔は一定にならないし、Web調査だったりすると真剣に答えてるのか適当に答えてるのか区別することもできない。つまりデータ自体がめちゃくちゃあやふやなものなのだ。それで「この変数が有意になったから仮説Aは実証されました」とか言ったって、「だから?」という感じがする。その程度の「わかる」では、予測に使うこともできないし、現状に対してなんらかの介入をする根拠としてもかなり危なっかしい。これに対し、理系の人が「樹状細胞は抗原をヘルパーT細胞に提示し、ヘルパーT細胞はつづいてB細胞を活性化する」と主張するのなら、実際にそれをかなりの精度で裏づけるデータがあるということだし、それに基づいてなんらかの治療法を開発し、その効果を検証できるということだ。つまり、「わかる」の水準が、理系と文系ではぜんぜん違うのだ。まあ、理系文系ってのもめちゃくちゃ雑な分け方なのだけど、便利だからそういう分類が成り立つということにしておこう。
文系の人はだいたい文系の本や論文しか読まないものだと思う。でも、ときどき理系の文献を読んでみてその「わかる」の水準の高さに圧倒されるのは良い経験だと思う。もちろん、だから理系の方が優れているということではない。文系が扱うのは人間であって、細胞とかウイルスとかに比べ、その行動をパターン化することがメチャクチャにむずかしい。白血球ならサイトカインが放出されれば集まってくるけれど、人間の場合、お金がばらまかれても集まってくる人と集まってこない人が分かれる。個体差が大きいし、その個体ごとにも行動パターンの変動がみられる。それは文化的なものによる影響もあるだろうし、合理性的思考によるものかもしれないし、社会制度のような周囲の環境を外的足場として活用したからかもしれない。人間の行動は「わからない」のが当たり前なのだ。それをむりやりわかろうとしても、部分的にしか説明できず、ほとんどはブラックボックスのなかだ。だから理系からすれば、ぜんぜんわかってない、ということになる。その「わからなさ」を自覚するのはとても大切なことだと思う。人間をわかったつもりになることが一番危ないことだと思うので。こないだ亡くなった私の師匠は「社会科学を社会に役立てようなんてとんでもない話だ」とよく言っていた。役に立たないということで開き直っているというよりも、そもそも社会科学はそんなにたいした水準に達していないのだから、それで社会をコントロールしようとしたらアホなことになる、ということを言いたかったんだと思う。私もそう思う。免疫学にもとづくアトピー治療を受けることに恐怖はないけれど、社会科学にもとづく政策(ナッジとか)にはちょっと警戒してしまう。